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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第6回 あらすじ案⑤大戦編4~学ぶ者たちの平等と誇り

映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の第5回です。

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秀三がヤンに渡した水彩画は5、6枚ほど。そこには幼少期を過ごした福岡町(現・岩手県二戸市)や旧制中学時代を過ごした盛岡、そして岩手山などの風景が描かれていた。

秀三はヤンに語り続ける。

君も華人なら杜甫の春望は知っているだろう。国破れて山河あり。今、イギリスが築き上げて君臨してきた植民地帝国は負け、間もなく日本も負ける。しかし、山河は残る。

70年前、日本では国家の進路を巡って国を二分する争いがあり、私の故郷はその闘いに負け、多くの人が辛酸を嘗めた。しかし、それを乗り越えて、今や国の舵取りに関わっている者も少なくない。

私も故郷の辛酸を忘れず、また、故郷の美しい風景が心の拠り所だと思って、こうして絵に描いて手元に置いていた。

君たちも、日本の占領による辛酸を乗り越えて、シンガポール人としての郷土愛を育み、アジア、そして世界に大輪の花を咲かせて欲しい。その志を共有する証として、この絵を受け取って欲しい。

秀三は続けて、三人の男を描いた鉛筆画について説明した。その線画は、日本人、アジア人、西洋人と思われる3人の男が談笑する姿を描いたものだった。

お分かりのとおり、これは、私、君、コーナー君を描いたものだ。この絵は、日本人も、イギリス人も、君たちシンガポール人も、皆が対等な関係を築いて仲良くやっていけるという、さほど遠くない未来を描いたものだ。

もちろん、これまで日本人やシンガポール人はイギリス人から多くのことを学んできた。しかし、いずれは逆になるときがくる。学問の前では皆が対等。一生懸命学ぶ者同士が互いに先生だ。ぜひ、そのつもりで君も学問を続けて欲しい。

秀三は、そのように述べた上で、ヤンに自分がこれまでどのようにして植物園や博物館の運営資金を調達したのかを教えた。それは、軍関係者が知れば絶対に許すことができないようなものだった。そして、秀三は続ける。

私が君たちの支援をしていることは、決して誰にも伝えてはいけない。残念ながら戦争が終わった後も、それを日本の社会が理解できるようになるまでは時間がかかり、それまでは、その話は誤った形で伝わり、徳川侯爵をはじめ、この植物園を守ってくれる他の人々にまで迷惑を掛けることもあるかもしれない。

だからこそ、そのことは後任の日本人学者にも伝えてはいけない。君がここ(植物園)に残るなら、抗日活動とは何の関係もない、私とも特別な関わりはない、何も知らない現地スタッフとして振る舞って欲しい。

そのためにも、私がここで成し遂げたことがあれば、それは徳川侯爵や後任の日本人、コーナー君ら英国人学者をはじめ、すべて他の人の手柄にして欲しい。

秀三はそのように告げ、清々しい笑みを浮かべていた。この戦争の題目として掲げられた「八紘一宇」すなわち諸民族の自立と世界の協和。戦争に利用された悲しい言葉。

自分こそが、陛下そして明治日本が目指した本当の「諸民族の自立と世界の協和」のために闘っているとの自負があったのだ。

ヤンは、それに対し「先生の言いたいことは分かりました。しかし、自分はいつの日か先生の真意を社会に伝えます。それが、私の後の世代になったとしても。」と述べた。秀三は何も答えず、静かに微笑むのみであった。

すると、そこにコーナーも現れた。コーナーは「さきほどの話の大半は聞こえていました。水くさいじゃないですか、自分も秘密は守りますから安心して帰国して下さい。ですが、私も本国に戻った後に、必ず先生の功績と変人ぶりだけは書きますよ。」と述べた。

その上で、コーナーは「先生は本当はこの地に止まり、自らの手で、新しいシンガポール、そしてアジアを作りたいのではありませんか?」と尋ねた。

秀三は一瞬ニヤリと不敵な笑みを浮かべつつ、その後、寂しそうな様子を見せながら、私はそんな身の程知らずなことを考えるような人間じゃないよ、まあ、もっと若いうちにここに来ることができれば、別の考えもあったかもしれないが・・・、とだけ語った。

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徳川侯爵や同行した京大を代表する植物学者・郡場寛教授(青森市出身)らの到着後は秀三は目立つことは極力控え、侯爵や郡場教授らを支えて、まるで昼行灯になったように静かに過ごした。

侯爵や郡場教授らもシンガポールの貴重な文化財を守り植物園や博物館の研究環境を維持するとの志は共有しており、侯爵の資金力や政治力のもと、これまで以上に良好な待遇が得られた英国人学者らもヤンら現地スタッフらも安心して業務を続けることができた。

しかし、侯爵らの到着以来、秀三とヤンは互いに知らん顔をしており、コーナーも研究の補助以外のことでヤンと関わることもなかった。

秀三の出国の日。今も表向きは日本軍の協力者を務めているリーが見送りに来た。

リーは、相変わらず鋭い目をしつつ、ヤンからすべて聞いている、先生のことは忘れないが、先生の頼みだから忘れたことにして頑張る、自分達が新しいシンガポールを作るので安心して帰国して欲しい、日本人はこの地で多くの悪行を重ねたが、先生のような人もいたということは、きっと両国の未来には大切な礎になるだろう、と告げた。

秀三は笑いつつ、リーに、きっと君は、将来のシンガポールを背負って立つ男になるだろう、こんな戦争で命を落とすことがないよう、我が身を大切にして、しっかり勉強して欲しいと告げた。

リーが後のシンガポールの初代首相にして現在の同国を作り上げた大功労者であることは言うまでもない。

日本に戻った秀三は、その後はシンガポールとは何の関わりも持たずに、本業である火山学、地質学の研究活動などに従事しつつ、癌のため67歳で死去した。昭和新山を世に知らしめた三松正夫を支援しその功績を世界に広めたことが、秀三の最後の仕事となった。

コーナー博士はその後も日本人学者らと共に現地で研究を続け、日本軍の降伏時には、英国軍に拘束された郡場教授らの釈放を嘆願するなど、日本人学者らとの友情は一貫して続いた。

帰国後はキノコ類の研究などで世界的権威に上り詰めたが、昭南島での経験を世に伝えるべきとの使命感から、しばしの時を経て秀三や徳川侯爵らの功績を顕彰した書籍を出版し、日本でも翻訳、紹介された。ただ、秀三がヤンたち抗日華人の支援をしていたことは伏せておいた。

ヤンは秀三の帰国後も植物園のスタッフとして従事しつつ目立たないように抗日運動への関わりも続けていた。

日本の敗戦後、リーに協力しシンガポールの国作りのための政治運動にも身を投じたが、多民族国家であるシンガポールにおいて、諸民族の自立と個人の自由を強く唱えたヤンは、強力な指導者による規律と統制を重視するリーと対立するようになり、リーの他の政敵との争いに巻き込まれるような形で政府に身柄を拘束され、社会の表舞台からは姿を消した。その後、植物研究を生かした薬学などの世界に身を投じたが、病を得て失意のうちに60歳ほどで世を去った。

ヤンが秀三から受け取った水彩画や鉛筆画は、ヤンの子や孫に引き継がれた。秀三と過ごした物語と共に。

(以下、次号)

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第5回 あらすじ案④大戦編3~引継ぎの時

映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の第4回です。

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間一髪、辻の部下による狙撃は失敗に終わり、秀三は軽傷に止まったが、治療が遅れたことなどが原因で高熱を発し、一時は生命も危ぶまれる事態になった。

そんなとき、ヤンが植物園内に自生していたある植物をもとに薬を煎じて飲ませたところ、熱が一気に引いて、急速に体調が回復した。

その薬草はまだコーナーら英国人学者にも知られておらず、一部の地元民しか知らなかった。ヤンの父は漢方の造詣の深い華人医師で、マレー系の地元民との交流を通じ、その薬草を生かすことを知っていたのだ。

