北奥法律事務所

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明治村と江戸東京たてもの園が伝える大日本帝国の光と影、そして水沢三偉人のメッセージ~愛知編②~

愛知旅行編の2日目ですが、本日は丸一日「博物館明治村」で過ごしました。明治村に来たのは初めてですが、かねてから帝国ホテル旧館などを拝見したいと考えていたので、もう一つのメイン目的地「サツキとメイの家」ともども、思い切って行くことにしたものです。明治村は丸一日歩いても足りないほど広大で学ぶものも多く、大いに満足させられました。
http://www.meijimura.com/

私自身、帝国ホテル旧館があることくらいしか事前知識がなかったので、パンフを片手に説明掲示を読みながら歩いていたのですが、石川啄木が東京時代に家族と共に住んだという「本郷喜之床」なる建物が移築されていたのには、少し驚きました。

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当事務所は「啄木新婚の家」の目と鼻の先にあるほか、私自身、大まかに言えば岩手県北(二戸)→函館→東京→盛岡という人生を辿っていますので、啄木とは人生航路が妙に近いものがあります(詩才には恵まれませんでしたが、カネにだらしない人間にもならずに済んだとは思います)。

啄木一家が住んだのはこの建物の二階だそうですが、残念ながら二階は立ち入ることができず、その代わり開け放たれた障子から啄木の等身大パネルが顔を出していました。村内には「啄木くん」が明治の文化?を開設する掲示もあり、盛岡や函館の各種施設での雄姿を含め、まるで生前の放蕩生活のツケを払っているかのように死後も半永久的に働かされている印象を受けないこともありません。

そんな「働き者の啄木くん」の姿に感じながら一句。

愛知まで 歌を詠まんと 出でにけり
とこしえに 出稼ぎせんとや 生まれけむ

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ところで、私は今年の6月に、「江戸東京たてもの園」を拝見したのですが、明治村と「たてもの園」は、共に「主に明治(或いは江戸末期)から大正期の本物の建物群を現地に移設して保存している施設」でありながら、その雰囲気はまるで逆と言って良いほど、対照的ではと感じました。
http://tatemonoen.jp/

少し具体的に述べると、明治村は、華やかな帝国ホテルを筆頭に、文明開化の象徴である鉄道(運行されているものの一つは、品川・横浜間で活躍していた車両なのだそうです)、郵便、学校や病院、軍事施設など、大日本帝国の威信を感じさせるものを中心に、キリスト教会などを含め明治文化の多様性や開放性を感じさせる様々な施設群があり、掲示されている説明文なども、大久保利通が推進した殖産興業に関するものを含め、明治の先人の「列強に追いつき、追い越せ」の努力を肯定的に描写しているものが中心になっているように思います。

これに対し「たてもの園」は、15年戦争(日中~太平洋戦争=大東亜戦争)や関東大震災を想起させる建物が多く、明治村に比べると、全体として何となく「暗い」雰囲気が随所に漂っているように感じます。

その象徴は何と言っても高橋是清邸であり、「2・26事件」で高橋蔵相が殺害された現場である二階の寝室は、今もそうした霊気ないし冷気を感じさせるものとなっています(携帯で撮影した写真がサイズオーバーとのことで、ご参考までに他の方のブログを貼り付けます)。
http://teitowalk.blog.jp/archives/24604881.html

また、大財閥・三井家の邸宅も移築されていますが、建物の雰囲気は、戦前の華族・財閥の栄華だけでなく戦後の彼らの没落を否応なく感じさせるものとなっており、明治村に比べると、「暗い」感じを強く受けます。

私自身はこの邸宅を歩きながら、幼少期にテレビで視た、横溝正史シリーズの「悪魔が来たりて笛を吹く」の微かな記憶(映像)を思わずにはいられないところがありました(同作品は、敗戦直後の子爵邸で生じた連続殺人事件とその原因たる旧華族のドロドロの人間模様を描いたものです)。

