北奥法律事務所

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今年の石割桜が見届けた事件たち

盛岡も石割桜が満開となり、快晴の中、多くの観光客が訪れていました。

そんな日に限って午前に調停期日があり、諸事情により直ちに調停が成立し終了するかと思ったのですが、毎度ながら延々と待たされ、結局、毎度ながら2時間以上(うち1時間半くらいが待ち時間・・)という有様でした。

色々と悩ましい事件で、依頼主が複雑な思いを伏せつつ窓の外を向いていた横顔に、代理人として何をすべきか、何ができるか(できたか)、考えずにはいられないものがありました。

午後には、盛岡圏内で生じたビジネス上のトラブルに絡んで、ある大企業に契約違反などを理由とする損害賠償請求をしている裁判の期日がありました。

軽口好きの身には、盛岡地裁が1年で一番華やぐ日に東京から出廷した相手方代理人に対しては、訴訟での対決はさておき、とりあえずラッキーでしたねと言わずにはいられない面があります。そんなわけで一首。

先方に今日が期日でよかったねと毎年述べる地元弁護士

ただ、去年の同じ頃に期日があった事件で遠方から出廷した相手方代理人は、そんな私のセリフに破顔一笑していましたが、今年の相手方代理人の方からは「お前は何を言っているんだ」と言わんばかりの仏頂面でサクッと黙殺されてしまいました・・

で、法廷の帰りに「桜に興味がないのかなぁ、これだから企業法務中心の大事務所の人は・・」などと独り呟いたところ、危うく裁判所の階段を踏み外しそうになりました。

私がもっと元気よく話せば言わんとすることが伝わったのかもしれませんが、ともあれ、つまらない愚痴などを言っても我が身に跳ね返ってくるばかりなのでしょうから、なるべく前向きに生きたいと思います。

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観応の擾乱と北の「バサラ猿」たちが追いかけた夢

昨年末ころ、亀田俊和「観応の擾乱」(中公新書)を読みました。

最初、この本を書店で見つけたときは、1年ほど前に一世を風靡した中公新書の「応仁の乱」の著者が次回作として書いたものと勘違いし、「二番煎じか、だったらいいや」などと思っていたのですが、よく見たところ著者は違う方だし、応仁の乱は買うかどうか迷っているうちに時間が経ったので古本屋で探そう、それよりも、応仁の乱以上に実情がよく分からないこっちを買ってみよう・・と思って購入したのですが、程なく、驚くべきことに気づきました。

この著者の名前に見覚えがあるような・・と思って末尾の経歴欄を眺めたところ、1973年秋田生まれ、平成9年に京大の文学部卒って、高校の仲間内に似たような奴がいたな・・・と思ってネットで検索したところ、

アアァァッッッ・・!!! と雄叫びを(自宅内で)あげてしまいましたよ。

著者の亀田俊和先生は、紛れもなく私の高校時代(函館ラ・サール)の同期生で、寮(1年生の100人部屋)のベッドも割と近い位置(オとカなので)に住んでおり、私と同じ「北東北の片田舎(彼は小坂町)から出てきたお上りさん?同士」ということで、それなりに仲良くさせてもらっていた方に間違いありません。

2~3年生の頃の彼の成績は記憶がありませんが、少なくとも1年生の頃に関しては、入学直後から数学と理科(化学)で撃沈した私ほどでないにせよ、「日本史は得意だが、他の教科の成績はパッとせず、運動もできない者同士」ということで、多少は連帯感があったような、逆に「鏡に映った自分のように見たくない感じ」もあって互いに敢えて接近しないようにしていたような、「付かず離れず」の微妙な関係性があったという記憶があります。

ただ、卒業のときか後日(大学生の頃?)かは覚えていませんが、彼が京大に合格(入学)したという話を人づてに聞き、高校1年の「どんぐり仲間」の一人だったことしか覚えていない身としては、カメって実はそんなに優秀だったのか、一体いつの間に勉強やってたんだと驚愕したことはよく覚えています。

とまあ、つまらない曝露話?はさておき、彼が、当時から中世史なかんずく南北朝時代に関心が強いことを公言し、歴史研究者志望だと語っていたこと、彼の机に置かれていた幾つかの本の中に、「ばさらの群れ」という本(童門冬二氏の小説)があり、「ばさら大名が好きだ、佐々木道誉とか」などと話していたことは今もはっきりと覚えています。

私自身は、特定の時代(まして、マイナー?な南北朝)に関心(こだわり)がなく、むしろ、歴史の全体をざっと見つつ現在の社会(特に北東北)との関わりを知ることに興味があった上、高校時代は、試験勉強を超えて、学問としての歴史に深い関心を抱くには至りませんでしたので、「佐々木道誉って誰だよ、こっちは足利直義と護良親王くらいまでしか分からんぞ」という体たらくで、亀田君と歴史談義をするなどという関係を築くことはできませんでした(今思えば、惜しいことをしたのかもしれません)。

ともあれ、本書を拝読しながら「~という出来事は興味深い」の言葉遣いが多すぎるぞ(見開きで3カ所くらい出てくる頁あり)とか「寮生(しかも受験期)なのに毎週、大河ドラマを見ていたのか?テレビが1台しかないのに取り合いはなかったのか?」などと余計なことを思いつつ、彼も高校時代に求めた道をこうして実現したのか、と感慨を抱かずにはいられませんでした。