その頃、秀三の負傷を知った山下司令官は「陛下の名代」が軍人に狙撃されたことに狼狽し、黒幕と目される辻を転出させることにした

辻は「そんなのは虚言でしょう。陛下の言葉を偽ることこそ許し難い大罪」と抗議するも、山下は「私は陛下が生物学に造詣が深いことを知っている。田中舘が私心なく文化財などの保全に奔走する姿も見た。だから、私はあの男の言うことを信じる。たとえ、順番が逆だったとしても、だ。」と告げた。

辻は転出が決まり、それと共に華人の弾圧は以前より多少は緩和されるようになった。

他方、軍に遺恨を生じさせた状態を続けるのは秀三の本意でなく、秀三と違って豊富な財力を持ち、危うい方法ではない形で資金提供をして施設や人材の維持ができ、かつ軍と融和できるだけの人物に後任を委ねるべきだと当初から考えていた。

その人物として白羽の矢を立てたのが「虎狩りの殿様」こと尾張徳川家の当主・徳川義親侯爵である。

秀三は、銃撃の少し前に一時帰国した際、義父である貴族院議員・田中舘愛橘(もと東京帝大教授にして、地球物理学の権威であり、日本の物理学の創始者の一人。二戸市出身)に、シンガポールの学術・文化資産の保全を託す政界の大物を動かすことができないかと相談していた。

そして、愛橘博士が推薦したのが、博士と同じ貴族院議員仲間で、ジョホール王国のスルタン(マラッカ海峡の本来の領主)とも懇意にするなどマレー社会への造詣も深いと聞いていた徳川侯爵であり、秀三にとっても意中の人であった。

かくして、秀三は愛橘博士の斡旋で徳川侯爵と面談し、かねてより同じ思いを共有していた侯爵の快諾を得て、あとは侯爵が相応の人材を選抜し派遣するのを待つばかりとなっていた。

やがて、秀三の回復後、侯爵が自ら植物学・博物学の権威である学者らを引き連れてシンガポールに赴任するとの連絡が届いた。

秀三の役割は終わった。シンガポールを去るべきときが来たのだ。また、辻が軍関係者を通じて学会にまで手を回し、秀三をシンガポールから駆逐しようとしているとの噂も秀三には聞こえてきた。これ以上、軍と表だって事を構えるのは得策ではない。

侯爵が到着する直前のある夜、秀三は、植物園内にある執務室のバルコニーにヤンを呼び、ヤンに語りかける。

この戦争は間違いなく負ける。植民地の解放を謳うこと自体は間違っていないが、言っていることとやっていることが全く合っていない。シンガポールでマレー人やインド人を優遇し華人を弾圧しているのも、詰まるところ軍の都合で行っているに過ぎず、植民地の主が入れ替わっただけの話に過ぎない。

こんな状態は長くは続かない。きっと、あと3年もすれば日本は負ける。その際、シンガポールもマレー半島も一旦はイギリスの植民地に戻るかもしれないが、日本に惨めに負けたイギリスにもはや威光はなく、それも長くは続かない。すぐにアジア人の自立の時代が来る。

その上、この街は華人やインド人など移民だらけの特殊な都市で、マレー半島など周辺地域と一緒にやっていくのも難しいだろう。間違いなく、この街の人々が、シンガポール人として自立して国を営んでいかなければならない時が、あっという間に訪れる。

だからこそ、君達は「シンガポール人とは何か、どうして自分達は周辺国から独立・自立し、多民族が力を合わせて国を運営していかなければならないのか」という国家・国民のアイデンティティと統合の問題に直面せざるを得ず、それを解決しなければならない。

この植物園や博物館に保存されている貴重な文化財や学術資産、美しい花々は、間違いなく、その解決に役立つはずだ。日本人学者やコーナー君達が去った後も、君達はこの志を忘れることなくこれらを保全し、国づくりに生かして欲しい。

そう述べて、秀三は、幾つかの水彩画と三人の男を描いた鉛筆画をヤンに渡した。

(以下、次号)

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第4回 あらすじ案③大戦編2~奇跡の楽園と殺意

映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の第3回です。

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秀三の前に現れた男は、リー・クアンユー(李光耀)と名乗り、日本軍政の協力者として報道や翻訳などの業務に従事していること、自分の友人が過去に植物園で働いており、一旦は仕事を離れていたが、以前の仕事に戻りたいと考えているので雇って欲しいこと、但し、待遇は問わない代わりに、今は怪我をしているので、しばらくは園内の人目に付かない場所で寝泊まりさせて欲しいこと、回復後も目立たない場所で仕事をさせて欲しいことなどを申し出てきた。

秀三は、リーの真意を察し、あえて質問をせず、次のように話した。

自分は愛国者であり、誰よりも天皇陛下を崇敬する者である。しかし、軍の馬鹿どもは、偉大な生物学者であり心から学問と平和を愛する陛下のご心中を理解することなく、愚かな戦争を起こしてアジアの人々と文化・学術資産に多大な迷惑を掛けている。

自分は、シンガポール陥落に伴う戦災の混乱から人類共通の宝である文化財や学術資産を守らなければならぬとの思いで、単身この地にやってきたのだ。だから、この目的を達成するためには、軍の意向に反することを行うことも厭わないし、危ない橋を渡る覚悟も持っている、と。

また、秀三は、今、軍の馬鹿どもによる華人への殺戮の嵐が吹き荒れていることは自分も知っている、間違ったことであることはよく分かっているが、自分にはそれを止める力がなく悔しく思っている、だからせめて、植物園や博物館などを守ることを通じて、できることをしたい、とも告げた。

リーも、秀三の言葉もさることながら、様子から通じるものがあったのだろう。自分は表向きは日本の協力者として従事しつつ、実際は市内の抗日華人を支援する活動に従事していることを明かした。

そして、今、助けを求めている男の名はヤン・タイロン(楊泰隆)といい、もとは植物園のスタッフだったが、降伏前から抗日運動に身を投じて活動し、先日、軍に捕まって拷問を受けていたものの、逃げ出してリーに保護され、匿われているのだという。

秀三はヤンの身柄保護を約束し、日中は身を隠しながら植物園のジャングルなどの管理を担当させて、夜は私設秘書のように自分の話し相手として重宝するようになった。

これは、ヤンに会ってみると、ことのほか植物学や園内・島内の植物への知識が豊富で、シンガポール社会への理解も深く、火山や地質の専門家で植物にはさほど明るくない秀三にとって、英国人学者らに匹敵するほど学ぶところが大きい面があったからだった。

そして、コーナーらにも抗日運動関与の点を伏せつつ、ヤンの植物学への知見を研究に生かして欲しいと説明し、3人の間には民族を超えた友情が芽生えるようになった。秀三の運営も軌道に乗り、秀三が管理する植物園や博物館は圧政下の市内におけるユートピアのような様相を呈しつつあった。

秀三が一時帰国して戻った際に、「コーナー君の著作(東南アジアの植物を紹介したもの。当時の一級資料)を天皇陛下に献上して感謝の言葉を賜った」と説明する出来事もあり、秀三の方針のもと、秀三たち日本人、英国人ら研究者、ヤンら現地スタッフが、ほとんど対等な立場で良好な関係を形成していた。

やがて、リーからは、ヤンに限らず、時折、日本軍の追求(拘束手配)から逃走中の抗日華僑を一時的に匿って欲しいなどの要請が秀三のもとに寄せられるようになり、園内では秀三の了解のもとヤンがその対応をするようになっていた。

その頃、華人への虐殺行為に止まらず様々な抑圧政策を指揮していた辻参謀は、植物園などに不穏な様子があるのではないかと感じていた。端的には、秀三が抗日分子と通じているのではと疑っていたのだ。もちろん、そのような行動は、辻にとって国家への反逆行為に他ならず、絶対に許すべきものではない。