だからこそ、私自身は、「明治村」と「たてもの園」は、戦前の光と影をそれぞれ伝えるために生まれた、一連一体の施設ではないかという印象を抱かずにはいられませんでしたし、そうした「大日本帝国」期の日本の姿を体感できる2つの施設は、現代の日本人にとって、ワンセットで訪れるべきものではないかと強く感じました。

ただ、商売っ気がほとんど感じられない「たてもの園」は言うに及ばず、明治村も「テーマパーク」という見地からすれば、これに類するディズニーや日光江戸村(昨年のGWに初めて行きました)と比べると、入場者数はもちろん、コンテンツの充実度なども、観光客の立場から見ると大いに見劣りすると言わざるを得ません(飛騨牛の牛鍋を当時のままの店舗内で大変美味しくいただきましたが、それだけに知名度やPRの不足を残念に感じます)。

明治村内にも、明治期の和装姿の男性などが申し訳程度?に歩いておられるのを拝見しましたが、ディズニーらでは「キャスト」と呼ばれる仮装者らが園内を余すところなく闊歩し来場者に異世界に来たとの高揚感を盛り上げていることと比べると、せっかく「本物」の建物群を擁しているのに、ソフト面でそれを徹底活用するような試みがあまり見られないのは、残念なことではと感じました。

例えば、江戸村のように様々な明治人を物語風に造形して闊歩させたり、ディズニーのパレードや江戸村の花魁道中に対抗して鹿鳴館風の仮装パレードかバッキンガム宮殿風の壮麗な閲兵式なども考えてもよいのではと思うのですが、どうなのでしょうか(建物内でのパフォーマンスは、本物ゆえの制約があるのかもしれませんが)。

また、ぜんぜん「江戸」になっていない江戸東京たてもの園は言うに及ばず、「明治村」という名称も、集客(特に、海外向け)という点では、とてもセンスがないように感じてしまいます。

「明治」や「昭和」は所詮、日本国内でしか通用しない概念ですし、まして、明治どころか昭和すら遠くなりにけりの現代ですから、いっそ元号ではなく、この空間を象徴するキーワードである「大日本帝国」という言葉を全面に押し出してよいのではと思います。

例えば、明治村に「大日本帝国物語~栄光の明治編~」、たてもの園に「同~鎮魂の昭和編~」などというサブタイトル(キャッチフレーズ)でも付して世界に売り出してはいかがでしょうか。

大日本帝国などと称すると隣国から無用の反発を受けるなどと批判される向きもあるかもしれませんが、戦前の光と影の双方に向き合い、それを学ぶための施設だということを説明できれば特段の問題はないと思いますし、日本の近現代の足跡を世界に理解を求めるという意味でも、何より、未だに「大日本帝国」という存在を消化、清算できていない現代日本人がこれと向き合う契機にするという意味でも、「大日本帝国の光と影を学ぶ場所」というコンセプトを、両施設は全面的に打ち出して良いのではと思います。

その上で、単なる学習施設にすることなく、十分な集客力と感銘力のある学習と娯楽の双方の機能をセンスよく兼ね備えたコンテンツの構築を考えていただきたいところです。そうした意味では、オガール紫波に代表される民営による公共サービスの新たな形(稼ぐインフラ)が模索されていることが、そうした施設の運営のあり方を考える上で、参考になりそうな気がします。

ところで、岩手には「大日本帝国の光と影」を強く感じることができる施設があることを知っている人は、県民といえど多くはありません。

奥州市(旧・水沢市)は、地元で輩出した幕末の蘭学者・高野長英(蛮社の獄で死亡)、後藤新平(明治後期~大正期の政治家で台湾統治や関東大震災の復興政策の従事等が有名)、斎藤実(軍人、政治家。昭和初期の首相で親米軍縮派の巨頭)の3人を「水沢三偉人」として記念館を建てて顕彰しており、3つの記念館を順番に廻ると、幕府がどのようにして終わり、明治日本が何を築こうとし、どうして破綻したのかということが、それなりに分かるものとなっています(私は5年ほど前に一度だけですが訪れたことがあります)。