すでに何冊も出版されている石川知裕君(もと衆院議員)も、著書によれば、高校時代から政治家を志していたとのことであり、また、この高校の性質上、医学部を目指して難関校を突破し現在も全国或いは世界で活躍されている(であろう)方々は何人も存じていますが、歴史学者になりたいと述べ、それを実現し、当時から関心を持っていたライフワークというべきテーマで中公新書の出版まで成し遂げたという方は、同期では亀田君だけかもしれませんし、亀田君もまさに「夢を現実とし、今もその過程を駆け抜けている真っ最中」なのだろうと思えば、胸が熱くなるものがあります。

それに対して我が身は・・となると、大卒2年で司法試験に合格できたまでは良かった?のかもしれませんが、今や、うだつのあがらないちっぽけな田舎の町弁として、雑多な仕事に従事しつつ事務所の存続(運転資金=売上確保)に追われるだけの日々という有様に堕してしまったように思わないでもありません。

私の高校のときの夢は、弁護士とか医師とか学者とか、具体的なイメージを抱くレベルには至っておらず、ただ、学力をはじめ、自分が到底及ばない強い力(オーラ)を持った凄い人達に会いたい、その背中を追いかけながら、いつしか「高校時代から外の凄い世界を見てきた人間」として、郷土に意義のある何らかの貢献をしなければならない(そうでなければ、岩手を離れて函館に来た意味がない)、という漠とした気持ちを持ちながら、現実には授業を追いかけるので精一杯という日々でした。

そうした初心に立ち返り、改めて自分ができること、すべきことを見つめ直すという意味では、今、亀田君の著作に出会えたことは、幸いなことというべきなのかもしれません。

ところで、ここまで書いてきて「書評」的なものを全然書いていないことに気づきましたので、一言触れておきますと、本書は、観応の擾乱の全体像(高師直の失脚を中心とする第1幕と、尊氏vs直義の決戦と南朝勢力などを巻き込んだ大混乱を中心とする第2幕)を様々な事象を紹介しつつ説明しており、その点は中公新書らしい?マイナー知識のオンパレードというか、中世史を相応に勉強した人でないと、スラスラ読むのはしんどい(また、末尾に人物や制度などの索引が欲しい)という面はあります。

ただ、擾乱の主要な原因について、単純な(師直と直義の)路線対立というより、幕府(足利勢力)が北条氏や建武政権の打倒に伴う論功行賞(恩賞)やそれに付随して生じた紛争(訴訟)の処理を円滑に進めることができなかった(紛争解決制度が未整備だった)ため、それを担当した責任者(最初は師直、次いで直義)が結果として多くの武士(御家人)の反感を買った(信望を失った)ことが、失脚(その前提としての混乱)の原因であり、擾乱の過程を経てそれが整備されたことが、義詮・義満期の室町幕府の安定・興隆の基盤となったと説明している(ように読み取れる)点は、紛争解決という観点からは、興味深いものを感じます。

本書は、冒頭から足利政権(発足直後の幕府)の紛争解決制度(訴訟など)に関する説明に大きな力点が割かれており、当時、土地を巡る紛争が多発して政権がその処理に負われていたこと、また、鎌倉幕府の訴訟は判決=宣言をするだけ(下文)で、執行力がない=自助努力を要求された(判決は自力執行を正当化する根拠として機能するに過ぎなかった)が、足利政権の発足後、徐々に、判決を強制執行する制度(執事施行状)が用いられるようになったことなどが説明されており、建武新政の破綻要因の一つが新政権が迅速・適正な紛争解決ができず多くの人々の失望を買ったためとされていることと相俟って、色々と考えさせられるものがあります。

また、師直は執行(執事施行状)を通じた迅速な紛争解決を優先したものの、不満も多く寄せられたため、長期の慎重審理=理非究明を重視して師直と対立した直義に支持が寄せられたことが擾乱第1幕の主因の一つであるとか、その後は逆に直義の手法が支持を失い、尊氏・義詮政権のもとで迅速解決型の手法が整備されて安定期に向かったという記載も見受けられ、そうした「紛争解決制度の未整備による混乱が政争の大きな要因になった」という指摘は、紛争解決の実務に携わる者にとっては学ぶところがあるように思います。

ともあれ、いつの日か亀田先生に再会し、私の手元に保管しているご著書にサインをおねだりできる日を楽しみにしています。

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そだねDAYONEんだべ

時機遅れの投稿ですが、平昌オリンピックでカーリング選手の方々が脚光を浴び、「そだね~」が流行語になりCDデビューするのではなどという記事もあったかと思います。

また、最近では、北海道の著名企業などが、これ(そだね)を商標登録出願したため当否が論争になっているという記事も出ていました(商標法3条1項4号などの当否が問題になるのでしょうか)。

私の大学時代ですから25年以上前のことですが、「DA.YO.NE」という曲が一世を風靡した際、南部地方の人々も、便乗して地元方言で替え歌を作って世に問えば良いのにと思っていたところ、岩手ではなく他の地域でそのような動きがあった(ものの、さほど流行らずに終わった)ことがあったのを、少しばかり覚えています。

折角、似たような言葉が北海道から出てきたのですから、改めて、次のような替え歌を地元の著名人がユニットを結成して展開してみるのもいかがでしょう。

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んだべ んだべ 
へねばなんねべなそだなとぎだばな

んだべ んだべ
 へねばなんねべなそだなとぎだばな

あのなはん、おらの●●
おったまげるほどおどごぶりコよくて
(中略)