しかし、秀三が、曲がりなりにも山下司令官から辞令を受けた日本人高級官吏という手前、証拠なしに粛清することはできない。一度は、口実を作って園内に踏み込むも、様子を察したヤンの気転と、それに連動して秀三が大東亜のあり方を巡って辻と議論を繰り広げた「時間稼ぎ」で危機を乗り切るということもあった。

やむなく、秀三の素性や来島した経緯などを調査し、派遣元から打ち切らせる方向で画策するようになった辻。すると、焦る辻の様子を察した部下が、独断で秀三の暗殺を目論み、トライショー(人力車)で移動中の秀三を狙撃した。

(以下、次号)

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第3回 あらすじ案②大戦編1~舞い降りた男と英国人学者

映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の第2回です。

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ここで、物語は太平洋戦争(大東亜戦争、15年戦争などと称される一連の戦争の後半戦)の開始から間もないシンガポールに移る。

1942年2月15日、英国領(植民地)であるシンガポールは、マレー半島に上陸した日本軍(大日本帝国軍)の電撃的な侵攻により敢えなく陥落・無条件降伏。「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文中将の、英国軍司令官に対する「イエスかノーか」の決め台詞と相俟って、日本国民は熱狂に酔いしれ、戦争の大義や勝利を疑わない者がほとんどという有様だった。

占領を開始した日本軍は、東南アジア最大級の植民都市であるこの街を「昭和に得た南の島」こと昭南島と名付けて日本の領土とする旨を世界に宣言。いわば、島全体を大英帝国から分捕った戦利品のように扱った。

この敗戦は、チャーチル首相をして「英国軍の歴史上最悪の惨事であり最大の降伏」と言わしめたが、現地では続々と軍人が街の主要拠点を占拠する一方、現地住民や一部の軍人などによる様々な問題行動も生じており、混乱の極みにあった。

また、東南アジア侵攻の作戦計画で辣腕を振るった陸軍参謀・辻政信は、この街の繁栄を支える華僑(華人)が中国戦線の抗日活動を多大に支援し、そのことで日本軍の進撃が滞っているとして、華僑の大規模な摘発・処分(殺戮)を提案し、今まさにそれを実行に移そうとしていた。

ノモンハン事件で関東軍がソ連軍に大敗する原因を作りながらも巧みに責任追及を免れた辻は、そのことを知る一部の軍関係者を見返すため、マレー侵攻と華僑粛清を通じて名誉挽回や自身の影響力拡大、ひいては「日本民族による大東亜共栄圏(アジア・太平洋全体)の建国を成し遂げ、自分がその指導者となる」という野望の実現を求めていたのだ。

そのような中、降伏の3日後にシンガポールに現れた、風采はあがらないものの力強い目をした57歳の日本人学者がいた。現在の二戸市(岩手県二戸郡福岡町)出身で東京帝大卒、当時は東北帝大の講師に過ぎなかった、田中舘秀三である。

秀三は、変わり者の地質・火山学者として業界では知られ、直前までベトナムのサイゴン(ホーチミン)で調査研究活動をしていた。そんな秀三がどうしてやってきたのか、その理由かはよく分からないが、突然、シンガポールに訪れたのだ。

秀三は市内に到着してすぐに、軍の指示で行政を統括する者らが詰めている庁舎を訪問した。秀三は、サイゴンを飛び立つ前に「自分は日本学術会議から派遣されてサイゴンにいたが、シンガポール陥落の際に当地の貴重な学術資産や文化財が毀損されるおそれがあり、これを防ぎ保全すべしとの陛下の意向を受け、当地に派遣されることとなった」との電報を打っていた。

そして、行政担当者と面談して現地の様子を確認したところ、担当者から、「植物園の副園長をしていた英国人学者が植物園や博物館、収蔵品や書籍類などの保護を求めているが、対処できる者が誰もおらず困っていた。早速、引き受けて貰えないか」と頼んできた。

実際、シンガポール植物園や博物館、附属図書館などは、この街を無人に近い孤島からアジア有数の都市に作り替えた大英帝国による、長年に亘る東南アジア全域の学術研究拠点であり、植物園はいわゆる観光施設の類ではなく、自然文化資産の保護・保全に加えてゴム産業を初めとする諸産業の支援なども目的とする研究施設でもあった

そうした実情を以前から知り、すべて任せて欲しいと告げた秀三は、すぐに、本来は拘束されるはずの身ながら「シンガポール総督の特別な要請」として危険を顧みず単身で日本側に嘆願し文化財の保護を求めていた、E・J・H・コーナーという若い気骨ある英国人学者と面談した。

そして、コーナーに対して「私が来たからにはもう大丈夫だ」と告げて不思議な安心感を持たせると共に、混乱に乗じて建物や敷地に侵入してきた現地人を怒鳴って追い出した上、山下司令官にも直談判し、「自分は生物学者でもある天皇陛下の名代として、学術資産や文化財の保護のために派遣されたのだ」と啖呵を切って自分を臨時の館長に任命させ、植物園や博物館など貴重な文物の略奪等は軍民問わず一切を許さず、憲兵の護衛を付けると共に、軍人など日本人もみだりに立ち入らせない旨を確約させた。

但し、施設の維持などは軍(国)から一切の費用は出ず、すべては秀三が自己責任で行うとの条件付きで。

かくして、秀三は、コーナーら同じ志のある関係者と協力し、時には軍人や現地住民らと衝突するリスクなども背負いながら、植物園や博物館、図書館の保全をはじめ他の施設などに遺棄された書籍などを含め、多くの学術資産・文化財の保護に奔走した。

秀三は当初こそ金策に窮していたが、東北の寒村の出身で個人的な資産は微塵もないはずなのに、時折どこからともなく大金を調達し、コーナーら仮釈放させた英国人学者を含む現地スタッフの生活費、さらには文化財や施設の修復、研究費用まで賄うようになった。

もちろん、運営に必要な資金や物資はそれだけで賄えるものではなく、時には、英国人建物などから書籍などを収集、保護した際に食糧を発見し、それで急場を凌いだこともあった。

軍政下の市内では、高級軍人や一部の官吏は支配者気分で贅沢を謳歌していたが、秀三は到着以来、一度も着替えることなくボロ服のままで、コーナーらが恐縮したまには着替えをして欲しいと頼むような有様だった。

他方、秀三らのそうした努力が成果を上げつつある姿のすぐ隣では、日本軍が、ナチスのユダヤ人狩りのように、犠牲者は数千人から数万人とも呼ばれるシンガポール市内の華僑の大規模な連行と虐殺を、流れ作業のような冷酷さで実行していた

シンガポール陥落は日本軍にとっても楽な戦争ではなく、戦術的奇策により兵站が尽きる寸前で降伏に追い込んだ薄氷の勝利であり、直前には華僑義勇軍の激烈な抵抗により多数の戦死者も生じていたことなどから、兵士達の中には報復感情などから蛮行への抵抗感が麻痺していた者も少なからずいたのだ。

そうした光景を何もできずに見て見ぬふりをするしかないコーナーや秀三ら。無辜の犠牲者達の中には日本の侵略前にコーナーが世話になっていた人々もおり、コーナーは憤怒と悔しさと無力感で打ちひしがれずにはいられなかったが、秀三もコーナーにかけてやれる言葉もなく、「こんなことをして、国が続くものか」と英語で呟くのが精一杯だった。

もちろん、コーナーは日本軍の侵略や占領を歓迎するはずもなく、できることなら自らも抗日ゲリラに身を投じて同胞の無念を晴らしたいとの思いを時に抑えながら、自らの信念であり総督からの要請でもあった学術・文化資産の保護を最後まで貫きたいとの思いだけを自分の支えに、辛く悲しい気持ちを堪えて、孤独な作業に従事し続けていたに過ぎない。

