北奥法律事務所

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学童保育を巡る時代の交錯と「スタンダード」のいま~名古屋編①~

諸事情により盛岡市内の某学童保育所の役員を拝命しているのですが、責任者の方からの御下命で、10月29・30日に名古屋市で開催された「全国学童保育研究会」に参加してきました。2ヶ月弱も前の話で恐縮ですが、その件について少し書きたいと思います。
http://gakudou.me/zenkokuken/

といっても、私自身が何か作業や発表などをすることはなく、会場の様子を拝見しているだけ(で構わないので行ってきて欲しいと言われた)というお気楽なもので、毎度ながら書類仕事が溜まってるんですけどと思いつつ諸事情からお断りすることもできず、名古屋まで出張してきた次第です。

そもそも、「全国学童保育研究会」とは、全国学童保育連絡協議会という団体(以下「保連協」といいます)が年に1回、全国各地で開催している大会で、保連協とは、Webサイト情報によれば1967年(学童という存在の草創期でしょう)に保護者や指導員ら(全国各地の「父母会」形式の小規模な学童群らと捉えるべきでしょう)により結成された団体とのことです。
http://www2s.biglobe.ne.jp/Gakudou/

強制加入団体ではないため(後述のとおり、企業が経営する学童はほとんど加入していない?ように見えます)同一視はできないものの、弁護士業界における日弁連のような存在(全国研は日弁連の人権擁護大会に相当)と考えてよいと思います。

弁護士業界は当方のような1人事務所=零細企業が今も多いのですが、保連協に参加している学童は「父母会」という任意団体(法人格を有しない、権利能力なき社団)で運営されているものが中心なのだそうで(盛岡市内の学童の大半も同様だそうです)、その点でも弁護士業界に似た面があるかもしれません。

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当日は、29日の1時半から名古屋城二の丸の愛知県体育館で全体会があり、子供達の出し物(演舞)、来賓のスピーチ、保連協の会長さんの基調報告、学者さんの講演がありました。主催者発表では5000人が会場にいると仰っていましたが、私の感覚でも、2000~2500人程度はいそうな感じは受けました。

ただ、配布された資料では、岩手からは47人も来ているとのことでしたが、宮城14、青森2、秋田ゼロ?(記載なし)などと、どうしたんだ東北という感じの数字もありました。青森や秋田には、連絡協議会(支部組織)自体がないようですので、そのことも影響しているのかもしれませんが。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Gakudou/

30日は金城学院大学で分科会があり、案内によれば約30もの分科会があり、最低でも一つには出るようにとのことでしたので、当方の現状と関係しそうな「運営主体の多様化が進む学童保育~実態と改善の課題」と題する分科会に参加してきました。

一般教室1つ分の会場でしたが、収容人数を大幅に超える参加者があり満席状態で、午前は、自己紹介タイムのあと神奈川県某市で熱心に活動なさっている方から「市内の学童の運営を巡る役所らとの闘いの歴史」について熱いトークがありました。で、午後は、①役所との関係(補助金云々?)に関心がある人、②NPO化など運営形態に関心がある人、③他の学童などとの交流に関心がある人に分けて、グループ協議をせよということになりました。

私は、弁当をいただいた後は徳川園(と美術館)に向かうつもりで数ヶ月前から固く決意していたのですが、諸々の理由で泣く泣く徳川園を断念し、3時前までグループ協議に参加してきました。

グループ協議では、法人化して経営されている方々や利用者(父母)の方々からの「法人化した学童の現状報告」などが聞けるのかと思っていたのですが、そのような話はなく、集まってきたのも法人化していない(父母会形式の?)学童の方々ばかりで、父母というより指導員っぽい感じの方が多く、法人化云々というより、役所などに対するものを中心に、現在の運営状況への不満や不安などに関するお話が多かったように感じました。

また「学童のプロ」の方々の込み入った話が多く、私のような素人には即時理解が難しいものも多かったように思います。

グループ長さんが埼玉の方で、さいたま市は、数年前に市の方針で全学童をNPO法人化させる?といった話があったそうで、「法人化はこれからの社会の潮流だ」と仰っていました。

さいたま市ではNPO法人が複数の学童を運営するスタイルが多いとの話もありましたが、私が時間の都合で途中退席せざるを得なかったこともあり、その辺の詳細までは聞けませんでした。

ただ、「市役所に、学童を作りたいんだけど、運営をやってくれる人を紹介してくれませんかと頼んでくる運営意識のない無責任な父母がいて困っちゃうよね」といったお話もあり、人ごとと思えないというか、私が関与している学童も、これまで設立や運営を担ってきた方々が引退すると、盛岡市役所に同じ陳情をせざるを得ないのでは?と思わずにはいられませんでした。

そんなわけで、所期の目的である「NPO法人の設立・運営の先輩方から、運営の苦労話やキモになる留意点などを聞くこと」はほとんどできませんでしたが、それはそれとして、ほとんど存じなかった保連協のことがある程度は分かってきた面がありましたので、その点は大いに意味があったと思っています。

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全体を通じて感じたのは、保連協は学童保育の草創期から当時の方々が負ってきた課題と向き合う形で形成されてきた団体であり、良くも悪くも「古き良き学童」の利害を代弁している面が強いという点でした。

少し具体的に言うと「学童は少額の料金で利用できるのと引き換えに父母が信頼関係を形成して和気あいあいと運営に携わる(ので、その結果として低コスト経営にする)のが、あるべき姿である。よって、運営に携わろうとしない父母は好ましい存在ではないし、学童の文化や歴史を学ばず企業が安易に参入するのも間違っている。同様に高い料金で塾云々を提供するようなタイプの学童も自分達とは異質の存在である。そうした学童の「和気あいあい文化」を守った上で、指導員の待遇改善や施設の維持向上を(値上げの選択肢は避けたいので、役所の補助金などを通じて)図りたい」という考え方で運営されているのだろうとの印象は強く受けました。

それで、そのようなアイデンティティを守ることが「運動」の一つの目的になっていて、それが、良くも悪くも保連協の性格を決定づけているのだろうとも感じました。

なお、学童保育の世界では利用者たる監護者等を「父母」と呼び、「利用者(顧客)」と呼ぶことを避けているのですが、そのことも、単に「父母会形式=全利用者による共同経営」がこれまでの中心スタイルになってきたというだけでなく、そうした歴史・文化が影響しているのだろうと思われます。

そうであればこそ、すべての利用者=親と子が同じ思いを共有していれば、「保連協の理念」と利用者のニーズとの蜜月関係は今後も続くのでしょうが、果たしてそうなのだろうか、とも感じるところはあります。

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かつて日本は中流社会で、その主流派は専業主婦+堅実収入のサラリーマンか三世代同居などであり、学童を必要とするのは共働きに「ならざるを得ない」低所得者層と一人親家庭などのみで、それゆえ「子供の居場所を低料金で提供する」というサービスに切実な必要があり、かつ利用者層全体がそのニーズを概ね共有していたのではないかと思います。

これに対し、現在は、お医者さん夫婦や大企業夫婦のような(公務員夫婦や学者さん夫婦なども?)、「両親併せて(一人だけでも)相応の収入があり、親自身も相応の学歴があるので子供に習い事や教育を仕込みたいが、自分達には時間がない。よって、安くない料金を支払ってでもそのサービスをしてくれるところに頼みたい」という「中・高収入の暇なし夫婦(実家の労働力も得られず)」が相応に存在していることは間違いないでしょうし、私が関与している学童の利用者にも、そうした方々が一定数おられるのではと感じています。