だからこそ、後藤新平記念館は「明治村」に、斎藤実記念館は「たてもの園」に似ており、特に、高橋是清邸を訪れた岩手人は、斎藤実(内大臣)が高橋蔵相と共に2・26事件で凶弾に倒れたことも想起せずにはいられないのではないかと思います。後藤記念館の「華やかさ」と斎藤記念館の「暗さ」という点でも、両者のパラレルさを感じずにはいられないところがあります。

「たてもの園」のハイライトが高橋是清邸であるように、斎藤記念館も、2・26事件の原因(軍部台頭の背景の一つとなった昭和恐慌と東北の困窮)と顛末を描いたところで終わっています。

そのことを踏まえて、「そのあと」すなわち大戦で国家・国民・海外に生じた惨禍と教訓を現代人に伝える施設等がどれほど存するのかと考えると、靖国神社の遊就館(5年ほど前に拝見しました)や広島・長崎の原爆資料館など(残念ながら未見です)が思いつく程度で、国民や外国人観光客から広く「一生に一度は行くべきだ」と共通認識を得られているような著名なものはあまり存在していないのではないか(少なくとも、「体感」できるものは原爆ドームなど広島・長崎の現存施設くらいでは)と、残念に感じました。

また、「明治の前(幕府の終焉)」という点でも、水沢の高野長英記念館に匹敵する学習施設が国内にどれだけあるのだろうと考えると、私の知識不足かもしれませんが、あまり思いつくものがなく(萩はまだ来訪の機会に恵まれていません)、その点も寂しいような気がします。

大河ドラマ「花燃ゆ」では吉田松陰を指して「維新はこの男から始まった」というキャッチフレーズが使われていましたが、高野長英記念館を一通り廻れば「維新(幕府の終焉)は、本当はこの男から始まった」と思わずにはいられなくなる面はあります。

そうしたことも含め、近現代の光と影や来し方・行く末、教訓などを、現代人が正しく(欲を言えば、広義に「楽しく」)学ぶことができる営みがもっと盛んになされればよいのではという思いを、明治村を拝見しながら新たにした次第です。

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南部人は犬山城に盛岡城の夢を見る~愛知編①~

今年の夏は、愛知県方面に2泊3日で旅行しました。もともと、愛・地球博記念公園の「サツキとメイの家」に一度は行ってみたいと思っていたので、それを軸に、愛知県の幾つかの観光名所を絡めることにしました。

当初の計画では、初日に犬山市にある「博物館明治村」に行く予定でしたが、現地に到着すると、本日休館となっていました・・

そのため、急遽、犬山城に向かいましたが、翌日、明治村は丸一日を要する施設だと思い知った上、初日は午後7時から木曽川の鵜飼見物をする関係で、4時までには犬山城の河畔の宿に到着する必要があったので、結果として、明治村が2日目になったのは天恵というほかありません。

それはさておき、犬山城では、晴天に恵まれ、天守閣(望楼)からの景色も大いに満足することができました。

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犬山城は木曽川を臨む小高い丘の上に造られた平山城で、国宝に指定されている日本最古?の現存天守閣であるほか、江戸期の思想家・荻生徂徠が、三国志の英雄・劉備の終焉の地である蜀の白帝城に似ていると称したことでも有名です。

私は、平成11年の夏に、中国の三峡下り(長江三峡)に行ったことがあり、中国人向けの大型客船に三泊四日の船旅で乗り込んだのですが、その船は白帝城には泊まってくれなかったものの、早朝に白帝城のすぐそばを横切り、朝霧の中かすかに目にしたことを覚えています。そんな訳でとりあえず一句。