そったらごどだば、まんつんがのほが2号さんだごったよ
んだべ・・
(以下略)

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私と世代が異なるなど元ネタの分からない方は、こちらのサイトなどで歌詞をご覧いただければ良いのではないかと思います(私もグーグル検索して見つけただけなので、引用して良いのか分かりませんが・・)

「彼氏」とか「交際相手」にあたる南部弁(東北弁)が存在するのか分からないので●●の状態ですが、どなたか、気の利いた言葉をご推薦いただければ幸いです。

こうした話に限らず、自分達の文化の中にある素材を生かして全国・世界から「やるじゃないか」と評価される何かを伝達する営みがもっと盛んになればと思います。今なら「若竹さんに続け」が合言葉でしょうか。

高速利用者の途中下車の促進策

高速の出入口付近にある道の駅の利用活性化や高速利用者の便宜の目的で、1時間以内にICに戻れば料金は据置とする制度が導入されるとのことで、岩手では九戸ICのそばにあるオドデ館(道の駅おりつめ)が対象となっているそうです(岩手日報の3月1日の記事ですが、すでにWeb上で閲覧不能となっており、やむなく転載しているサイトを見つけたので貼り付けます)。
http://ayame.walkers.tokyo/iwate/iwatesan/43718
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20180301_6

私も、先日投稿した1月の久慈出張の際、数年ぶりにオドデ館に立ち寄りましたが、一般論として、昼食時などは待ち時間のため食事だけで1時間ギリギリになることが多いでしょうし(間に合わないときのストレスは強烈です)、物販コーナーの立ち寄りも考えたら、1時間半は確保した方が良いのではと思います。

盛岡駅北のマックスバリュは「入庫30分は無料、1000円以上の購入で90分まで無料」のルールですが、購入時にETCカードを提示する(カード読取機で対応?)ことで、同じやり方ができるのではないでしょうか。

また、高速利用者の便宜を道の駅だけの利権にする理由もないでしょうから、高速の出入口付近の飲食店などもそのサービスを利用できる(道の駅も含め、利用店舗は一定の負担金を高速側に払う方式とする)ようにすれば、なお良いのではと思います(この記事も、単に1時間以内で戻れば無料というだけで道の駅利用が強制されないなら同じことではありますが、記事の内容だけでは判然としません)

まあ、根本的には、わざわざ途中で降りて立ち寄る人がどれだけいるのか、皆さっさと目的地に向かいたいのではないか、また、顧客吸引力のある商品をどれほど提供できているのか(それが先では)というべきかもしれません。

個人的には、給油利用が一番ニーズがありそうな気がしますが、それを目的にしてしまうと、高速の運営企業(NEXCO東日本)に嫌がられるのでしょうね・・

町弁が久慈に来たりて じぇじぇ歌人

昨年末頃から業務と私用で一杯一杯の状態が続き、とりわけ2月になって書面の締切が続いたことから、ブログの投稿が困難となっています。

久しぶりに少し一息ついたので、1月下旬に弁護士会の企画で久慈商工会議所での相談会を担当したときのことについて載せることにします。

午後1時から午後3時まで2時間(30分ごと計4人)の枠が設けられていたのですが、前日の昼の時点で予約ゼロと報告されたので、応募するんじゃなかったと後悔したのですが、夕方になって1件予約ありとの連絡があったので、エア宅急便だけは免れたと思いつつ、久慈に向かいました。

この日は東京は大寒波に見舞われていましたが往路は順調そのもので、想定より1時間近く前に到着したので、思い切って小袖海岸に向かうことにしました。

小袖海岸のシンボルの一つである「つりがね洞」は昔から存在だけは知っているのですが、これまで訪れるたびに通行止め(工事)やら時間切れやらで赴くことができず、今回こそはと思って行くことにしたものです。

で、最初の「行けなかった日」である修習生のときから数えて足かけ20年ほどを経て、ついに、つりがね洞に辿り着きました。

昔は「洞」の内部に岩が鐘のようにぶら下がっていたそうですが、今は鐘を無くした空洞がその名称と共に欠落を強調するかのように存在感を訴えているように見受けられます。

そんな光景を眺めつつ自分の心にも開いた穴があるのだろうかなどと思って一首。

人生の峠を越えて見る海は 夢の隙間を埋める旅路か

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小袖海岸の海女センター周辺は、1~2年前に大手生保会社さんのご依頼で相続セミナーを久慈で行った際に山側ルートでチラ見だけしましたが、折角なのでそこまでは行くことにしました。途中の海岸線は、内陸部とは違った冬の厳しさ、美しさを感じさせる見応えのある光景になっていました。

荒磯の波と雨雪 あのひとの涙と思い寒さかみしむ

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なんだか短歌というより演歌みたいな感じですが、ともあれ、ゴールの夫婦岩まで到着し、去り際にまた一句。

おらおらで じぇじぇじぇの浜に ひとりいぐ

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商工会議所に到着した際は目の前のお寿司屋さんにも行きたかったですが、悲願?の小袖海岸を優先したため、昼食は、泣く泣く寿司を諦めてコンビニサンドで済ませました。