報道やwikiなどを見ても、大都市では、そうしたサービスが広まりつつあるそうですが、そうした方々(利用者・運営側双方)のプレゼンスは、ここ(保連協ないし全国研)には全く感じませんでした。

果たしてそれでいいのか(そうした方々も取り込んだ、総合的な「学童全体=すべての子供達の利害」に取り組む団体は存在しなくてよいのか)という余計なことを感じる面はありました。

もちろん、現在も(或いは昔以上に)、非正規雇用の拡大などの事情から、高額な利用料なんて無理ですという共働き家庭は山ほどあるわけで、詰まるところ、学童のサービスを求める利用者(家庭)側に、昔は存在しなかった利用者層の格差ないし利害対立が潜在化しているということに尽きることだと思います。

その上で、都市圏にはそれを満たす「高料金の塾・習いごと学童」が存在するのに対し地方には伝統スタイルの学童のみという構図は、あたかも私立中(とその進学のためのお受験予備校)が都市に集中している光景に似ているような感じはあります。

これからの日本は「都市と地方が、諸インフラの差などのため別の国であるかのような社会になるのでは」とも言われていますが、「学童」という切り口からもそうした光景が現出しているのかもしれません。

分科会の講師の方は「学童は補助金がないと存続困難なビジネスモデルだ。自分は民間企業のエンジニアをしているが、その目線から見てそう思う」と仰っていたのですが、施設(学童)=供給側に税金を払うのではなく、利用者側(子供)に、いわゆるバウチャーを発行する方式などについて保連協は「運動」しなくてよいのだろうかと、ある意味、不思議に思いました。

学童という存在の公的性格は現在ますます強まっていると思いますが、「学童が公的存在だ」というのは、施設自体が「公的」なのではなく、「利用者たる子供が居場所を必要としていること」が、人口減少や少子化云々と相俟って公的なニーズ(税金を使ってでも対処すべき事柄)になっているので、その受け皿たる学童に公的性格が認められていることを指すと言うべきなのだと思います。

だからこそ、あるべき「税金の届出先」は本来は供給側でなく利用者側ではないかという感じがしますし、その上で、地域内に複数の学童(的なもの)が存在し、利用者は、それぞれのニーズ等に応じて、学童を選んで、「伝統スタイルで低料金の学童」をタダ(同然)で利用するか「塾・習い事型の学童」に追加料金を払って利用するか、選択できる社会が望ましいのでは?と思います(組み合わせ型を含め)。

少なくとも、過去に主流だった「(所得の少ない)親が低料金で子を預けるのが学童だ」という文化のうちは、子供向けの様々なサービスが花開くということは難しいかもしれませんが、例えば「バウチャー」のような方法で親の負担を誰かに転嫁しつつ施設側が十分な売上を得て学童を運営できる社会になるのであれば、利用者たる家庭にとっては、伝統的な「和気あいあい学童」から新しい「バリバリ学童」まで、地方都市の住民も含めて色々と選択肢が広がるのではと感じています。

ただ、その程度のことは長年、学童に携わってきた方々ならとっくの昔にご存知のことでしょうし、その上で、敢えて「運動」の方針にバウチャーのような「利用者の補助(選択権の拡大)」という項目をお見かけしないのは、それが、この団体の方々の理念と合わないからなのだろうか、でも、それが「いいこと」なのだろうかと、感じる面はありました。

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ちなみに、今回の「研究集会」が報道されてないかと検索したところ、唯一、「しんぶん赤旗」の記事を見つけました。

ただ、全国研には他政党の来賓の方もいらしていましたし(蓮舫代表は秘書の方が紹介されていましたが、民進党愛知2区の古川元久議員はご本人がいらしてました。自公の方が来ていたかは分かりません)、集会では共産党に限らず特定政党云々という話は全くありませんでした。

詳しい方にお話を伺ったところ、保連協は草創期はさておき相当以前から政党色がなく、近年では自民党の政権復帰後に学童向けの予算が増えた(ので有り難い)などと仰る方も珍しくないそうです。

ですので、ネットで保連協の検索をすると見かける記事の類は「かつての光景」なのでしょうし、上記の記事も取り上げていただいたマスコミが赤旗のみだったという程度のことだと思いますが(岩手なら地元紙にも載るのでしょうけど)、それ自体はケチを付けるべきことではなく、学童保育の歴史的な経緯などの関係から、やむを得ないというか、ごく真っ当なこととして理解すべきことなのかもしれません。

ただ、さきほども書いたとおり、現在は「自分達が長年背負ってきた価値を守るための運動」だけでなく、自分達とは異質な他者のニーズをどのように取り込んでいくか(それにより自分達をどのように変容させ、次代にも必要な存在として生き残っていくか)という適者生存的な発想が必要ではないかと感じていますので、そうした面があまり見えなかったのは、「運動ちっく」というか、少し残念に感じました。

とまあ、余計なことばかり山のように書きましたが、他の方がご覧になれば全く違う印象、感想をお持ちになることもあるでしょうし、こうした光景を一生に一度拝見するだけでも大いに意義はあろうと思います(私は1回でおなか一杯ですので、今年で卒業とさせていただくつもりです。たぶん・・)

ともあれ、こうした貴重な機会を与えていただいた関係者の皆様に御礼申し上げます。

公務員制度改革と「大きな政府・小さな政府」を巡る5年前の議論といま、そして末端現場の光景から

自民党の復権(第2次安倍政権誕生)以来、「安倍1強」というべき状態が続いていることに、政治状況の安定の反面、アンチでなくとも閉塞感や社会問題に関する議論の不活発さを感じているという方は少なくないと思います。

最近の社会経済を巡る話題としては、トランプ政権誕生や英EU離脱などで世界経済及び政治が閉鎖的・抑圧的な方向に向かうのではないかとか、人口減少(国内生産・需要縮小)やこれに伴う移民やインバウンドなど「外国(或いは地域の圏外)との関わり」をテーマとするものが多いように思いますが、「自分達の内部(既存の主要部門)の問題点をどのように抽出し変えていくべきか」についての議論は、あまり熱心になされていないように思わないこともありません。

平成24年1月に消費税の増税や公務員制度改革に関する古賀茂明氏と高橋洋一氏との対談記事をもとに、あれこれ書いて旧ブログに載せたことがあり、勿体ないので微修正の上で再掲することにしましたが、双方とも議論も具体的な改革等も先送りになったまま現在に至っているように思われます。

そうしたテーマに関心のある方は、引用している対談記事も含め何らかの参考にしていただければと思います。

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私のfacebookの「友達」には、ネット上の論文などを頻繁に紹介(コメント投稿)する方もいますので、その方を通じて普段は接する機会のない社会経済・政治システムなどに関する論文を拝見することが時折あります。

平成23年の記事ですので多少古いですが、以前、その方の投稿で「脱サラならぬ脱省?(脱官僚だと別の意味になりますので)した方としては日本有数の有名人」である古賀茂明氏と高橋洋一氏との対談が紹介されていたので、興味深く拝見しました。

http://diamond.jp/articles/-/13257
http://diamond.jp/articles/-/13376

私自身は国家公務員制度改革を巡る詳細な議論に立ち入った発言をする能力はありませんが、読んでいて、次の感想を持ちました。

まず、古賀氏らは、「消費税増税を推進してきた勢力(財務省)や政治家は、古賀氏ら=安倍首相(第1次)や渡辺喜美元行革相が推進していた公務員制度などの行政改革に対し反対或いは消極的な立場をとり、逆に、行政改革推進派は、消費税増税に反対或いは消極的な立場をとってきた」と述べています。