秀三も、そうしたコーナーの心中を察し、軍などが関係する難しい折衝には関与させず、現地に残された英国の学術資産の確保や保全などに専念できるよう、また、時には気が紛れるような経験もできるよう配慮していた。

そうして2週間ほどが経過し、植物園や博物館などへの不正な侵入や略奪の防止の措置も概ね目処が立ち、当初の混乱も落ち着きを見せつつあったある日の晩、ずば抜けた何かを感じさせる、厳しく鋭い眼光をした一人の若い華人青年が秀三のもとを訪ねてきた。

(以下、次号)

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第2回 あらすじ案①現代編1~ふてくされた気持ちの中で

前回に企画構想を述べた、「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」に関するシナリオ案の第1回です。映画化推進に賛同いただける方は、第10回の投稿で予定している構想案をぜひご覧下さい。

作成にあたっては、博士の業績を紹介したブログなど(先日、ブログで紹介されていた幾つかの書籍も入手しました。第9回の投稿で表示します)を参考にしていますが、映画(2時間程度のドラマ)として仕上げる必要や秀三博士と現地シンガポール人との関わりを重視するというコンセプトにしたこと、事実経過に関する私の理解力や文章構成力の問題などから、文献に基づく史実について若干の改変をさせていただいています。

あと、現代華人の人名に関する私の知識(引出し)が極めて薄弱のため、とってつけたように某銀河英雄小説の主要人物のお名前を拝借しています。さすがに世に出す際は同じ名前は無理でしょうから、その点はブログ限りということで、ご容赦下さい(本あらすじ案で作品化できるのなら、コーナー博士の著作に登場するタウケイの名をもとに創作するのがよいかもしれません)。

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物語は2006年の東京からはじまる。主人公・下斗米(しもとまい)千代は、2年前から日本では大手の一角を占める企業法務中心の法律事務所に勤務する若い弁護士である。

千代は、盛岡で小さな町弁事務所を営む父には、「自分は父の事務所は継がない。気鋭の渉外弁護士として名を上げた後、政界に打って出て首相に上り詰めてやる」と豪語しているが、実際のところは事務所のハードな仕事や競争に疲れ果て、先日は、修習生時代からの交際男性(検事)にまで「自分の職場で知り合った若い事務官と恋仲になり結婚することにした」と一方的にフラれてしまうという、公私とも残念な日々を過ごしていた。

ある日、千代は事務所の上司である英国人弁護士トーマスから、シンガポールの顧客企業の法務部門への半年間の出向を命じられる。当時はまだ日本の渉外事務所のアジア進出は盛んではなく、同期の仲間は英米の有名大学への留学や著名法律事務所に出向していた。シンガポールの顧客企業の出向などというのは事務所内でも前例がなく、出世コースから外れると感じざるを得なかった。

辞めて都内の町弁事務所に転職しようかなどと思いながらも、「その前にリゾート生活を楽しんでやる」などと軽い気持ちでシンガポールに赴任した千代を待っていたのは、出向先企業の上司で同国弁護士でもある、ヤン・ウェンリー(楊文里)による冷淡で過酷な業務命令だった。

来星から2週間ほど経過し、同国での生活にも多少は馴染んできた千代が、セントーサ島のビーチで遊んできた話を同僚と話していたところ、ヤンが不快感を露わにして席を立つ一幕があった。同僚は、ヤンの祖父が戦時中に抗日活動をして日本軍から拷問を受けたこと、親族を含む多くの華人が日本軍に虐殺され、セントーサ島のビーチに遺棄されたことなどから、今も日本に不信感を抱いており、セントーサを単なるリゾートにしか思っていない今どきの日本人に怒りを感じていることなどを教えてくれた。

もともと仕方なくシンガポールに来ただけの千代は、そうした過去の戦争の暗い歴史を何一つ学んでいなかったのだ。

それからほどなくして、出向先企業に激震が走る。中国系の大手企業による、敵対的買収工作が発覚したのだ。しかも、その買収を支援している中国の法律事務所には、千代の事務所のライバル事務所であり強欲な仕事ぶりで評判の悪い、日本の別の大手事務所が協力していることも伝わってきた。

買収防止策に懸命に取り組むヤンや同僚たち。しかし、誰よりもその中に入って成果を出したい千代に、ヤンは決して関与を命じようとしない。

レポートを提出しても相手にされず、蚊帳の外に追いやられて他の雑務に追われる千代は、せめてもの慰めに、父の実家である二戸市の名勝・馬仙峡(男神岩・女神岩)が白雪を纏って青空に映える姿を写した、小さな写真立てを執務席の上に置いた。これは、千代が子供の頃に何度か二戸を訪ねていた際に撮影したお気に入りの写真だった。

すると、その写真を見て動揺する男がいた。他ならぬヤンである。ヤンが千代に、その写真はどこか、どうしてそれを持っているのかと聞き、千代が答えると、ヤンなりに思うところがあったようだ。それまで食事などでも千代に全く関わろうとしなかったヤンは、その日の晩、話がしたいと言い、突然、千代を行きつけのホーカーズ(大衆食堂)に誘った。

そのときヤンが見せたのは、千代の写真と同じ「白雪を纏って青空に映える冬の馬仙峡」や昔の日本を描いたと思われる古ぼけた幾つかの水彩画、そして、日本人、アジア人、西洋人と思われる3人の男が談笑する姿を描いた鉛筆画のスケッチだった。

ヤンは、鉛筆画に描かれているアジア人が自分の祖父、ヤン・タイロン(楊泰隆)であり、日本人はヒデゾウ(秀三)という名の日本の学者で、もう一人の西洋人は、E・J・H・コーナーという英国人学者を指しているのだと告げた。

そして、秀三は祖父の大切な恩人であること、自分がこの水彩画と鉛筆画を持っている理由も伝えたいと述べ、ヤンが祖父や父から聞いたという出来事を訥々と語り始めた・・・

(以下、次号)

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第1回:企画案とあらすじ導入部

前回の投稿で述べたとおり、今回から「田中舘秀三博士の活躍の映画化を目指すべく賛同者や本職の方の参考にしていただくためのシナリオ案を提供する」との見地から、秀三博士の物語について、計11回という当ブログ史上はじめての途方もない?連載を開始します。

末尾の「あらすじ案(導入部)」をご覧になって関心を持っていただいた方は、どうか、呆れ果てることなく、最後までお付き合い下さるようお願いいたします。

なお、「あとがき」でも触れますが、シナリオ案のうち秀三博士らが植物園などを守るため奮闘した光景は概ね参考文献を要約したものですが、今回の主要人物であるシンガポール華人らとの関わりや「悪のカリスマ参謀との対決」などは当方独自の創作ですので、その点はご理解のほどお願いします。

シンガポールに行く前からこんな馬鹿げた?ことを考えていたわけではなく、思い立ったのは帰路の機内です。飛行機では映画を見るより本を読む方が好きなので、往路は本を読んでいたのですが、往路の着陸直前に、それまで拝見する機会のなかった「君の名は」が入っているのを発見したので、復路はひたすら拝見していました。

個人的には幾つかの場面や設定が懐かしのジャンプ作品「きまぐれオレンジロード」を思わずにはいられませんでしたが、それはさておき、秀三博士の顕彰のあり方としては映画が一番よいのでは?と思うようになり、帰国直後に博士を巡る物語についてあれこれ調べたところ、ますますその意を強くしました。

代表的文献であるコーナー博士の本(昭和57年刊の中公新書)では、訳者(石井美樹子氏)が「華々しい戦争シーンもなく、遠い東南アジアの博物館を守った物語なんてニーズはないと出版社に言われ難航した」と仰っていましたが、当時はともかく、今であれば、「縮まる世界」の中でシンガポールは十分に身近な国ですし、秀三博士らの功績も昭和57年当時よりも今の日本人の方が、価値を理解できる人が多いのではないかと思います。

そんなわけで、

→秀三博士の物語(の価値)を世間に伝えるには映画化が一番だ。
→しかし、埋もれた逸話なので、映画化してくれと叫んだだけでは誰もやってくれそうにない。

→いっそ映画化あらすじ案を作って関心を持ってくれる人がいれば、プロの耳に届いて本物を作ってくれる日も来るのでは?