で、会場に戻ったところ予約の1件のほか新たにもう1件追加申込があり、2件分の相談対応をしてきました。

双方とも弁護士への相談が必要相当な案件で、うち1件は訴訟受任などの可能性を含めた会社業務に関する様々なご相談があり、1時間近くも要するものでしたので、結果として久慈まで往復した甲斐はあったと思います。

午後3時過ぎに終了となり、道の駅でウルイやサメの切り身など「自分用の土産」を買い込んで久慈を出発しました。九戸ICまでの北上高地は降雪で白一色に染まった森を微かな陽光が照らす幻想的な姿に包まれており、その光景に溶けてしまいたいと思いながら、快適に走行することができました。

銀世界 白に消えんと願う身の 胸の残り火 そを妨げる

ところが、なんということでしょう。

浄法寺ICに辿り着くと通行止めを理由に強制退場を余儀なくされました。盛岡では大雪状態という情報は得ていましたが、浄法寺の空は何の問題もない薄曇りの晴天で、これで通行止めと言われても納得できません。

ただ、どうせ安比~安代周辺=奥羽山脈の吹雪が原因だろう、松尾ICに着けば高速に戻れるだろう、吹雪が終わったのなら安代ICで復帰できるかもと淡い期待を抱いて、4号線に戻らず、そのまま安代=高速沿いに県道を南下することにしました。

すると、少し調べたところ、滝沢ICまで通行止めになっているとのことで、これでは途中で高速に戻ることもできず、並行路(国道282号)は同じ境遇の車両で大渋滞は不可避と思い、いっそ一戸に戻り国道4号線で南下する方が賢明かとも思いましたが、すでに安代IC近くまで来てしまったので、今更と思い、やむなくそのまま南下を続けました。

やはり、安比が近づくにつれ国道は混雑気味になり、これでは1時間で足る帰路が3時間以上になるかも、と意気消沈せざるを得ません。そんなわけで、安比の温泉地帯を横目に峠道を上り下りしながら一首。

高速が止まりまさかの大迂回 雪見温泉 寄る金もなく

結局、安比(竜ヶ森)の峠を越えて松尾八幡平ICの手前に辿り着いた時点で、ちょうど通行止めが解除され、無事に高速で盛岡に戻ることができ、通常の1時間遅れで済みました。

帰宅後、朝には晴天だったとはいえ、こんな日に洗濯物を外に干した我が身の愚かさを呪ったことは申すまでもありません。

朝日を浴びて輝く金色堂を世界の人々が拝むことができる日

先日の日経新聞の「日経プラスワン・何でもランキング」は、外国人がゆくディープジャパンのテーマで、1位が高野山、2位が鋸山、3位が祖谷かずら橋になっていましたが、表示された15位圏内に東北が1箇所もありませんでした。

「自国であり得ない風景や体験を求める」なら金色堂を知らんのか、さらに言えば、今や福島第一原発こそ一番のディープ(ブラック?)じゃないかと、東北人としては納得できない結果になっています。

それどころか、記事の横に「静かな地方都市が旅のクライマックス」と題されているのに、そこに列挙された諸都市(函館、金沢、沖縄など)にも東北の姿はなく、壊滅的敗北というほかありません(調査は、訪日経験ある米国・豪州人144人を対象としたものとのこと)。

ただ、よくよく考えると、金色堂も、覆堂のため外からは全く見えず、内部は写真撮影禁止のため、インパクトのある姿をブログ・FB等で拡散(宣伝)してもらうことも期待できずということで、自ら情報発信の努力を怠っている?と言われてもやむを得ないのかもしれません。

で、海外には他に黄金寺院はあるのだろうかと思って検索したところ、インドやタイ、ミャンマーなどに巨大な黄金寺院があり、そちらは丸見えの姿になっているので、夜景や夕暮れなど、見応えのある写真が山ほどネットで閲覧できました。

多雨・降雪などの問題がある日本では(中尊寺の財力の問題も含め?)修復リスクの大きい野ざらしは困難なのでしょうが、可能であれば、覆堂を撤去し防水・防弾などを備えた強力なガラス(或いは最近の水族館で使われている強化プラスチック)で、現在の覆堂と同程度(或いはそれよりも広く)囲むような形で設ければ、「周囲の自然と金色堂が一体となった風景」を演出できるのでは?と思わないでもありません。

また、金色堂が撮影禁止になっているのは「室内ではストロボ(フラッシュ)が金を劣化させるからだ、室外ならそのような心配はない」と書かれた記事を見かけたので、屋外からガラス(プラスチック)ケース越しに撮影する形なら問題ないというのであれば、外観は写真取り放題ということで、世界への発信力も大きく期待できると思われます。

ただ、現在のように金色堂の扉を開けた状態で公開できるのかという問題があるかもしれませんが、年に何回か一定の時間を区切って扉を開けた状態で公開し、さらに言えば、相当な手続をとって許可を受けた人は、その際にケースの中に立ち入って直に金色堂を拝めるようにすれば、なお良いのではと考えます。

金色堂は「古くから西洋人すら憧れた黄金の国ジパングの象徴」として、平泉の成り立ちや思想と共に知名度を高める努力が求められると思いますし、現在の技術で、寺院保護と屋外展示化の双方を両立できることが可能であれば果敢に挑んでいくことが、現代の岩手人の責務ではないかと思いますが、どうでしょう。