そういえば、死語となった「上げ潮派」(渡辺氏、中川秀直氏ら)は消費税増税に反対し民営化や国有資産売却等により財政再建を図るべきだと主張していましたし、当時、民主党内で増税やむなしと主張する方々(野田・菅もと首相、仙石氏ほか)からは行政の制度改革に関する熱心な声はあまり聞こえてきませんでした。

ちなみに、野田首相の腹心の一人?である蓮舫行刷相(現代表)は、行政が運営する特定の事業(スパコンや宇宙研究など)には合理化(無駄削減)や規模縮小を要求していたことで強いインパクトを残しましたが、行政のカタチの変革(例えば、国が福祉などに広範に関与するのを止めるべきという「大きな政府・小さな政府」の議論)に言及されているのを拝見した記憶がなく、この点は現在も同様のように感じます。

「無駄排除」は政府の規模・指向に関係なく当然に要求されるものですから、民主党政権が実施した「事業仕分け」が行政の仕組みの変革を伴わない、個別事業の費用対効果のチェックに止まるものであれば、福祉国家(大きな政府)の維持への支持を確保するため、無駄排除・費用対効果の検証をしたもののようにも見えます(もともと民主党は福祉国家=大きな政府派の方が多い政党ではないかと思われます)。

対談を見る限り、古賀氏も高橋氏も天下りの禁圧などを通じた行政組織のスリム化を指向すると共に、それを現実に実行できる力を持つ権力機構(としての内閣府人事局)の実現(それが「公務員及び関連利権業界」と対決すること)を求め、それを通じて、消費税増税(一般国民の負担強化)をせずに財政再建(行政コストの節減)を図るべきだとしていますので、基本的には「小さな政府」派なのだと思います。

自民党時代、福田首相や麻生首相が公務員改革に不熱心だったとの指摘もありましたが、このお二人に共通する政治哲学も、「大きな政府=福祉・積極国家」と言えると思います。

というのは、福田首相が創設に情熱を注いだ消費者庁は、行政(役所)が消費者保護に関する様々な事業を行うというものですし、麻生首相が熱心に取り組んだ事業も、高速道路無料化やいわゆるアニメの殿堂など国の出費を要するものや、中小企業向けの返済猶予法(金融円滑化法)など私経済活動に対する国の干渉を伴うものが多かったように思われるからです。

逆に、第1次安倍政権が熱心に取り組んだ政策と言えば教育改革と公務員制度改革が思い浮かびますが、いずれも福祉や国の財政出動とは関係が薄い(又は逆のベクトル)ように思われます。

消費税に話を戻すと、私自身は国が潰れたら困るという単純な発想や所得税と比べた消費税の公平性(捕捉面での)などから、相応の行政改革がなされるのであれば、国を守るため一定の増税は避けられないのかなと素朴に思ってきました。

ですが、私自身は「公(パブリック)のサービス」は可能な限り利用者・供給者双方にとってペイするシステム(赤字にならず収奪もしない経営)にまとめ上げるべきで、それを前提に、公営(役所の税金経営)ではなく、民間が担う(民間の経営努力を最大限活用する)方向に導くべきだと考えており、そうした意味で、どちらかと言えば小さな政府派だと思っています。

そのため、「消費税増税の議論ばかりしていては、それで財源を賄えば足りるとする勢力に押し切られ現在の肥大化した行政機構が温存されてしまう」という主張には、共感せずにはいられないものがあります。

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もちろん、私は行政機構や国家統治の世界に何らの関わりも持っていませんが、仕事上、役所が実施する無料法律相談事業などの末端(現業)レベルで、行政の方々と関わることがあります。

ほんのちっぽけな話ですが、その中にも行政のあり方について疑問を感じざるを得ないことがないわけではありません。

例えば、ここ数年、県内で国や自治体が開催する無料相談事業には、広報等の積極的な集客努力をしなければ、担当者(弁護士)の拘束時間の半分にも満たない来所者(相談者)しか得られないものが増えています(この点は平成28年末現在も状況は全く変わらず、むしろ悪化しているとすら言えます)。

震災や債務整理特需の終焉の影響もあって、一種の相談事業デフレ(供給過多)が生じているのですが、行政(主催者)には自ら集客の努力をする姿勢が希薄で、集客が得られず事業としては失敗しているように見えても、早めにテコ入れ(単なるチラシ等ではない、効果的な広報等)や中止しようとする動きもなければ、誰かが責任を取ることもないように見えます。

そのため、準備の手間や長い移動時間等をかけて嬉しくもない内職時間を与えられる身としては、集客や設営等を民間委託して、実績(集客力や顧客満足度)に応じた報酬を受託者に支払う形式に変更し、それでも集客等が得られないなら無料相談事業(いわばニーズの乏しい公共事業)そのものを再検討(事業仕分け?)する方向に考えて欲しいと思わずにはいられません。

役所の無料相談事業は、弁護士にとっては、相談者の数が多ければ、相談そのものの意義もさることながら、中には単価や能率の面で受任価値のある(仕事として意義があり経済的にもペイする)事件に巡り会える確率が高くなるというメリットがあります。

他方、せっかく会場に赴いても相談者が来所しなければ、時間と労力の無駄であることはもちろん、行政(納税者)にとっても、少額とはいえ弁護士に支払う日当の費用対効果も低くなりますし、事務を担う公務員等の点でも行政資源の無駄遣いと言わざるを得ません。

よって、この種の相談業務も、役所(お役人)に営業努力(集客等の努力)が望めないのなら、イベント設営等のノウハウや意欲のある企業に設営や集客業務を引き受けてもらった方が、良いのではないかと感じています。

この場合、受託企業がインターネットやメディアを活用するなどして集客努力を図ったり、弁護士の相談対応の仕方等についても弁護士の過度の負担や出費増を避けつつ顧客満足度を高める新たなサービス(設営)を創出するなどの展開が期待できる余地はあるでしょう。

さらに言えば、「お役所が無料法律相談事業を行う」というのは、同一のサービスを供給する事業者から見れば、民業圧迫という面が否定できません。

正当な理由(弁護士過疎地の供給不足の補完や低所得者向け事業の必要等)があれば否定されるべきではないと思いますが、現在では、弁護士過疎の解消等によって行政が広範・反復的に無料相談事業を展開する意義が薄れつつあるように思われますし、実施するとしても、役所を経由しないサービス供給の仕方も検討、普及されてよいと思います(例えば、コールセンター等が受付業務を担い実際の相談業務は弁護士の事務所に誘導して対応するなど)。

消費税に比べれば、ちっぽけな話ではありますが、こうした話もまた「大きな政府(役所による公的サービス供給)vs小さな国家(民業による公的サービス供給)」に関わる話であり、財源の問題も伴う以上、税金とも関係することだと思います。

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何のためにこんな話を延々と書いたのかと言えば、我々、一般人は、古賀氏らが議論するようなスケールの大きい議論は拝見する程度のことしかできないのが通例です。

ですが、各人が関わっている各論の中に大所高所の議論と関わる事項があるのですから、それを語ることなら各人に出来ますし、それを積み上げていくことが「改革が潰されないように、議論を骨太に仕上げ推進力を維持する」ためには必要なのではないかと思います。

国民自身が進んで身を切る努力をしなければ他者(役人)に変革を促す資格がないという面もあるとは思いますが、税金支払以外にも努力の道があると思われ、そうした取り組みが活性化すればと願っています。