→プロに関心を抱かせるため(素材提供)の「あらすじ原々案」くらいなら、自分でも考えつきそうだ。
→華人虐殺は日本陸軍の「悪のカリスマ」が絡むので、悪玉として対決させれば見応えも増すはず。

→どうせなら、シンガポールを建国した地元民との繋がりも描いた方がウケがいいのでは。
→それなら、「男たちの大和」の真似で現代パートも作り、現代人が過去を回想する展開はどうか。

→他の業界は分からないので、主人公をシンガポールに赴任する岩手出身の渉外弁護士にしよう。
→ラストシーンは、あれをネタ(舞台)にするのがお約束でしょう。

といった発想で、恥も外聞も捨てて?とりあえず作ってみた次第です。

余談ながら、往路で読んでいたのは、著名ブロガー・ちきりんさんの「自分の時間を取り戻そう」という本で、「高生産性シフト時代」を見据え、個々人の作業の生産性の向上を強く提案する趣旨の内容でした。
http://www.diamond.co.jp/book/9784478101551.html

深夜にこんな非生産的な話を書く暇があったら休めと著者に叱られそうな気もしますが、もし本当に映画化が実現するのでしたら、ある意味、とても高生産的な営みをしたことになるかもしれず、後者に化ける日が来ることを願って、とりあえずサイトへの掲載は何を言われようとめげずに行いたいと思います。

【あらすじ案(導入部)】

時は2006年の東京。盛岡出身で東京の大手法律事務所に勤務する若手弁護士・千代は、上司にシンガポールの顧問先企業への半年間の出向を命じられる。出世コースから外れたと落胆する千代を待っていたのは、あの戦争がシンガポールに及ぼした惨禍を知らず観光気分でやってくる日本人を快く思わない顧問企業の直属上司・ヤンによる冷淡で過酷な業務命令だった。

ほどなく、顧問先企業に激震が走るも、対策チームから外され不遇感を託っていた千代。そんな千代がある日、執務机に置いた写真を見て驚いたヤンは、千代に古ぼけた水彩画を見せてくれた。

ヤンは、その絵が、日本の占領時にシンガポールの貴重な文化財を戦災から守り、抗日活動に携わるヤンの祖父を日本軍の追跡から守ってくれた、ヒデゾウ(田中舘秀三)という日本の学者から贈られたものだと告げ、祖父と父から聞いた話を語りはじめる。

それは、金もいらず名もいらず、大英帝国が東南アジアの大自然をもとに築き上げた人類の共通資産である膨大な学術資料と貴重な文化財、植物を混乱と略奪から守り抜き後世に遺すことだけを求めて立ち上がった、一人の風変わりな異端学者の物語だった・・・

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博士が守った世界遺産は黄昏と共に~シンガポール編⑤

シンガポール紀行&感想編の締めとして、最終日(3日目)について少し書きます。

この日は、午前中に「アジア最大級のリゾート地(シンガポールの観光立国の象徴)」と言われるシンガポール南部のセントーサ島に行ったものの、諸事情により、水族館「シーアクアリウム」と展望台「セントーサ・マーライオン」を見ただけで本島に戻りました。

セントーサ島はユニバーサルスタジオやウォーターパークをはじめ島全体がリゾート地として開発され、ビーチもあるそうですが、各種娯楽施設を備えた人口リゾート地としてはアジア最大級なのだろうと感じました。

といっても、そうしたものに関心の薄い私は、引率(ケーブルカーを利用したかった等の理由から往路のみH.I.Sのツアーを利用)のガイドさんに「日本軍が戦時中に多くの華人を虐殺した際、この島に多数の遺体を遺棄したという話を聞いたのですが、島内に慰霊碑などはありませんか」と尋ねたところ、慰霊碑などは無いが、シロソ砦に戦争に関する展示があるとの説明を受けました。

帰国後に少し調べてみたところ、以下のようなサイトを拝見し、次に来星の機会があれば、ぜひ訪れたいところだと思いました。
https://www.nttdata-getronics.co.jp/csr/lits-cafe/sato/singapore.html

今回の主要目的地であるシーアクアリウムは、「世界最大級の海洋水族館」とのことでしたが(こちらは海専門で、「川専門」のリバーサファリとの違いを出しているようです)、駆け足で通過せざるを得なかったことやいわゆるショーの類がないせいもあってか(イルカなどは尊厳保護の点からショー禁止が世界的潮流となっていることの影響でしょうか)、鳥羽や名古屋港など日本の著名水族館の方が大きいのでは?との印象はありました。
http://singapore.navi.com/miru/154/

それでも「世界最大の水槽」とされるメインのパノラマ水槽は圧倒的な迫力があるなど、十分に楽しめました。

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今回は駆け足にならざるを得なかったので、半ば勘違いで行けずに終わった「中世アジアの外洋船の博物館エリア」も含めて、もう一度、見に来たいものです(但し、ポケモンと称する他国の著作物ではなく自国オリジナルキャラで勝負すべきでしょう)。

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セントーサ・マーライオンからは、現代的な都市と自然が共存するシンガポールの美しい光景を堪能できたように思います。なお、エレベーターの手前には、どういう理由か他の海獣に関する人形とかポスター類などが展示されていましたが、シンガポール・ゴジラ(略して「シン・ゴジラ」)といった感じのものもありました。

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その後、H.I.Sから頂戴した「チキンライスの名店のタダ券」を何が何でも消化しなければとの思いで、オーチャード通りにある著名店で昼食をとりましたが、店内は同じ魂胆で来店した?日本人だらけだったこと、日本語メニューが最初からテーブルに置いてあり、メニューも定食(セットもの)ばかりで、日本国内のレストランに入ったような感じでしたので、雰囲気という点では、さほど有り難みがありませんでした(もちろん美味しくいただきましたが)。

なお、お店が入っている建物の下層階はアーケードになっていて、日本の著名ラーメン店やトンカツ屋さんなどもありました。

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そして、ホテルに一旦戻った後、チェックアウトし、ようやく私にとっての第一目的地であるシンガポール植物園に行きました。なお、前日のトラブルの関係で、ホテルの方には果物の差し入れまで頂戴してしまいましたが、追加料金の請求もされず、重ねて恐縮の限りです。

シンガポール編の初回の投稿でも述べたとおり、同郷の偉人・田中舘秀三博士が数奇な縁?により日本軍の侵略による戦災から守った世界遺産・シンガポール植物園を訪れて、博士の何らかの足跡を感じたいということが、個人的な旅の目的になっていました。

事前にネットで少し調べた限りでは、残念ながら植物園内に博士を顕彰した施設等はなく、シンガポール博物館に当時の写真が残されている程度だということは知っており、時間等の都合で今回は博物館への訪問は困難と思っていたので、せめて、園内の雰囲気だけでも味わいたいということで、地下鉄(MRT)で最近できた植物園に隣接する駅に向かいました。

駅の場所が、本来の正面玄関の反対側(裏門)ということで、メインエリアまでそこそこ歩かざるを得ず、疲労状態の同行家族の文句に耐えつつ、中心施設たる国立ラン園(ナショナル・オーキッド・ガーデン)と、シンボル的存在である「バンドスタンド」(かつて演奏が行われた綺麗な東屋。英国庭園的な上品さに包まれており、非常に雰囲気が良いです)を見ることができました(残念ながら携帯写真は容量オーバーで掲載困難のため、こちらのサイトなどをどうぞ)。
http://tropicalplant.air-nifty.com/top/2006/11/post_1.html
http://singapore.navi.com/special/5029491