なお、その「巨大な屋外強化ガラス(プラスチック)ケース」は、金色堂の価値や意義を理解する相応の建築家ないしデザイナーさんの監修のもとで作られることになるのでしょうが、降雪などを考慮して上部を尖った形(当事務所のロゴマークのようなクリスタルないしオベリスク状)にしていただければと思ったりもします。

もちろん、「覆堂に囲われて、静寂で薄暗い光景の中で見る金色堂の方が有り難みがある」「観光客がみだりに写真撮影する光景は荘厳な金色堂に相応しくない」というご意見もあるでしょうから、屋外化が絶対に正しいとは言えないのでしょうが、そうしたことも含めて、議論や関心が広まればと思います。

現在の金色堂の姿をしっかりと確認したいという方は、こちら(中尊寺HPから)をどうぞ。

女子高の夏のみやげは

半年前の話ですが、岩手女子高に少しだけお邪魔してきました。

もちろん不審者の類ではなく、岩手女子高が私の所属する盛岡北ロータリークラブの「インターアクトクラブ」になっており(相互交流の協定のようなもの)、私が担当委員長を拝命している関係で、会長さんから「学園祭の招待状が来たので付き合え」とお達しを受け、伺った次第です。

といっても、当クラブのため特別に作成した招待状ではなく同校と何らかの繋がりのある方々に向けて広く配布したもので、お邪魔した際も、引率があるわけではなく学園祭を自由にご覧下さいね、という形でしたので、インターアクトクラブの運営主体である「JRCクラブ」さんの活動発表に関する部屋を拝見し、お茶コーナーの1杯無料券をいただいたあとは、ほどなくお暇させていただきました。

私は、現在では女子高はもちろん学校の類に立ち入ることはほとんどありませんが、東京の勤務時代(H12~13頃)、東京弁護士会の有志が行っていた「中学・高校に出張して学校の授業で模擬裁判を行う(設営・指導する)企画」に加わり、何度か都内の高校にお邪魔したことがあります。

もともと元締め役の方が盛岡修習の先輩であったため、折角のご縁ということで加わっただけなのですが、男子校出身者ですので「こんな機会でもきゃ女子高には行けないよ」という勧誘に屈した?面も(激しく)あったかもしれません。

それはさてき、その際は、その元締め先生が作成されたシナリオをもとに、弁護人や検察官を担当する生徒さんとシナリオに記載された尋問事項をどのようにアレンジし被告人役に話して貰うか(追い詰めるか)を話し合ったり、新シナリオ作成チームに参加して議論や作業をしたこともあり、色々と懐かしい思い出となっています。

岩手に戻ってからは、私の多忙さや出不精などのため岩手弁護士会のその種の企画に加わる(誘われる)こともなく、高校にお邪魔したのは約15年ぶりのことでした。といっても、学園祭の様子を少し拝見しただけですので、「訪問」というほどのことでもありませんが・・

ロータリーの「インターアクトクラブ」という制度は、社会奉仕活動を目的とした特定の学校(中学・高校)の活動を特定のロータリークラブが支援し交流する(そのことによりロータリーとして青少年奉仕を行う)ことを目的ないし理念としているようですが、当クラブに関しては、年末のクリスマス会(例会場であるホテルニューウィングでの会食)に招待し、出し物(歌など)を披露いただくという程度の関わりに止まっているように思われ、そのままでよいのかと残念に思うところはあります。

現在の若年者は、核家族化などの影響で、昔に比べて地域の様々な大人達と接して様々な考え方などを学ぶ機会が乏しくなっており、そのことが、若年層が犠牲になる一部の残念な事件や社会現象の背景にあると考えます。

ロータリー会員の大半は、地域内の相応の規模の企業を長年に亘り真面目に経営してきた方々ですので、1年に1回程度(せいぜい1~2時間程度)でも、生徒さんが有志を募り各人の希望に応じて会員企業などを訪問し様々な仕事の有り様や背中を学ぶ機会があってもよいのでは、と思わないでもありません。

岩手女子高の生徒さんは看護や介護の道に進む方が多いとのことで、弁護士の話を聞きたいという人はほとんどいないでしょうが(何年も前に、法律実務家を目指しているという盛岡一高の生徒さんから、授業の一貫として職場訪問の要請を受けたことはあります)、4年後?には、高校で「現代社会」に代えて「公共」なる必修科目を設けるそうなので、法律や裁判の実情などについて実務家の話を聞いて学ぶ機会があってもよいのでは、などと思わないでもありません。

まあ、私自身にその準備のため汗をかけと言われると、日々の仕事等に追われて・・というのが恥ずかしい現実ではありますが。

ところで、その日の訪問は往路は概ね好天だったので事務所から自転車で赴いたのですが(予報も一日晴天)、見学中にどしゃ降りとなり、やむなく、会長さんと15分ほど玄関で時間つぶしをしたものの、止む気配がないということで、仕方なく雨天のまま自転車で帰宅しました。

で、お約束どおりというか、帰宅直後に雨が止んで晴天となりましたが、私の精進が足りないのでバケツの水でも被って出直しなさいとの見えざる力が働いたのかもしれません。そんなわけで一句。

女子高の夏のみやげは どしゃぶり刑

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冬がはじまると

昨年末のことですが、朝5時に徹夜仕事に目処が付いて一眠りしようと思った矢先、私事で急を要する出来事が勃発し、1週間ほど振り回される日々を過ごしました(配偶者に夜逃げされたという類の話ではありません)。