ところで、橋下市長の引退までの数年間に亘り一世を風靡している大阪維新の会ですが、その主張を見ていると、基本的には「小さな政府」指向に見えますし、橋下市長の現役時には、労働組合を中心に公務員勢力との対決姿勢を鮮明にしていました。

現在では何を目指している政治勢力なのかよく分からなくなりつつ面はありますが、過去の経緯から、改めて、橋下氏の復帰であれ新たなシンボル人材であれ、何らかのカリスマを立てて、その点を大きなテーマとして国政に打って出ることはあるでしょうし、その際、何らかの形で「大きな政府か、小さな政府か」が争点になるのであれば、この種の議論を好む者としては、歓迎する面はないわけではありません。

これに対し、消費税反対の一方の雄である小沢氏らは「大きな政府か、小さな政府か」という視点で見ると、どのような立場に立っているのか今のところよく分かりません。

大まかには、「増税を回避するが子ども手当や所得補償などは維持する」というスタンスのように見えますが、具体的な財源捻出策が提示されないまま時間ばかりが経過したように思われ、残念に思います(善解すれば幹事長時代に行った自民系の支持団体への予算カットなど、既得権益の破壊を想定されているのでしょうから、権力再奪取までは手の内を見せにくいということかもしれませんが)。

「安定的な民主党(小沢派)政権の実験場」たる達増知事の県政運営を見る限り、相応に財政健全化を意識されており(震災の関係で予算自体は膨張しているようですが)、財政を危うくしてまで福祉サービスを優先するとのスタンスではないと感じていますが、国のカタチを巡る立場について、より分かりやすい政見を示していただければと思います。

北風~他業界にも吹き荒れますように?~そして、フェアユースの本質としての多様性と尊厳

ここしばらく多忙等を理由にブログの更新ができず、ご無沙汰しております。おかげさまで、今年も超低空飛行ながら何とか年を越すことができそうです。

今日も今日とて兼業主夫業に負われる日々のため深夜に事務所に帰り寝袋で朝まで寝てしまうことも珍しくないのですが、午前4時前後に自宅に戻る日もあり、この時期は深夜に降り積もった雪が月明かりや道端の光で誰もいない街を明るく照らす光景を目にすることもあります。

そんなときは槇原敬之氏の「北風~君にとどきますように~」の歌詞が思い浮かんだりもしますが、「誰のせいでこんなに遅くまで仕事してるんだ」などと色気のない八つ当たり根性に囚われているせいか、毎度ながら自虐替え歌の歌詞ばかりが涌いて出てくる有様です。

まあ、おかげさまで当事務所もどうにか年越しだけはできそうですし、我が業界も今は混迷の真っ只中ですが、もうしばらくすれば多少は落ち着くのではと期待したいところですので、あまり愚痴っぽいことばかり書くのもどうかとは思います。

ともあれ、来年も、当事務所にとっても依頼主の方々にとっても、

もう裁判はしないなんて 言わないよ絶対~♪

といった感じで問題解決のため訴訟制度など(弁護士の活用)を前向きに考えていただけるよう、研鑽に努めていきたいと思います。

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いま君がこの雪に気付いてないなら
人並みに眠れて恨めしい 心から思った

深夜のカップ麺じゃ 根気も続かないような夜
事務所のソファの寝袋で 恵まれた過去なつかしむよ
今は滅入る話ばかりで 思い当たるのは
北緯40度の岩手には東京にいない貧乏神

昔よりひどく売上落ちてる
帳簿をそっと開けて僕は言葉なくす

北風が吹きすさぶ 町弁業界
毎晩文書作るのに 収入は凍えている
いま君がこの光景に覚悟がないなら
弁護士目指すのやめとけ 心から思った

どれだけたくさん仕事に 囲まれていても
なぜか働いてないような額しか預金が増えなくて
だから無理に首を縦に振っていたけれど
きっと同業者みんな 「おかしいだろ、これ」と言いたいはず

事務所を開いたその時から
法律の意味さえ 変わってしまう?

贅沢や出費がかさむ 話題のたびに
かっこ悪いくらい 何も話せなくなるよ
明日もし 飲みに行こうと誘いが来たなら
小さく「無理」だと言っても 君に聞こえない

北風で書類の山も雪に沈む
出番なく錆びついた 企業法務 忘れていく
いま君がこの業界に夢を見てるなら
誰より早く教えたい 心から思った

北風が深夜の街を白く包む
歩車道は雪原となり 孤独な帰路を癒やしている
明け方に この雪が積もったままなら
起きるの無理だと言っても 君に聞こえない

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ところで、替え歌は元ネタの作詞者の方の著作権(著作者人格権、著作財産権)との抵触の問題があり、我が国の法制ではいわゆるフェアユース規定が設けられていないため、替え歌の公表などは、現時点では違法とされてもやむを得ないと説明する業界人の方も少なくありません(というか、たぶんそれが主流なのだと思います。著作権に関する実務に関わる機会に恵まれませんので勉強しておらず、何となくですが)。

この点(違法性ないし損害の有無)は、以前に他の方の替え歌を載せたときにも書きましたが、基本的に原著作権者(作詞者等)の合理的意思解釈の問題だと思っており、利用(公表)の内容や態様が、作詞者側の収益等に関する正当な期待を害するか、作詞者の制作者(創造者)としての尊厳(同一性保持権)に照らして合理的意思(許容認識)の範囲内と言えるかを、諸般の事情をもとに総合的に判断すべきことだと考えています。

ただ、替え歌に関してしばしば伝えられる「風刺の文化」(原著作物の風刺というより社会風刺の手段として、人口に膾炙した存在たる人気楽曲の歌詞を拝借し、自分なりの創造を加えて何らかのメッセージを相当な態様で伝えようとする行為)については、原著作権者の狭義の意思だけで説明し尽くせない公的な要素も視野に入れるべきではないかと思われ、それは、「人の知的創造という営みに敬意を表し尊重・保護する」ものとしての著作権の本質に内在する事柄(原著作物の内在的制約?)ではないかと考えます。

思いつきレベルですし上手く整理できていませんが、良質な知的創造物ほど、原型(元ネタ)の創造者に敬意を払いつつ様々な他者の手で良質なアレンジを施して新たな息吹(メッセージ性の幅の広がり)を与えられるべき性質を内在しており、そうした観点から「フェアユース」としての替え歌のあり方を考えてもよいのではないでしょうか。

私自身は、申すまでもなく「戯言として作ったものを折角なので誰かに聞いて欲しいから」という程度の動機で載せているに過ぎませんが(商業的利用どころか「こんな変なものを載せる弁護士はヤバそうだから仕事は頼みたくない」などと仰る方もそれなりにいそうでビクビクしており、匿名ブログを別に作って載せるべきかもしれませんが、そんな技術も余力もありません)、良質な具体例が社会内で多く示されていけば、フェアユース法制を巡る議論も深まるでしょうから、そうした観点も交えつつ「作詞者に敬意を示しながら替え歌(を通じた社会風刺)を健全に楽しむ文化」が形成されてくれればと願わないでもありません。

優雅なお友達と冷たい裁判官

「妖怪ウォッチ」(TV番組)の現在の主題歌は、You got a(ゆーがら)お友達~♪ のフレーズを繰り返す曲になっているのですが、深夜の事務所で書類仕事に明け暮れながらfacebookで多くの「友達」の方々の投稿を拝見していると、毎度ながら自虐替え歌ばかり浮かんできてしまいます。

優雅なお友達  優雅なお友達
僕以外は あなたも 彼も 彼女も あの人も
優雅なお友達  当方は終わらない
優雅なお友達  今夜も泊まり込み!