ナショナル・オーキッド・ガーデンは、花のメインの季節ではなかったのか、夕方に行ったのが悪かったのか、ネット上の写真で見るほどの華々しさは感じませんでしたが、それでも、ここで数十年ないしそれ以上前に開発された花々が今や日本をはじめ世界中で咲き誇るようになったのだと思うと、感慨深いものがありました。

また、花々もさることながら、熱帯の個性的な多数の木々や巨木などが印象に残り、静閑な雰囲気もあって、しばらくここでのんびりすることができればとの思いにかられました。ちょうど、新婚さんがバンドスタンドや園内の人口滝などで写真撮影をしている光景や小動物にも出くわし、そうしたことも好ましく感じました(明るく写った携帯写真はすべて容量オーバーで掲載できず、デジカメ紛失が悔やまれます)。

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しかし、残念ながら、そこでタイムアウト。実質2日半だけの弾丸旅行は終了し、夜行便で羽田に強制送還されました。

とはいえ、植物園が第一の目的地であり、予定では最初に駆け足で来るはずだったのが、最後に、多少は時間をとって訪れることができたので、黄昏のバンドスタンドを眺めながら、旅のラストにはちょうど良かったと思わないでもありませんでした。

予告どおり、次回から田中舘秀三博士の物語について、映画化を目指した「あらすじ原案」のご紹介を中心に、以下の構成で計11回の連載を行います。

関心をお持ちいただける方は、ぜひ最後までご覧いただくと共に、映画化企画にご賛同いただける方は、それぞれの方法(ご自身で映画制作や原作小説の執筆など)に従事いただければ一番ですが、それは無理という方は、その種の業界に従事する方への「いいネタがあるぞ」というご紹介など。二戸や盛岡などの関係者は自治体などへの働きかけも含め)で、何らかのアクションを起こしていただければ幸いです。

【壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」】

第1回 企画案とあらすじ導入部
第2回 あらすじ案①現代編1~ふてくされた気持ちの中で
第3回 あらすじ案②大戦編1~舞い降りた男と英国人学者
第4回 あらすじ案③大戦編2~奇跡の楽園と殺意
第5回 あらすじ案④大戦編3~引継ぎの時
第6回 あらすじ案⑤大戦編4~学ぶ者たちの平等と誇り
第7回 あらすじ案⑥現代編2~そして花々は今も咲き続ける
第8回 あとがき
第9回 元ネタ(文献)のご紹介
第10回 映画化構想と賛同者の募集について
第11回 おまけ・田中舘父子と小保内家を巡る小話

ところで、2日目に宿泊先ホテル近くのアーケードを歩いていた際、シンガポールには珍しいスキー関係のお店を発見しました。この日のガイドさんは昨年?に札幌に観光に行ったと仰ってましたが、私の知る限り、岩手県(役所)や県民が、シンガポールと特別な結びつきを築いているとか、交流しているなどという話は聞いたことがありません。

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しかし、せっかく田中舘博士という偉大な触媒があるのですから、盛岡であれ二戸であれ、そのことを武器にしてスキー客誘致や各種交流・販路拡大に取り組むべきで、そうした方が現れないのであれば、とても残念なことだと思います。

岩手県(や盛岡など)は後藤新平などのご縁を通じて台湾との交流(集客)には熱心ですが、ひとつ覚えのように台湾の尻ばかり追いかける発想では、後藤新平も含め偉大な先人達に笑われるばかりでしょう。

あと、もう一つ余談ですが、シンガポールの地下鉄は、駅に着いて扉が開く際に女性の声で「ハピ、ハピ」というアナウンスが聞こえるため、これって「Happy Happy」と言っているのか、だとして、なんでそんなことを言っているのか、不思議に思っていたのですが、同じことを感じた方は多かったようで、「シンガポール ハピハピ」で検索すると、その答えが出てきます(ネタばらしをしても面白くないでしょうから引用はしません)。

最後に地下鉄からの一コマですが、優先席が日本と異なり各シートの脇=出入口に設けられており、こちらの方が良いのではと思いました。

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ウォシュレットがつくるアジアの平和と日本の役割~シンガポール編④

長期シリーズですいませんが、今回も、シンガポール旅行の感想編です。

先日、盛岡北RCのHさんから「弁護士だから毎年のように海外に行っているもんだと思ってたよ」と言われましたが、シンガポール編の第1回でも述べたとおり、海外に来たのは平成22年の日弁連の韓国視察を別とすれば、新婚旅行以来(10年以上ぶり)となります。

残念ながら田舎の普通の町弁が恵まれた時代は震災前に終了しており、現在は(他の弁護士さん達はともかく、私自身は事務所固有の事情もあって)生活費を賄うのに精一杯で、今回は、諸事情から今こそどうしても同国に行きたいと思い立ち、昔の蓄えを取り崩して無理にやってきたというのが正直なところです。

そんなわけで、久方ぶりの海外に来て強く感じたのは、「(修習生の頃に訪ねた非先進国らと異なり)こんなに華やかなシンガポールなのに、どこにもウォシュレットがない」という点でした。

私はアトピーでこそないものの全般的に皮膚が弱く、ウォシュレットの登場までは洋式ではきちんと拭けないとの理由で和式派でしたが、今では洗浄できないと耐えられない、という感覚になっています。

そこで、リバーサファリで日本語ガイド(前回投稿を参照)のノーラさんに「ウォシュレットは知ってますか、この国には無いんですか」と尋ねたところ、存在は知っているようでしたが(使ったことはなさそうでした)、自分は必要だと思ったことはない、回教徒(イスラム教)はホースを使った洗浄をするので、それで足りてるんじゃないか」などと、些か要領を得ない回答しかいただけませんでした。

なお、その際の私と同じく「ホース」が何のことかよく分からないという方は、こちらのサイトなどをどうぞ。ネット情報ではマレーシアなどで普及しているそうですが、私が新婚旅行でエジプトに行ったときには見かけた記憶がありません。
http://www.geocities.jp/hashimnakamura/experience/13th.html

あと、余談ついでに、この国の日本語ガイドさん達は全員、どういうわけかイスラムと言わず回教と言うので、何を言っているか理解できてない安直日本人旅行客も多数いたと思います。

結局、帰国後に調べたところでも、シンガポールではウォシュレットが全く普及していないとのことで、ネットで調べたら現時点では最高級ホテルのうちごく一部にしか設置されていないようです。

私も、馴染むまでは「和式で十分」と思っていましたので、利用経験のない?ノーラさんが不要と思う気持ちはよく分かりましたが、それだけに「ぜひ日本に来て、とことんウォシュレットを使ってみて下さい。外国に来れば誰しも下痢は避けて通れませんし、日本で買って帰る中国人に限らず、その良さが泣きたいくらい分かりますよ」と力説せずにはいられませんでした。

ともあれ、ウォシュレットの良さを広めるには、日本政府ないし日本企業が、多少の出費をしてでも東南アジアにウォシュレットを自ら設置して、その良さを地元に広めるほかないのではないかと思います。もちろん、日本以上に節電や蓋を閉めずに立ち去る大馬鹿者対策も必要でしょうが、そうしたことも含めたスマートなマナーの醸成も伴ってくれればと思います。

或いは、賠償問題は解決済みとお叱りを受けるかも知れませんが、「かつて迷惑をかけた分だけ、今こそ快適さを伝えたい」などと銘打って、ODA予算?か何かで、日本企業(TOTOとかリクシルとか)がサービス価格で受注するとの前提で、シンガポールをはじめアジア諸都市に無償(或いは補助金などを通じた半額以上の負担)でウォシュレットを設置してはいかがでしょう。

とりわけ、国際空港や日本人(の富裕層ではない旅行者やビジネス人、現地邦人など)が多く使用する施設やホテルなどに設置するのなら邦人のためという面も強く出ますので、納税者の理解も得られると思います。