特に、初日には関係者の命令により丸一日の拘束を強いられたのですが、県民生活センターの相談担当日で珍しく7、8人の相談予定があったにもかかわらず、事柄の性質上、私事を優先せざるを得ず、急遽のキャンセルを余儀なくされました。

センターの方には、翌日以後に当事務所から個別連絡し対処したいとも申し入れたのですが、相談者が多いこともあり、センターと弁護士会の判断で、他の先生に交代となりました。

交代していただいた先生には感謝申し上げるほかないのですが、自己破産又は個人再生の対象事案が3~4件あったようで、それらを受任し損なった当事務所の売上損失という点では被害は甚大というほかなく、もちろんそれが誰かに補填されることもありません(余談ながら、12月は売上ノルマ不達成+賞与支払のため、大赤字となっています。11月が好調だったので、それでなんとかカバーしていますが・・)。

なので、せめて日中の身柄拘束だけでも誰かに代わって欲しかったのですが、その日に限って他にインフル患者が生じるなど同時多発テロ状態になり、どうせ勃発するなら他の日にして欲しかったと一日中愚痴ばかり述べていたというのが正直なところで、

こんな日に身内が病の総攻撃 縁は切りたし悩みは深し

などと泣き言の一つも書きたくなりますが、幸い、勃発後は現在まで大きな問題は起きておらず、私自身は普段どおりの日常に戻っています(これまであまり関わらずに済んでいた介護問題に、ややこしい形で携わらざるを得ない状況になりましたが)。

ともあれ、残念ながら、今年の冬は御殿場詣で・・もとい妻の実家への帰省も不可能となったせいか、久しぶりに替え歌の神様が落ちてきました。

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去年の正月には  海外旅してたけど
今年の年の瀬は  行けるとこは何もない!

冬がはじまると 身内の病気ふえる
術後うれしそうに  生茶を飲む横顔がいいね

たくさんの人と  お別れしてきたけど
あなたがた 僕を 油断させていて 

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そんなところで、皆さんもご家族・ご親族とご自身を含めた全員のご健康を末永く大切になさっていただければと思います。

二戸に残された西郷隆盛?の写真と歴史の彼方に消えた弁護士のルーツ

以下は6年前に旧ブログに投稿した記事ですが、今年の大河ドラマ主人公が西郷隆盛とのことで、便乗目当て?で再掲することにしました。

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以前、日本中世史の研究で有名な網野善彦氏の「日本の歴史をよみなおす(全)」を読んだことがあります。

学生時代に浅羽通明氏の「ニセ学生マニュアル」を読んでいたので網野史学なるものに昔から関心はありましたが、なかなか手が出ず、ようやく最初の1冊という体たらくです。読みながら色々なことを考えてはすぐに忘れてしまうのですが、少し考えたことを書いてみようと思います。

230頁あたりに、奥能登で江戸時代に大きな力を持っていた「時国家」という豪農兼商家のことが取り上げられており、その一族は、かつては農業経営者(豪農)として考えられていたが、実際には農業よりも日本海ルートの交易事業を中心に、製塩・製炭・山林・金融など当時の日本で行われていた様々な産業に携わっていた「地方の大物実業家(多角経営者)」として捉える方が正しいことが分かった、という趣旨の記載があります。

そして、それが決して例外的なものでないとの説明を踏まえ、「以前の歴史学は、江戸時代を農業(食料生産)中心に捉え、農業以外の事業に従事する人々の役割を過小評価していたが、実際は他の産業も盛んであり、そうした産業に従事した人々が社会や文化の維持・形成に果たした役割を再評価すべきだ」という趣旨のことが論じられています。

網野史学は、商業、金融、芸能さらには死や性に関連する仕事など、古代には聖的な位置づけを受けていたのに中世或いは近世以後に差別或いは卑賤視されることが多くなった諸産業或いはそれに従事する人々に光をあて、日本の歴史(社会形成に関する物の見方)を再構築することを目的としており、その一環として、上記の例が挙げられているようです。

その下りを読んでいて、我が国では明治維新後、政府や財閥、渋沢栄一などの実業家の力により、工業を中心とする産業が急激に発展したとされていますが、それは何ら素地のないところ(農業中心の社会)から突如として勃興したのではなく、相応に産業や商業を盛んにしていた社会の素地があり、それが社会構造の転換や欧米からの新技術の導入などという触媒を得たため、一気に花開いたのではないかと感じました。

まあ、その程度の認識は、今や陳腐というべきなのかもしれませんが。

ところで、私の実家は6~7代前に本家(一族の総本家である地元の神社)から分かれているのですが、本家は伝承(或いは父の戯言)によれば、戦国時代に秋田県田沢湖(旧・生保内町)の領主をしていたものの、秀吉の東北征服戦争(いわゆる奥州仕置に服従せず反抗した各勢力の討伐戦。代表例は九戸政実の乱こと九戸戦役)の際に所領を失い南部氏を頼って二戸に移転したのだそうで(それ以来?本家は代々、地元の由緒ある神社の神官職を継承しています)、歴史学者の方に調査研究していただければと思うだけの奥行きがあったりします。

で、何のために当方の話を持ち出したかと言えば、父によれば本家は明治の始め頃に現在の二戸市の西部に広がる広大な高原で日本でも珍しい牧羊事業に携わったものの、今や絶滅したニホンオオカミの襲撃などが災いして失敗し、破産寸前の憂き目に遭ったのだそうで(現在も本家は存続してますので、真偽はよく分かりません)、そうした本家の苦労も、網野史学の観点から何らかの再評価ができないのだろうかと思ったのでした。