まあ、人の芝生を見て我が身を嘆く暇があったら仕事せいや、ということに尽きるかとは思いますが・・

弁護士業界に限らず、我国も米国の後を追うように格差社会が深まる一方ですので、時代に置き去りにされたと感じる人々の琴線に触れる巧みな暴言とマーケティング技術で社会に君臨せんとする御仁も程なく登場するのでしょうが、真贋を見極める目を養いつつ、どんな状況でも笑いに変換できる心の余裕を持ち続けたいものです。

最近の岩手の若い弁護士さんは、昔はさほどおられなかった東北大卒の方が多いのだそうで、かつては「学歴は無関係」などと称された田舎の町弁業界も、今や学歴ヒエラルキーに呑み込まれつつあると思わないでもありませんが、

あたし中大卒やからね スジのいい 仕事もらわれへんのやと書いた

などと腐ることのないよう、悩ましい事件にも感謝の心を忘れず、絶えず研鑽を積んでいこうと思います。

ファイト! 冷たい裁判官に ふるえながらのぼってゆけ~♪

【追記1】

この投稿をした後、もしかして同じことを考えた人がいるかもと思い「優雅なお友達」と検索してみたところ、沢山の同種投稿を発見しました。同類がいたと喜ぶべきか、希少価値のない投稿だったと悲しむべきか、どちらでしょうか・・

【追記2】

結局、今夜も深夜残業になったので、余勢を駆って全面的に作ってみました。ただ、「ようかい体操」のように内部で削除命令を受けるかもしれませんが・・

優雅なお友達 優雅なお友達
僕以外は あなたも 彼も 彼女も あの人も

優雅なお友達 優雅なお友達

大切なのは 分かり合うことで
書き散らすことではない

友達の輪 ネットで繋がるだけの絆
写真載せるならスシ たまには自慢しよう

笑い方忘れてるなら 自虐ネタ 書くよ
勝ち方を知らないなら 実務おしえるよ

投稿に付く「いいね」の数は 自分のサイズがちょうどいい
見上げても 見下ろしても キリがなく
心がギクシャクするだけだから

優雅なお友達 優雅なお友達
僕以外は あなたも 彼も 彼女も あの人も

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乳幼児の虐待防止と育児家庭の一斉面談制度の提案

乳幼児の虐待殺人事件は昔から存在しているとは思いますが、最近は育児環境に不利な条件を抱えた方が増えているせいか、特に報道される機会が多くなっていると思いますし、とりわけ、下記に引用した事件のように、「若いシングルマザーが、ろくでなしの交際相手(内縁夫)に流される(人として呑み込まれてしまう)形で、男の主導のもとで虐待殺人が行われるケース」が増えているような感じがします。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161125-00000051-mai-soci

このような事件は、要するに「ろくでなし男」側が、自ら殺傷したり母親に子を殺すように仕向けているとしか思えませんが、少し前に読んだ、橘玲氏の「言ってはいけない」(新潮新書)で、未開部族や他の動物の習慣として、そうした話が取り上げられていました。

いわく、南米やオセアニアには、乳幼児のいる女性と結婚した男が女性に子を殺すよう要求する習慣のある未開部族があるとか、ハヌマンラングール(オナガザルの一種)のオスが子連れのメス集団(ハーレム)を乗っ取った際、真っ先に小猿達を殺戮する習慣があり、これは、授乳中のメスは交尾に応じず、小猿を殺すことでメスが再び発情期になり新たなオスの子を産めるようになるという、オスの繁殖戦略に基づく(そうした行動をとったサルが、結果として種を後世に残して繁殖した)というものだそうです。

実親による虐待事案も多くありますので、すべてをそれで説明するのは無理でしょうが、我が国でしばしば報道される「内縁夫などが絡むネグレクト殺」は、上記の話に似ているような印象を受けます。

乳幼児は自らがその命を守るための行動をとることはできないのですから、国家・社会が、刑法(殺人罪)などを設けてその防止の必要性を認めている以上、乳幼児の虐待殺の防止(安全確保に止めず、子自身の生活の質の向上を含め)のため、より実効性のある措置を講ずべき時期に来ているのではないかと強く感じます。

監視社会との批判もあるかもしれませんが、例えば、乳幼児期には行政等の第三者(委託された相当な企業・民間団体などを含む)が定期的に面談して安否などを確認するような制度(もちろん単なる監視・調査の制度ではなく、様々な相談などを通じて育児家庭を支援することを目的としたもの)を推進すべきではと思うのですが、そうした取り組みをしている自治体とか政治家などはいないのでしょうか?

国民・住民たる乳幼児の安全を守るのは国・自治体の責任だと法律等で明確に位置づけ、例えば、乳幼児を監護する者(親権者など)には、予め策定した要綱等に基づき行政が相当と認めた者(保健師、民生委員、相応のNPOなど?)と一定の頻度で安否確認などを目的とする面談を義務づける制度を設けるべきと思っています。

面談を通じて不穏な情報やその潜在的可能性のある事案では児相などに通報→早期に実情把握・調査や受け皿の確保などを行うとのイメージです(それを踏まえた児相や警察の実働強化などの整備は当然です)。

もちろん、ほとんどの家族にとっては相応の負担になりますから、頻度等は家族側の既存の監護体制等に応じて区分すればよいでしょうし、相応の財源が必要になりますが、それは「次世代を守るのは旧世代全体の役目」ということで、相続税の増税(基礎控除の縮小を含め)が一番ではと思っています(とりわけ、被相続人との関係が希薄なのに棚ぼた的に高額財産を取得する事案が近年では増えており、通常の相続よりも税率を大幅に上げてよいと思います)。

facebookでこうしたことを書いたところ、他の先生から地域保健師の制度があるとの指摘をいただきました。

保健師についてはほとんど存じておらず(そういえば盛岡市から健康指導を受けよと書かれてある通知を過去に受けたものの、多忙を言い訳に放置してしまったことはあります)、ネット検索したところ、こんな会社さんがあるのを見つけました。
http://www.hokenshi.com/job.html

各論は様々な方法・議論があるとは思いますが、「こどもファースト」の精神で制度の構築や運用を考えていただきたいものです。

(H30.6追記)
H30.6に発覚した目黒の虐待死事件(報道では妻の連れ子を再婚男性が虐待とありましたが、養親関係はあるのでしょうか)や岩手県北上市の実父育児放棄死事件を機に、この投稿を思い出して読み返すと共に、表現を微修正しましたが、当時と今とで実務に大きな伸展がないように思われます(引用したニュースも現在は閲覧不能とのことで、恐らく大阪や首都圏で生じた虐待殺事件ではと思いますが、要旨だけでも書いておくべきでした)。

実効性のある予防制度が構築されるまで、あと何人の子が虐待殺人の犠牲にならなければならないのかと、残念な思いを禁じ得ません。

なお、H29.12.13付で里親(里ジジ・里ババ)の強化(彼らの関与を通じた、ゆるやかな相互扶助と相互監視)について投稿しており、そちらも参照いただければ幸いです。

大雪事件と「善意発、無責任経由、破綻着」の列車

ほとんど知られていないことだと思いますが、大雪りばぁねっと事件の発端は、「自動車関連で国内有数の大企業たる某社が、山田町に被災地支援のためボイラーを無償提供したいと申し出たため、町当局が被災者・支援者向けの無料浴場の運営を思い立ち、当時、町内の不明者捜索などに熱心に活動していた大雪に白羽の矢を立てたこと(それに伴う巨額の建設資金や運営費用をノウハウ等のない大雪に任せ、岩手県も多額の補助金を了解したことが引き金となって次々に業務=補助金申請が拡大したこと)」と言って間違いないと思います。