で、アジア諸国の経済発展と共に、「自宅に必ずウォシュレット」との認識がアジア全域に広まれば、爆発的な需要が生まれますので、(汎用品の供給はすぐに現地企業に取って代わられるかもしれませんが)ITを駆使した最新優良製品を欲しい層は日本から輸入するといった形でリターンもあるでしょうし、何より、「日本の技術と知恵で、身体に新たな快適を得た(これまでの不快感から解放された)」という経験自体が、アジア平和の礎になることは申すまでもありません。

そうした意味でも、アジアの最重要拠点都市の一つであり国民一般の所得も高いシンガポールには、一刻も早く我が国をあげてウォシュレットの普及に努めるべきではないか、と建ち並ぶ高層公共マンション群を見ながら感じずにはいられないものがありました。

ネットで少し調べてみると、ウォシュレットは清潔な水道水(軟水)を利用できることなどが条件になっているとのことで、水の供給が泣き所となっているシンガポールでは一筋縄ではいかないかもしれませんが、その点も含む総合的なインフラ開発・輸出ができれば良いのではと思います。

それこそ、前回の投稿の続きで言えば、国内需要を超えて大量生産されている?日本の町弁達とウォシュレットは、諸外国にこそ活路があるのではという点で、似たような面があるのかもしれません。

そういえば、10年以上前にお邪魔したエジプト旅行でお会いしたガイドさんに同国の法制度を少し尋ねた際、エジプトはナポレオン時代からフランス法の影響が強く、同国憲法はフランス憲法と同じような仕組みになっている(ので大統領制だ)などと言われたような記憶があります(但し、肝心の私が仏国憲法のことを全然分かってませんが)。

そうした話を伺う楽しみという点でも、語学能力に欠ける私のような者は、この年になれば、無理にバックパッカーを気取らず、日本語ペラペラなガイドさんと上手く話ができる環境を作り、彼我の社会や文化の違いをよく聞いて学ぶことに留意すべきだと思いました。

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田舎の町弁はアジアのお雇い外国人または山田長政たりうるか~シンガポール編③

シンガポール旅行ネタの3回目ですが、今回は名所レポートではなく旅行中に感じたことのうち、弁護士業界のことについて少しばかり書きます。次回は、ウォシュレットについて触れる予定です(まとめて載せるつもりでしたが、長文になったので2回に分けました)。

1日目午後のリバーサファリ観光の際はツアー参加者が当家だけだったため、ガイドさんと日本語で色々と話をしながら歩きました。

ノーラさんと名乗る華人系の50代くらいのお喋り好きな女性で、行きのバスの車内で、シンガポールの歴史とリー・クアンユー首相の功績、現在のシェンロン首相の施政と課題などを熱心に語っていました。なお「共働き先進国」たるシンガポールに相応しく?今回の旅行でも日本語ペラペラのツアーガイドさん達のほとんどが女性で、年齢層も若い方から60代くらいの方までバラバラでした。

15分くらい続いたノーラさんの講義に対し、私は「その話は中公新書の「物語シンガポールの歴史」で読みましたよ」と30回くらい言いたいのを堪え、その種の話に関心の薄い同行配偶者は愛想笑いで聞き流すという、需要と供給の若干のミスマッチを感じつつ、トランプ大統領はTPPを構築し中国の覇権拡大を阻止したい貴国にとっては大打撃ですよね、盟邦・台湾が戦場になる不安も噂されますが、どのように立ち向かうのでしょう、などと、あまり実のない雑談をしながら歩きました。

で、私が「リー首相はもとは弁護士ですよね、私も同様なんですよ。英語は喋れませんが」と話したところ、ノーラさんもリー首相の経歴のことは知っていて、それに付け加えて、「我国にも弁護士は沢山いて、食えないから数を減らせとか、近隣諸国に出稼ぎせざるを得ないという話になっている」と述べていました。

私は「日本も全く同じ状態なんですよ。だから、日本の弁護士は法的インフラ整備が未了の東南アジア諸国などにドシドシ進出して、法整備や実務構築のための仕事をすべきだと思っています。ただ、日弁連は無為無策にしか見えない上、我々の最大の難点は英語能力の不足であり、語学面で(アジア進出の競争相手として)アドバンテージのあるシンガポールの弁護士さんが羨ましくて仕方がないです」と答えました。

さすがに、それ以上、そのテーマで話が深まることはありませんでしたが、そうしたことを考えながら、ガイドさん達のような通訳さえ確保できれば、私のような日本の町弁が、現地の社会・文化を研究しつつ、日本社会が培った法文化を上手に東南アジア諸国に普及させる手伝いをすることもできるのではないか、その場合、アジアの先進国仲間というべきシンガポールの弁護士の協力も得て、両国などの制度を比較・改良しつつ輸入国に適合する制度を構築することもできるのではないか、などと思いました。

とりわけ、いわゆるインバウンド(来日外国人の急増)を通じアジアなどの方が日本の諸制度に関心を抱くようになってくれれば、日本の法制(社会運営システム)も取り入れよう→それに長けた人材に来て貰おう、という機運を高めることもできないわけではないと思います(そのためには、「コト消費」の質を高める努力を日本側が行うことも必要でしょうが)。

また、現在は「膨張する中国」との間で様々な分野での非軍事的対決が必要になっているところ、「インフラとしての法制度の輸出」という場面で、社会運営に関して概ね共通の価値観を持っているはずの日・台・韓・星(シンガポール)のアジア4先進国が協力して輸出事業に取り組めば、「非民主的な専制国家」たる中国と対抗していく(それを通じて、究極的には、香港をはじめ中国内で同じ価値観を共有する勢力の伸長に期待する)ということも考えてよいのかもしれません。

などと書くと「シンガポールなんて一党独裁の明るい北朝鮮じゃないか、どこが民主国家なんだ」と言われそうですが、過去については同国の特殊性に依るもので、現在は移行期にあると考えてもよいのでは(そうであればこそ同国の穏健的な民主政治の進展に日本は役割を発揮すべきでは)と考えます。

ちなみに、日弁連の機関誌「自由と正義」2015年7月号には、東南アジアに赴任し活躍する若い企業法務系の弁護士さん達のレポートが載せられており、シンガポールのレポートを担当された方(坂巻智香弁護士)が、同国で活動する日本法弁護士の実情を報告すると共に、同国内に滞在・永住する3万人以上の邦人について、個人としての多様な法的ニーズがありながら、それを満たすインフラ(現地邦人向けのリーガルサービスの担い手)が整備されていないと報告していました。

また、日本の法テラスのような無料相談・援助制度(組織)もないため坂巻弁護士が有志を募り現地邦人向けの無料相談を試行したところ、相談者より「このような法的支援は絶対に必要だと声を大にして言いたい」と告げられたとのことであり、対外輸出云々もさることながら、現地邦人支援のための実務整備という点でも、日弁連ひいては実働部隊となる町弁達の出番が急務ではないかと思いますし、それは同国だけに限った話でないことは考えるまでもないことだと思います。

私も、海外在住の県内ご出身の方が当事務所HPをもとにメールでアクセスされ、相談を受けたことがありますが、込み入った話だと「これ以上は面談しながら多くの資料などを拝見したやりとりでないと適切な説明ができない、まずは、貴国に滞在する日本人弁護士に相談してみて下さい、それでどうしても話が進まなければ、その際の相談結果を踏まえて、もう一度、アクセスして下さい」とお伝えした(せざるを得なかった)ことがありました。

ご承知のとおり、近年ではクレサラ問題がほぼ収束し、現在では都会から過疎地まで弁護士がやってきて「過払などのハイエナ化」しているような有様ですので、日弁連は、国内の過疎地よりも(それ以上に)海外で「日本人弁護士による、日本の法的サービスを必要とする方」のための支援制度の構築(人を派遣すればよいとか法律事務所=ハコモノを作ればよいなどという話でなく、制度の整備や運用などを含む)こそ早急に取り組むべきではと思いますが、私の知る限り、そうした動きを聞くことがほとんどありません。