本物は朝もやに消ゆ白帝城

ところで、犬山城は羽柴秀吉と徳川家康が激突した「小牧・長久手の戦」(柴田勝家を滅ぼした秀吉が織田宗家の簒奪を完成させ天下取りの基盤を確立させる契機となった、天下分け目の戦い)の舞台の一つになっており、戦の号砲を告げるような役割を担っています(徳川軍に討ち取られた羽柴方の池田恒興が犬山城を占領したのが戦端だそうです)。

そのように考えると、犬山城(秀吉)も、本家・白帝城(劉備)と同様に、一国の支配者となった人物に深い関わりのある城ということで、見た目だけでない共通点もあるように感じます。

さらに言えば、秀吉も劉備も卑賤の身から曲がりなりにも天下人に上り詰め、存命中も人望を集め、死した後も長年に亘り庶民の人気を得てきた点で共通するほか、二代目で国が滅ぼされたことまで重なっています。

余談ながら、「今太閤」と呼ばれ、最近は語録が注目されている田中角栄もと首相も、二代目である真紀子氏が満身創痍で落選・引退した後、跡を継いで政治の世界に身を投ずるお孫さんはおられないようで、何か通じるものを感じずにはいられない面があります。

そんなわけで、眼前にある秀麗な城を含め、人の身には余りあるものを手にすることの怖さを感じながら浮かんできた一首。

古城告ぐ つわものの夢の恐ろしさ 劉備秀吉二代で滅びる

ところで、この日は、犬山城を木曽川を挟んで望む対岸にある、「みづのを」さんという旅館に宿泊しました。宿の方によれば、犬山城を訪れる中国人は増えているものの当館へ宿泊する人は多くないとのことでしたが、私の知る限り、本家・白帝城を望みながら温泉などに浸かれるという宿は当地には存在しないはずで、「白帝城を河上に望む湯」として良識ある中国人の勧誘に力を入れてもよいのではと、露天風呂で犬山城の雄姿を独り占めしながら思いました。
http://www.mizunowo.co.jp/

また、早めに夕食を済ませ、7時に乗船して夜の木曽川鵜飼も拝見し、終了後には10分ほどでしたが船上から8月上旬のみ行われているという本格的な打ち上げ花火も堪能できました。
http://kisogawa-ukai.jp/

私自身は事前にほとんど調べておらず、偶然このような行程になったのですが、犬山城を訪れる方は、8月上旬(但し、特別の理由がない限り宿泊料が跳ね上がる花火大会の日は避ける)に夜の鵜飼見物付きで宿泊すれば、概ね晴天+鵜飼+夜の犬山城の船上見物+終了後の花火という豪華セットを堪能できますので、とても良いのではと思います。

ところで、木曽川から犬山城を見ているうちにふと思ったのですが、盛岡城は、築城当初は北上川が現在の位置ではなく大通三丁目→同一丁目→菜園(城の堀沿い)→中津川・雫石川とと合流という流れになっており、江戸初期に氾濫対策を理由に現在の位置に移動されています(盛岡市民は大半の方がご存知だと思います)。

もし、北上川がその位置を変えることなく、盛岡城本丸などが現在もその姿を留めることができていれば、北上川から望む盛岡城は、犬山城に負けない秀麗な姿であったであろうことは、間違いないところでしょう。

残念ながら、現代では北上川を元の位置に戻すことがあり得ないことはもちろん、盛岡城の本丸も正確な図面がないことなどから復元困難と言われており、盛岡城の本来の雄姿は「夢のまた夢」と考えられています。

それだけに、とりわけ岩手・盛岡の方々は、木曽川に浮かぶ犬山城に在りし日の盛岡城を懐かしみつつ、盛岡が何を得て何を失ったのかといったことなども考えてみるのも、一興ではないかと思います。

この日は、ライトアップされた犬山城と木曽川を月が照らしていましたが、私が三峡を通過した平成11年8月上旬の夜も、終点である西陵峡のあたりでは満月が大渓谷を美しく照らしていました。それに魅せられ、船上で漢詩の真似事を作ったことなどを思い出しました。