もちろん「熱心に不明者捜索をしていたこと」と「浴場の建設や運営などの実務能力」は当然に結びつくものではありませんので、大雪に打診した山田町関係者の無策ないし無責任ぶりは大いに批判されるべきでしょう。

が、大雪事件によって不幸な目に遭った内部関係者を多少は存じている身としては、大雪側や山田町に限らず、支援者たる大企業も、ある意味、罪作りなことをしたものだ(相手が適切に対応できるかも見た上で、支援等を決めて欲しかった)と思わないでもありません。

悪く言えば「大企業の震災支援なる善意」が醜悪で残念な結論の端緒になったわけですが、そうした「善意発、無責任経由、破綻着の列車」という光景は「世帯主(受給者)が義援金・支援金を分配しなかったので不和になった家族」など、恐らく色々なところで見られた光景ではないかと思います。

支援が足りないとか行政或いは支援者に問題があるなどといった類の言説は、震災に限らず色々なところで目にしますが、そうした「大きな善意が無責任と破綻を生むサイクル(を再発させないこと)」についての調査研究は、ほとんど聞いたことがないように感じており、その点は残念に思います。

この事件を法的に処理するための幾つかの裁判手続などは現在も続いており、私も、行きがかり上やむを得ずお引き受けした超不採算仕事に今も追われています。

この事件では行政の対応が色々と批判されたものの、結局、住民訴訟(役所の関係者などに賠償を求める訴訟)が生じませんでした。補助金が絡む(ので、実質的な費用負担が国民に転嫁されている面がある)せいもあったかもしれませんが、震災による混乱と劣悪な条件の中で生じた出来事で、自治体関係者を責めるのは忍びない(何より、自治体関係者自身が不正利益を得たわけではない)という心情が強かったからなのかもしれません。

ただ、生じた結果の酷さに照らせば、「時と場合によって、役所はこんな酷い税金の使い方(使わせ方)をするものであること」を銘記し、裁量の縮小や活動の見える化、支援者を含む様々な第三者の関与(監視監督)などの仕組みを整えたり、運用を活性化させる(そのことにより、岡田氏のような巨額の税金等を預かる資格のない人間にカネや権限を与えて暴走するのを阻止する)必要があるのではと思います。

先日も、大雪事件のせいで人生を暗転させられた女性関係者の尋問があり、そうしたことを改めて感じました。

ロータリアンとランパス兄さん

少し前の週の金曜日のことですが、11時半の法廷のあと一人で昼食をとることになり、無性に蕎麦が食べたくなったのですが、昨年頃から盛岡でも頻繁に出回るようになった「ランチパスポート」に骨の髄まで依存しているため、市街地で蕎麦が対象となっている数少ない店舗の一つである川徳デパートの「北の蕎麦屋」さんに向かいました。

人気店のせいか行列状態で待っていると、同業のH先生がエスタブリッシュな雰囲気で颯爽と横切っていったので、ああそうかと、隣(ロイヤルホール)で盛岡ロータリークラブの例会が行われることに気づきました。

その瞬間、「面識のある会員の方に見つかったらやだな~」と、北の蕎麦屋を諦めて、並ばずに済む他店に移動することも考えましたが、蕎麦が食べたいとの欲求に勝てず、そのままお店の前で座って待っていました。やはりというか、目の前には、盛岡経済界を代表していそうな顔立ちの紳士の方々が、次々と現れては談笑しながら隣に吸い込まれていくのが見えました。

そうした光景を横目にランパス亡者道を突き進む我が身(ちなみに、その週の利用は4回目)を顧みると、彼我の身分差を感じて悲しくならないでもありませんでしたが、さすがにお店では20分も待った甲斐があり、500円で十二分に美味しくいただきました。

お店前の椅子では存じている方に見つからないようにコソコソ隠れていたつもりでしたが、お世話になっている税理士のS先生に「見ぃつけた!」と言わんばかりの屈託のない笑顔で声を掛けていただきました。残念ながら私が「今日は見なかったことにして下さい」と目力一杯に訴えていたのは伝わらなかったようです。

私も某RCの端くれ会員として水曜には分不相応の食事をいただいていますので、例会だと気づいた瞬間にお店の順番の書き込みを削除し、盛岡RCに4倍のお金(2000円)を払って例会に飛び入り参加(メーキャップ)しようと気軽に決意できる身分になりたいものですが、筋金入りの貧乏性体質のため、その日を迎える前に寿命に追いつかれてしまいそうです。

日本国憲法の根本原理を語るメルケル首相と、安倍首相との好対照

トランプ氏が米国大統領選挙に当選したことに伴って、警戒から歓迎まで様々な観測や他国関係者の言動などに関する記事が入り乱れていますが、ドイツのメルケル首相の同氏への祝辞を取り上げた下記のネット記事には、憲法学を学んだものとして、強く印象を受けました。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/219486/111100022/?P=1

メルケル首相の祝辞は、選挙期間中に外国人やマイノリティへの辛辣ないし敵対的な言動が多く見られたことを踏まえて、トランプ氏に個人の尊厳を守るように強く迫ったものとなっており、記事では、そうした発想ないし表明もないまま手放しで迎合している感のある安倍首相と好対照(というか、日本の対応は残念なものである)と述べられていますが、恐らく日本の法律家の多くが、同じような感慨を抱いたはずです。

大学で憲法を勉強した人にとっては、日本国憲法の最高原理(根本目的)が個人の尊厳(13条)であることは自明・常識ですが、私の頃の小学校の授業では「国民主権、平和主義、基本的人権」は出てきたものの、個人の尊厳は聞いた記憶がなく、他に、教育・報道・政府広報等の類を問わず、そうしたことをきちんと国民に伝えているようなものを見た記憶がありません。

ですので、上記の「常識」感覚が一般の方には浸透しているだろうかと不安に感じたりもする、というのが正直なところです(条文の位置や体裁にインパクトを欠く点にも原因がありそうに思いますが)。

ブログ等で人様の悪口を書くのは好みませんので(本業で十分です)、安倍首相の祝辞にあれこれ申すつもりはありませんが、個人(人間)の尊厳が冒頭に来ているというドイツ基本法や国のリーダーがご自分の言葉で尊厳のあり方を語っている光景をいささか羨ましく感じます。

と共に、翻って、ドイツ基本法では個人の尊厳が第1条に設けられているのに対し、日本国憲法の第1条は象徴天皇制を掲げており、天皇制云々の当否はともかく、こうした日本国憲法の仕組みや諸外国との対比などという観点も含めて、改めて色々と考えさせられる面があります。

象徴天皇制(及びそれを担う人的実在としての昭和・平成の両天皇)の有り難みを享受してきた戦後日本は、「王殺し(革命)の国」の淋しさを感じずに済む反面、公というもののあり方について、ある種の他力本願的な体質を持たざるを得ない(それが国民にとっての「分相応」になってしまう)という弊害を生じさせているのでしょうか。

或いは、安倍首相とメルケル首相の祝辞の違いについて、単純に前者を批判するばかりでなく、そうした観点も交えて考えてみるのも意義があるのかもしれません。

「魔女のパン屋さん」の盛岡降臨と麺サミットに忘れ去られた南部はっと鍋、そして北東北の粉もん文化

大食い番組ファンやTVチャンピオンのファンの方なら、「魔女」の称号で親しまれた盛岡の主婦・菅原初代さんはご存知だと思いますが、先日の岩手日報で、岩手大学の近くに菅原さんが12月にパン屋さんを開店するとの記事が出ていました。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20161118_1