その牧羊事業については、本家と共同で?事業を担った方が二戸の先人として顕彰されており、興味のある方は、岩手県庁の紙芝居もご覧いただければと思います。
http://www.pref.iwate.jp/dbps_data/_material_/_files/000/000/007/300/07bokuyou.pdf

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ところで、この文章の表題に挙げた「西郷隆盛の写真」について、そろそろ取り上げたいと思います。

西郷隆盛は本人のものと確定された写真が存在しない(ので、どのような顔立ちであったか現在も知ることができない)ことで有名ですが、その話題に当方の本家も登場してくることは、ほとんど知られていません。

「西郷隆盛 写真 小保内」などと入力して検索してみて下さい。

敢えて特定のサイトを引用しませんが、「西郷隆盛?と(西郷の影武者を務めたとされる)永山弥一郎が二戸の神社の神主である小保内孫陸の子(定身又はその弟?)と一緒に撮影したと称する写真を郷土史家が紹介した」などと記載された記事を発見できると思います。

私には真偽のほどは分かりません(まあ「西郷が写真嫌いの人物だった」というのなら、そのときに限って撮影を了解する理由が分かりませんので、別人の可能性の方が高いとは思いますが)。

ただ、私は子供の頃、亡父から「本家は、(上記の)倒産の際に借金返済のため様々な家宝を手放したが、その中に日本で唯一とされる西郷隆盛が写っている写真があった」と聞いたことがあります。

その際は、そんな話はインチキに違いないと思っていたのですが、確実な話として、当時の本家は「会舗社」という郷土の子弟を教育するための私塾を開設し多数の蔵書を擁して尊皇攘夷的な教育活動をしていたため、当時はそれなりに名声があり、当時の本家の長男(小保内定身)が江戸に遊学した際、薩長などの攘夷の志士達と交遊を深めていたことは間違いないようです(この点は、平成27年に投稿したブログでも触れていますので、ご覧いただければ幸いです)。

当時、二戸市出身で対露防衛の必要などを説いていた「志士」の一人である相馬大作が、津軽藩主襲撃未遂事件を起こし江戸で捕縛・処刑されたものの、「みちのくの忠臣蔵」と呼ばれて一世を風靡し、藤田東湖・吉田松陰などに強い影響を与えたとされており、そのことも「志士たちとの交流を希望する二戸人」にとっては有利に働いたことは想像に難くありません。

そうした事情からは「本家には、かつて西郷隆盛(かもしれない御仁)の写真があった」という亡父の話も、あながちインチキとは言えないのかもしれません。

「小保内某と西郷隆盛?や永山弥一郎が写ったもの」とされる写真が、亡父が語った写真と同一なのかは全く分かりませんが、少なくとも、その写真で「小保内某」と表示された御仁の顔立ち(目元や口元)は、現在の本家のご当主(神主さん)に割と似ているように感じます。

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網野史学とは全然関係のなさそうな話ばかり書きましたので、少しそちらに戻ったことを書こうと思います。

我が弁護士業界は自分達のことを「サムライ業」と好んで称することが多く、「武士道」と相まって、弁護士という職業を、武士的なものになぞらえ、そのことを美点として強調することがよくあります。

弁護士の仕事は、ある意味、傭兵であることを本質とする面がありますし、「法の支配の担い手」という点や職業倫理的なことも含め、そうした見方が間違いだとは思いません。

ただ、武士という存在の捉え方にもよるでしょうが、幕藩体制下の武士は公権力を支える公務員であり、現代で言えば官僚に見立てる方が素直で、民間業者である弁護士と繋げて見ることには若干の違和感を覚えます。

ですので、弁護士の本質(或いはルーツ)を中世や近世の社会に求める際は、武士よりも(武士だけでなく)、公権力と一定の距離を置いた他の職業に(も)求める(光をあてる)方が適切でないかと思うのです。

ところで、我国における弁護士業界の萌芽として通常語られている事柄は、「明治時代は官僚国家なので弁護士の地位は低かった」とか、「弁護士の制度や各種法制が構築されるまでは、質の低い紛争介入業者がデタラメな仕事をしており、三百代言などと言われた」などといった否定的なものが多く、少なくとも明治より前の時代に、現代に連なる弁護士のルーツとして、輝かしい先人がいたという話を聞いたことがありません。

しかし、冒頭で記載した網野史学が描く中世や近世は、当時の技術水準を前提に、農業だけでなく様々な産業や交易が行われ、それなりに人や産物が自由に行き来されていた社会だそうなので、そうであれば、当時も人々の社会経済上の活動を巡って多様な紛争があり、紛争を解決する(欲する解決を得るよう支援する)ことについて、専門的技能を駆使して当事者を支援し正当な報酬を得て生活を営んでいた職能集団が存在していてもよいのではないか(存在しない方が変ではないか)という感じがしてくるのです。

さらに言えば、「かつて聖的な存在として特別視された職業(職能集団)の多くが、社会構造の変化に伴うパラダイムシフトにより卑賤視されていった(ので再評価すべき)」との網野史学の基本的な目線からすれば、「明治初期に、民間の紛争解決?業務従事者達が、まがい物として卑賤視されていた」という話は「そうした人々は、以前は社会内で相応の権威を与えられ活躍していたが、社会の価値変動に伴い卑賤視され不遇な立場に追いやられるようになったのではないか」という推論と、とても親和的であるように感じられます。