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金魚が魅せる奇の華と、ジブリ広告が伝える時代の転換点

半月ほど前の話になりますが、夏休みの一環として、東京・日本橋の「アートアクアリウム」という金魚展と、六本木ヒルズで開催されている「ジブリ展」に行きました。

アートアクアリウムは、特注の巨大な水槽に膨大な数の高価な金魚を泳がせて鑑賞するというもので、今年が10周年であることやテレビで取り上げられたことなどから、大盛況で入場まで1時間近く待たされましたが、それなりに見応えがあり、「金魚が描く美の世界」を鑑賞させていただきました。
http://artaquarium.jp/nihonbashi2016/

今回はじめて知ったのですが、金魚はもともと鮒(フナ)の一種で、中国で突然変異として生じた種を千年以上に亘り継承、繁殖させ、種類を増やしてきたものなのだそうです。

このように、偶然に生まれた「変わり種」の価値を認め、育む文化が盛んになれば、やがては社会に様々な華が咲き誇るというのは、金魚或いは芸術に限らず、社会一般に当てはまることではないかと思います。

wikiでさっと調べたところ、金魚の本場・中国では、文化大革命の時期に、金魚産業が敵視され壊滅的な弾圧を受けたとのことで、そうした光景と文革時代の「共産党中国」の画一性(没個性・文化弾圧)的なメンタリティにも視野を広げると、「奇なるものが花開いた存在」としての金魚に、なおのこと親近感を抱くことができそうな気がします。

私自身、子供の頃より時に周囲から孤立するような「変わり種」の典型で、それが、悪戦苦闘を経て曲がりなりにも自分の個性を生かすことができる仕事につくことができていますので、こうしたイベントが、個性の多様さを大切にすべきというメッセージを伴ってくれればと感じずにはいられないものがあります。

そんなことを思いながら一句。

いろどりは 奇を愛でる世に 咲き誇る

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次に、「ジブリ展」に行きましたが、こちらは、ラピュタのオープニング?に出てきた巨大な飛行艇の模型(部屋一杯を占める規模のサイズのもの)が見応えがあったほか、ジブリ(鈴木敏夫氏ら)が、トトロ以後の映画の宣伝文言にプロ(糸井重里氏)のコピーを採用するようになった経緯などを述べたところが、特に印象に残りました。
http://www.roppongihills.com/tcv/jp/ghibli-expo/

実際、ナウシカやラピュタのポスターに付された宣伝文言(コピー)が、トトロ以後のジブリ作品と比較すると宣伝に関する考え方が非常にかけ離れているというか、ナウシカ・ラピュタの宣伝文言が、今の感覚から見ると非常に古臭く時代遅れのように感じました。

とりわけ、この2作品そのもの(映画の内容)が現代人の感覚から見ても今も色あせない魅力を持っているだけに、宣伝文言との落差が、ある意味、ショッキングにすら感じました。

パンフレットをもとに具体的に書きますと、ナウシカ・ラピュタのメインのコピーは次のようになっています。

風の谷のナウシカ:少女の愛が奇跡を呼んだ。
天空の城ラピュタ:ある日、少女が空から降ってきた・・・

これに対し、「トトロ」以後のコピーは、代表的なものを挙げれば次のようになっています。

となりのトトロ :このへんないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん。
魔女の宅急便  :おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。
おもひでぽろぽろ:私はワタシと旅に出る。
紅の豚     :カッコイイとは、こういうことさ。
耳をすませば  :好きなひとができました。
もののけ姫   :生きろ。
千と千尋の神隠し:トンネルのむこうは、不思議の町でした。
風立ちぬ    :生きねば。

前者(トトロ以前)と後者(トトロ以後)で強く感じるのは、後者は、コピーの文言・内容が、主人公又はそれに準ずる者(内心を代弁する何か)が作品の本質(核心的なメッセージ)をモノローグ的に述べ、それを読み手にストレートに伝えたいという姿勢が顕著になっているのに対し、前者にはそうした姿勢を全く感じません。