記事の「試作」の文字を見て「試食」の読み違えではと思った人は私だけではないでしょうが、それはさておき、原敬や新渡戸稲造は知らないが菅原さんは知っているという日本国民は多数おられるでしょうから、ご本人もさることながら、盛岡の新名所として多くの方々に盛り上げていただければと思います。

ところで、パンと並ぶ粉食文化と言えば、ラーメン、蕎麦、饂飩などの麺類でしょうが、11月上旬に盛岡で「麺サミット」なるイベントが開催されていました。残念ながら家族が関心を示さず私も首が廻らなかったため食べに行けなかったのですが、「盛岡三大麺」と称される、冷麺・じゃじゃ麺・わんこそばの著名店の店主さん達が地元メディアに多く露出するなど、それなりに盛り上がっていたようです。
http://www.mensummit.jp/

ただ、そうした光景を見て何か物足りないなぁと感じながら街を自転車で横切っていたところ、ある郷土料理の飲食店で「南部はっと鍋」の看板が出ているのに気づきました。

かつて、盛岡市内では「三大麺」だけでなく、南部はっと鍋も加えて「四大麺」と称したり、最近では、これに地元産の小麦を用いた「南部生パスタ」を含めて「五大麺」だと標榜するキャンペーンがありましたが、今では双方とも忘れられつつあるのが現実ではないかと思われます。5年ほど前に、この件に関心を持って調べたことがあり、その際は、「四大麺」を喧伝するサイトは幾つかあったような記憶ですが、今は見る影もありません。
http://kanmado.com/article/14725932.html
http://tabijikan.jp/2014/05/27/2256/

ただ、地元産の食材を用いているだけで料理そのものに他地域にない独自色があるとは思えない「生パスタ」はまだしも、南部はっと鍋については、地元の山海の食材と一緒にいただくものですので、もっと地域内で盛り上げる努力があっても良いのでは?と疑問に感じないでもありません。

とりわけ、南部はっと鍋の誕生について調べてみると、1987年(昭和62年)に岩手生めん協同組合が開発・提案して市内の著名な飲食店に推奨した商品なのだそうで、そのような開発経緯は1986年(昭和61年)に盛岡で第1回麺サミットが開催されたことと、何か関係があるのでは(第1回麺サミットに触発されて地元関係者が開発したのでは?)と推測せざるを得ません。
http://i-namamen.com/profile.html
http://morioka.keizai.biz/headline/2061/

だとすれば、聞くところでは、「盛岡冷麺(特に、ぴょんぴょん舎)」が盛岡で最も著名な(今では東京進出等もなさっている)お店になった端緒が第1回麺サミットにあると言われているのに対し、同じ時期に生まれた「南部はっと鍋」は、「あれから30年」を経て、まるで好対照をなすかのように明暗を分けたわけで、ぜひ、サミットで「南部はっと鍋」の総括や再生を考えて欲しかったように思います。

とりわけ、蕎麦はともかく、盛岡冷麺やじゃじゃ麺は大戦前後の事情により盛岡に移住した朝鮮半島出身の方や大陸から引き揚げた方が創出した食べ物で、北東北の粉食文化の歴史にとっては新参者と言ってよいはずです。

そして、言うまでも無いことですが、北東北は、もともと戦前までは技術的に稲作が難しかった関係で粉食文化の盛んな土地で、いわゆる蕎麦に限らず、はっと、ひっつみ、かっけ(蕎麦・麦)など、地味ながら多様な料理が作られてきた土地であり、その根底には、縄文の粉食文化(木の実をすり潰して食べていたこと)があるのではとも考えられます(盛岡は中華麺でも都道府県所在地統計では消費量全国トップクラスとされ、その背景にも粉食文化の歴史があると見るべきなのでしょう)。

そんな訳ですので、新興勢力を敵視するわけではありませんが、従来勢力にも、伝統スタイルであれ新たな調理法の提案であれ、頑張っていただかないと(或いは、従来勢力も盛り上げるような関係者のご尽力がないと)地域の歴史、文化のあり方という観点に照らしても、寂しいものがあると言わざるを得ません。

そうしたことを通じて、麺に限らずパンを含めた様々な粉食の融合と新たな食文化の発信が、北東北の地から盛んになってくれればと思います。

米国も、なんだかんだ言われながらも二大政党による政権交代の文化が今も続いているように、盛岡の「B級グルメ文化」も、冷麺・じゃじゃ麺(商売熱心な新興勢力=民主党)だけで良しとするのでなく、従来勢力(共和党のラストベルトっぽい面々?)にも光をあてる営みを盛んにしていただけないかと、子供の頃からひっつみ(や金次屋の中華そば)を好んで食べて育った私としては願うばかりです。そんなわけで一句。

推しメンを 忘れた街で はっとする

余談ながら、冒頭の菅原さんが世間で活躍なさったり、こうしてお店を開店された背景にも、ご家族など周囲の様々な支えがあったものと思われます。

この仕事を通じて女性のパワーを感じる機会に恵まれる?身としては、「女性活躍」などと政府がキャンペーンするまでもなく、男女とも末永く様々な形で輝くことができる社会のあり方を構築する努力が、現代では特に問われているのだと感じていますが、そんなことを思いつつ、当家のサステナビリティを願って一首。

古女房 はっと気づいた有り難み そばで盛り立て かっけ~姿を

しかし、現実は、あの日が近づくたびに恐怖するのが正直なところです。

誕生日 はっとする頬 ひっつねる 

ちなみに、末尾の写真は、引用のブログでも掲載している、私の実家で作ったひっつみの画像です。

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スーパードクターXvsへっぽこロイヤーZ、そして家政婦ならぬ町弁が見た「リアル御意軍団」の顛末

米倉涼子氏主演の「ドクターX」は、家族の強い希望により、私もシリーズ第1回からほぼ全てビデオ録画して深夜に一緒に拝見しています。

あれこれ申すまでもなく、主人公の一挙手一投足が主役として華がある(キャラが立っている)ため、その点では見応えがありますが、ストーリーという点で言えば、勧善懲悪バリバリというか、「正義と正義の対決」という構成ではないため、後者のような物語を好む私としては、もう勘弁してというのが正直なところです。

熱心なファンの方のコメントによれば、ストーリーではなく様式美を楽しむ作品とのことで、そうした意味では現代の水戸黄門と言って良いのかもしれません。私は幼年期に祖母と一緒に「水戸黄門」や「江戸を斬る」など(TBSの午後8時のシリーズ)を見ており、今も昔もその種の物語を好む女性が多いのだろうかと感じたりもします。

そう考えていると、水戸黄門を見ていた頃(物心つく前後)に「乾いた町の か~たすみぃ~で~」という歌で始まるインパクトの強い時代劇があったのを思い出したので、ネットで調べたところ、杉良太郎氏の主演で同氏の代表作の一つとされる「新五捕物帳」という番組(テーマ曲は「江戸の黒豹」)であることが分かりました。

で、オープニングテーマ映像などを改めて拝聴したところ、「杉サマ」の男の色気全開(しかも勧善懲悪型のハードボイルド時代劇)という感じの番組で、水戸黄門よりこちらの方が「昔版・ドクターX」という感じがします。そう考えると、双方のテーマ曲の雰囲気も、微妙に似ているような感じがしないこともありません(米倉氏も「黒豹」という形容がよく似合います)。