少なくとも、紛争解決という分野は、古代から中世であれば宗教的或いは神秘的権威の助けを大いに必要としたはずで、「かつては畏怖された職能」という網野史学の射程範囲に明らかに収まるように思われますし、争点に対する当否の判断(裁判)の機能は国家=時の公権力が独占したのだとしても、紛争当事者の支援という役割を武力以外の方法で担った職能集団が存在してもよいのではないかと思われます。

私が知らないだけで、相応に研究が進んでいるのかもしれませんが、古代から近世にかけての「その時代の社会のルールや社会通念に基づく紛争解決・処理業務に従事した人(特に、公権力から食い扶持を得るのではなく利用者から対価を取得し支援業務等に従事していた民間人)」の実像を明らかにし、そのことを通じて、現代の紛争解決(ひいては社会そのもの)のあり方にも生かしていただければと願っています。

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余談ですが、平成24年頃は、尊皇攘夷ならぬ大阪維新?の旋風が国内に吹き荒れていましたが、当時もその後も、東北の社会ないし政治の世界には、そうした時流に連動したり新たな社会革新の震源地になりそうな営みや蠢きは生じていません。

大阪維新の会に対する肯否や現在(H29~30年)の沈滞ムードはさておき、通信や交通が著しく不便であった150年も前に、二戸という辺境の地にも新時代を切り開いた西国の方々と価値観を共有し懇意にしていた人々がいた(ものの、天運などに恵まれず大きな存在感を発揮するには至らなかった)という事実は、北東北の人々に知っていただく機会があればと思っています。

岩手県PR動画「都会のオラオラ、岩手のおらおら」そして北方世界を制覇したアイヌ王・源義経の物語

岩手出身の60代の(もと)専業主婦の女性が、「おらおらでひとりいぐも」という作品で新人作家の登竜門とされる河出書房新社の文藝賞を受賞されたとのことで、市内の書店の正面にも山積みされています。
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309026374/

私は小説を読む習慣がないので山積みの光景をチラ見して通り過ぎただけなのですが、岩手でも、こんなCM(PR動画)を作れば、石原軍団や壇蜜氏で話題を集めた宮城県CMに対抗できるのでは?と思いました。

(第1幕~都会のオラオラ~)
半グレ風、或いはジョジョ風の荒くれ者どもが、何かに取り憑かれたように「オラオラオラオラー」と叫び、拳を突き上げ修羅の国よろしく闘いまくる。

(第2幕~岩手のオラオラ~)
のどかな農村風景。野良着姿のお婆さん(又はお母さん)を座敷童風の子供達が取り囲んで「おらもおらも~」と何かじゃれあっている。そんな里の姿を遠くから宮沢賢治が一人静かに見守っている。

最後に「あなたは、どっちのオラオラが好きですか?~喧噪に疲れたときは、おでんせ岩手。」のメッセージで終了。

と、ここまで書いて私自身が岩手県のPR動画を一度も見たことがないことに気づいたので先ほどチラ見しましたが、せっかく村上弘明氏を擁して色々なテーマを素材にしているのに、面白味がないというか、視聴者の心に突き刺さるような「グッとくる何か」が欠けているように感じました。

いっそ、村上氏こと清衡公が他の登場人物らと共に途中から北野監督の座頭市のように全員でタップダンスを始めるとか、「岩手もしもシリーズ」と題し、義経と泰衡らが蝦夷地に渡り北の琉球王国こと「アイヌ王国」を建国し、北方世界の要としてロシアからアラスカまでを勢力圏とする一大貿易国家を構築する・・といった話を作った方が話題性があるように思うのですが、いかがでしょう。

ちなみに「アイヌと縄文」という本によれば、平安期に北海道に住んでいたアイヌ(擦文人)は、鎌倉期までにはサハリンから渡来したオホーツク人を圧倒し、ロシア本土にも進出して現地人(ニヴフ=ギリヤーク)と抗争し、最終的には現地人が助けを求めた元朝(モンゴル帝国)との数十年の抗争を経て(北の元寇と呼ばれています)、北海道に撤退するという壮大な展開を辿ったそうです。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480068736/

そして、擦文人(アイヌ)の成立にあたっては、古代(平城・平安期?)に北東北の太平洋側から多くの地元民(蝦夷)が移住してアイヌの原型たる続縄文人と同化し、これにより北海道の擦文人=アイヌ民族が形成・成立されたのだそうです。

であれば、その「短期間ながら北方世界を一度は制覇した大アイヌ国」の成立や勃興に、実は義経や平泉が関係していた・・などという物語は、想像の世界として十分にあり得るというか、歴史小説のネタとしてはもってこいではないか、と思わないこともありません。

ということで、ぜひ、冒頭の作家さん(若竹千佐子氏)をはじめ岩手在住又は岩手にゆかりのある作家の方々は、このテーマでの渾身の大作をご執筆くださるよう、強くお願い申し上げる次第です。

まあ、こんな戯言を書いても「無駄無駄無駄無駄~」と言われるだけかもしれませんが・・

(H30.1.16追記)
先ほどのニュースで、若竹氏が芥川賞を受賞されたとのことで、誠におめでとうございます。