在外者向けサービスは、インバウンド(日本への来訪・滞在外国人のための法的サービス)と共に、今の日弁連が早急に取り組むべきことの一つではないかと思いますし、各地弁護士会もそうしたものに声を上げていくべきではと思いますが、どうなんでしょうね(などと余計なことを言っているから、10年以上経っても、誰からも岩手弁護士会の役員をやれとすら言われないのかも知れませんが・・)

私は最初から人生の選択肢を盛岡での開業一本に絞っていたわけではなく、高校1年のときは欧州の片田舎でひっそりと暮らしたいと思っており、東京のイソ弁時代にも、自分が特別に必要とされるような出逢いがあれば東京などに骨を埋めてもよいと思っていました。

結局、人徳不足かそうした出逢いもなく、自分で決めたレールどおり淡々と岩手に戻ってきたものの、このまま盛岡で一生を終えるのが自分の生き方として納得できるのかという気持ちが無くなったわけではありません。

もはや渉外弁護士を目指すだけの研鑽の余力も意欲もありませんが、語学能力がなくとも現地の法と実務の整備のため役立てるような社会(いわば、現地側が「お雇い外国人」として日本の普通の町弁を必要とするような社会)が到来してくれるのなら、10年ほどその地に移り住み、「大東亜の本当の平和」を目指した先人の思いを引き継いで汗をかくことができれば、などと夢想する気持ちを少し感じつつ、パンダの姿を眺めていました。

ただ、供給過多と言われながら需給双方に改善の見込が乏しい現在の町弁業界が、国内で不要になり食えないので海外に活路を見出そうとする光景は、お雇い外国人というより、太平の時代が到来したため東南アジアで傭兵となる道に救いを求めた江戸初期の戦国浪人達になぞらえた方が賢明かもしれません(弁護士も、傭兵の類に変わりありませんし)。

それならそれで山田長政(アユタヤ王国の重臣に上り詰めた当時の出世頭)のように現地で大活躍できればよいのでしょうが、長政自身の最期と浪人達の末路のような死屍累々の山にならないことを願いたいものです。

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交易と移民が作った多民族国家の「横と縦の多様性」と未来~シンガポール編②

前日に引き続きシンガポール旅行の2日目について、簡単に触れさせていただきます。

今回は、H.I.S.社を通じて旅行を手配した方なら無料で参加できる市内の名所巡りツアーに参加し、①ベイサンズの隣にある、最近話題の人工巨大ツリーなどを擁する最新型庭園(ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ)、②マーライオン周辺、③チャイナタウン(仏教寺院)、④インド人街(店舗群)、⑤アラブ人街(イスラム寺院)を昼食付きで午後2時過ぎ頃まで巡る、駆け足の弾丸ツアーに参加しました。

①の庭園(植物園)では、6階建てくらいの塔の周囲を草木で取り囲んだ施設(グランドフォレスト)に案内されましたが、ラピュタ上層部の雰囲気によく似ており、最初に登場する大型の人工滝も含め、このような施設は日本には今のところ存在しないでしょうから、そうしたこともあって大変見応えがありました。

残念ながら、2日目・3日目に使用したデジカメを帰国時に紛失してしまい、携帯写真は数も多くない上、容量の関係(2メガ制限)でブログに掲載できないものが多いので、シンガポール・ナビのサイトでご覧下さい。
http://singapore.navi.com/miru/142/

そういえば、修習生時代(平成11年頃)に裁判所の研修で、なぜか小岩井農場に連れて行かれたことがあり、その際、同社の緑化事業などを解説していた担当の方が「当社は三菱グループの企業なので、三菱地所が丸ビルの立替(現在の新生丸ビル)をする際に、丸ビルに人工の滝を作る計画があったものの予算の都合で頓挫した」というお話を聞いて「いかにもバブルちっくだな~」と感じたのを妙に覚えています。

ただ、こうした施設や中心部にある「森に覆われた超高級ビル(ホテル)」など(こちらのサイトもご参照)の光景を間近に見ると、あの頃にそうした施設を東京駅の真ん前に作っておけば、世界に日本の技術力や緑化思想をアピールし、その後の世界で高級建築物の受注競争をリードすることもできたのでは?などと、余計なことを思わないでもありませんでした。

②のマーライオン周辺は、真っ正面にそびえるベイ・サンズをはじめ、現在のシンガポールの高層建物群が港湾を囲んで林立する様子を体感でき、像そのものはともかく、これがかつて「世界三大がっかり名所」と呼ばれたことが信じられないという場所でした。

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③のチャイナタウンは、バズの窓から街をざっと見た以外は停車場所となった著名な仏教寺院しか拝見できませんでしたが、雰囲気は楽しめました。大戦前から多くの華人が本国から移住していたということもあるでしょうが、こうして大規模な仏教寺院が多く残っているのは、本国と違い文化大革命による迫害を受けなかったことも影響しているのだろうかなどと、あれこれ考えさせられました。

余談ながら、近くには国が供給した高層マンションが建ち並んでいましたが、日本では恐らくアウトと思われる「ベランダの外に竿を出して衣類を干す鯉のぼり光景」が多く見られました。スコールはあっても強風(台風)がない土地柄だからなのかもしれません。

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④のインド人街では、狭い路地の商店街を案内されましたが、日本で過去に流行ったルミナリエ(神戸は行ってませんが東京は見ました)のような飾りが通りに掛けられていたことが印象的でした。

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⑤のイスラム寺院は、衣類に関する制約(女性の肌の露出禁止)から、大半の女性がイスラム礼拝用の衣類を纏って院内に入っていましたが、それがかえって「無料の民族衣装着用会」の様相を呈し、着用した観光客の皆さんは喜んで写真を撮りあっていました。

いっそ、日本の神社仏閣も「和服を着ないと立入禁止」にして、拝観時には羽織って着用できる簡素な衣類を無料で貸し出せば、かえって観光客が殺到などということもあり得るかもしれません。

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個人的には、プラナカン文化(主に、出稼ぎ華人男性と現地マレー人女性との婚姻により、双方の文化が融合して生じたもの)を拝見する時間が欲しかったのですが、10時から14 時までの食事付き弾丸ツアーということもあり、バスで建物群をチラ見しただけで終わってしまいました。

ともあれ、このように大英帝国の植民地時代(戦前)から形成されてきた各移民(華人、インド人、周辺諸国からのマレー人=イスラム教徒)が培ってきた文化が保全された地区を拝見した後、最後に現代に戻ってベイ・サンズで解散となり、私にとっては「お目当ての一つ」であるホテルの展望台(プールは宿泊者専用なので無理)に行きました。

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もちろん、庶民にはこれで十分という素晴らしい眺望を堪能して下界に戻りましたが、しがない田舎の町弁家族は土を離れては生きられないのか、家族から再度のギブアップ宣言が出て、その後にお約束のようにトラブルが発生しました。

幸い、翌日には解決したこともあり、詳細は差し控えますが、宿泊先のホテルには大変ご迷惑をお掛けし、またお世話になりました。

ちなみに今回の宿泊先は、H.I.S.から「家族全員で同じ部屋に泊まれるのはここだけ」と紹介されたマリーナ・マンダリンという立派な吹き抜け(アトリウム)のある高級ホテルで、多少の年季は感じさせるものの、大変快適に過ごすことができました。ただ、日本との比較で1点だけ残念な点があり、その点は次回に触れます。

ともあれ、超駆け足とはいえ横の多様性(諸民族の集合体)と縦の多様性(伝統の保全と超現代的な建造物群の併存と調和)の双方を体感できた、貴重な一日になりました。