それはさておき、ドクターXというドラマは大病院を舞台にした番組ですが、登場する医師達の醜態を見ていると、いくらなんでも現実の医師や医療とはかけ離れているだろう(現実の医療を批判ないし風刺することを目的とした医療ドラマではなく、番組の本当の意図ないしメッセージは別のところにあるのだろう)と感じるのは、私だけではないだろうと思います。

言い換えれば、この番組が人気があるのは、「医療ドラマ」だからではなく、病院組織を素材にしつつ、大衆(熱烈ファンである女性などの層)のニーズがある別のテーマを描いて(風刺して)いるからではないかと思います。

ありふれたコメントかもしれませんが、視聴者である、自分が帰属する社会(ムラ)の中にいる、少し孤独な「あたし」は現実の中では多少とも不遇な目に遭っていると感じ、心の底で「本当の凄いあたし」の具現化を求め、その気持ちを一匹狼のスーパードクターである(が決して偉くならない)大門医師に投影している、だからこそ、敵役は「残念なあたし」の周囲に現実にいる(と視聴者が感じている)「残念なオトコ共」で構成されているのではないか、要するに、メインターゲットたる視聴者女性が感じている閉塞感を体現する現実の企業その他のムラ社会への風刺やカタルシスなどがテーマになっているのだろうというのが、雑駁とした感想です。

また、杉サマのドラマ=新五捕物帳(主人公の活躍だけでは解決できない当時の社会悪を描くことが多かったようです)との違いとして、視聴者のニーズの違いもさることながら、当時は戦後の混乱期などに生じた多くの庶民の悲惨な出来事の記憶がまだ残っていた時代であるのに対し、今はそうした話は滅多に聞かなくなってきたことも関係していると考えてよいかもしれません。

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ところで、このドラマは男性医師陣の見苦しい「御意」っぷりが名物になっていますが、権力者に群がる腰巾着的な臭いのする方々というものであれば、私もそれらしい光景を見たことがないわけではありません。

東京時代の経験ですが、勤務先のボスが、ある大物政治家の方(当時、ある巨大自治体の首長をなさっていました)と懇意にしており、2度ほど、その方との食事会に参加させていただいたことがあります。

で、2回目の会食のとき、秘書又は自治体の幹部職員(だったか)の方々が沢山いらしていたのですが、その方々の様子が、いささか御意軍団っぽいところがありました。

少し具体的に言うと、その方(A氏)と私がお仕えしたボスは同じ年代で、昔からの仲良しだそうなのですが、お二人ともご高齢で酒量を控えなければならないせいか?、A氏の「部下」の方々(6~7人くらい)が、まだ「駆け出し(に毛が生えた程度)」のキャリアに過ぎない私や兄弁の席に次々にお酒を注ぎにいらして、ちょっとしたヨイショ言動も交えつつ、杯をいくら明けても(或いは、もうこれ以上は勘弁して下さいと何度もお伝えしても)一向に解放してくれず、囲むようにしてお酒(私には分不相応の高級中華料理店でしたので、紹興酒)を延々と注がれ続け、ようやく終わった頃には私も兄弁も、ほぼ泥酔状態で参りましたという感じでした。

このような展開になったのは、前振りとして、ボスやA氏が「自分達は多くは飲めないから、二人に飲ませてやって欲しい」と仰っていたためと記憶していますが、以前からA氏関連の仕事をボスから指示を受けて多少は担当していた兄弁はまだしも、A氏絡みの仕事にはほとんど関わったことのない私にまで揃いも揃って過剰なまでに恭しいへりくだった態度で、率直に言って奇異というか異様に感じました。

そのため「私なんぞにこんな接し方をする理由はないのに敢えてそうするのは、ボスがA氏と懇意にしているからだろうけど、この様子では、この人達は恐らく普段もA氏の腰巾着として振る舞っているのだろう、でも、そんな人ばかり周囲に集めて、A氏は政治家として大丈夫だろうか?」と感じずにはいられない面がありました。

もちろん、下っ端駆け出しに過ぎない私としては、そのような「ヨイショ酒盛り」なんかより、その方々が政治家の秘書や自治体幹部としてA氏や自治体の運営をどのように支え、どのようなことに苦労・苦悩してきたのかという「異業種の先輩実務家としての骨太な話」こそ拝聴したかったわけですが、その方々からは、残念ながらそのような話が聞けるような雰囲気ではない(その際の様子だけで言えば、率直に言って薄っぺらい)との印象がありました。

で、そうした土壌にこそ悪い芽が育つというべきなのか、それから程なくして、A氏自身ではないもののA氏の周辺で大きな問題が発覚し、一大刑事事件に発展しました。事務所で一番下っ端の私は関わる機会はなく、ボスと兄弁、私と入れ替わりで独立した元兄弁(とてつもなく優秀な方で、業界内でも玄人筋に相応の知名度があります)のほか、特捜出身のヤメ検の先生がサポートに入るなどしてA氏自身に不当に累が及ばないよう様々な協議、対応をしていたようで、結論として、A氏は監督責任をとって辞任・引退を余儀なくされたものの、ご自身が不正行為に手を染めていないことを理由に、刑事事件で摘発されることはありませんでした。

お名前を出すことはできませんが(思い当たる人がいるという方も私には言わないで下さい)、昭和の政治史で相応の役割を発揮された大物政治家であり、功績や経歴、ご本人のお人柄などに照らしても、政治家としては非常に残念な最期を迎えたことになります。

私自身は、上記の食事会でお会いした「A氏のスタッフ」の方々と再会する機会は全くありませんでしたが、兄弁からは「あの人達は宴会のときはああだったが、昼間の仕事ぶりは全然違うぞ」とか「A氏が辛い思いをしているときにこそ熱心に支えていた」いうような話は聞いていませんので、推して知るべしなのかもしれません。

そうした光景をボスがどのように感じていたのか、一度伺いたかったものの、私にとっても畏れ多いボスだったせいか、そうしたことをお尋ねする機会も得られないまま勤務先を離れて岩手に戻り、今はボスも天に召されてしまいました。

今にして思えば、その食事会で部下の方々がヨイショモードだったのは、その後の展開(事件発覚とボスへの依頼が不可避であること)を見越してのことだったのかもしれませんが、そのことも知る術がありません。

***********

ところで、私自身は良くも悪くも零細事務所を一人で経営する一匹狼の孤独な弁護士ですので(事務局の助力等は日々享受していますが)、能力云々はさておき、大門医師の生き様を見ていると自分と重なる面を感じることがないわけではありません(メロンはもちろんのこと高額報酬にも今はほとんどご縁がありませんが)。

ですので、徹夜で重い起案をこなした後の早朝の朝日を浴びたときなどに、思わずテーマ曲が口笛に出てくることもないわけではありませんが、私がオープニングのナレーションを真似するとすれば、こんな感じになるでしょうか。

これは一匹狼の弁護士の話である。
 
司法改革で弁護士業界の秩序は崩壊し、
社会正義のやりとりをする法曹界もついに弱肉強食の時代に突入した。

その危機的な法律実務の穴埋めに現れたのが
フリーランス、すなわち、一匹狼の町弁である。

たとえば、この男。 群れに馴染めず、
権威にも、束縛する権力者にもご縁がなく。

司法試験のライセンスと叩き上げのスキルだけが奴の武器だ。
弁護士、小保内義和。またの名を、ロイヤーZ???

・・・ジャンプ漫画の真似なら余所でやってくださいとか、どこで売ってるドリンク剤ですかとか、アンドロイド山田の間違いでしょ、などといったコメントは謹んで遠慮させていただきます。