例えば、「トトロ」なら、サツキとメイが、現在、或いは大人になった姿で、「このへんないきものは・・」などと語りかける光景を誰もが違和感なく感じることができる(何より、「サツキとメイ」自身が誰よりもトトロが今も日本に存在して欲しいと願っている)ことは、間違いないことと思います。

魔女の宅急便も、未熟な少女として魔女修行の旅に出た主人公が、小さな挫折や落ち込みを経験しながら逞しく育っていくという作品(作り手)の核心的なメッセージを主人公のモノローグの形をとって伝えていることは、一見して明らかで、他の作品も、そうした「わかりやすさ」がコピーに強く反映されています。

他方、ナウシカもラピュタも、上記のコピーは、全くもって主人公等のモノローグという形になっておらず、「少女の愛が奇跡を呼んだ」などと、第三者が、外部的・客観的な目線で作品の内容を語るような文言になっています。

また、「奇跡を呼んだ」などという文言も、作品内容からすれば確かにそのとおりなのでしょうけど、何というか、心に突き刺さるものを感じません。

ナウシカやラピュタは、科学文明(人智で社会を作り替え人間の願望を際限なく叶えることができるという思い上がり)への警鐘や、それと対置する自然(がもたらす価値)への畏敬、礼賛を意識して作られているというのが一般的な理解かと思いますが、そうしたものへの想いも、これらのコピー(「奇跡」「空から降ってきた」)からは、微塵も感じません。

それだけに、悪く言えば、コピーが作品世界を愚弄すらしているのではないかという不快感や違和感すら受けるところがあります(ナウシカもラピュタも主人公の内面世界にさほど踏み込まず、昭和的なスーパーヒーロー像に沿っていますので、作品世界と乖離しているわけではないと評すべき面もあるかもしれませんが)。

そのような感覚を踏まえて上記のパンフレットを読み返すと、トトロ以後は、ジブリの総責任者というべき鈴木敏夫プロデューサーが、糸井重里氏を起用してコピーに強いエネルギーを注ぐようになったのに対し、最初の2作品は、制作部門への従事(狭義のプロデューサー業務)で手一杯で、コピーをはじめとする広告的なことは「ヤマト」や「銀河鉄道999」の広告などに従事していた方々に任せていたという趣旨のことを述べていることが、その答えになるように感じました。

すなわち、ナウシカ・ラピュタは、1970年代(昭和の時代)のアニメの全盛期を担ってきた方々が、その感覚で映画宣伝のあり方を考え、従事しており、第三者の目線で、おおまかな映画の雰囲気やインパクトのあるシーン(少女の奇跡、空から降ってきた)を伝えることが広告のコンセプトになっていたのに対し、トトロ以後は、主人公の内面世界やそれを前提とした作品のメッセージを抽出し、限りなくストレートにそれを伝えることが、広告のコンセプト(現代に相応しい「売れる=消費者の心を揺さぶる」やり方)であると認識され、実践されるようになるという、大転換が生じたのではないかということです。

私自身はナウシカやラピュタを映画館では見ていませんが、ガンダム(もちろん初代)の映画版は映画館で見た記憶がありますので、さきほどネットでガンダムのポスターを調べてみたところ、やはり、ポスターに付されたコピーの内容は、ナウシカ・ラピュタと同じコンセプト(第三者的かつ叙述的で個人の内面世界に立ち入ることはしない内容)で描かれていました。

そう考えると、トトロ以後のコピーを「今どき」と感じ、それ以前のコピーを古臭く時代遅れのものと感じること自体、私自身が、「個人の内面と向き合うべし」という現代人の感覚或いは「ジブリが仕掛けた宣伝戦略」に洗脳?されているという見方も成り立つのかもしれません。

パンフレットには、トトロ以後の宣伝の手法(コピー)について高畑監督が鈴木プロデューサーに対し違和感を述べたり、鈴木氏自身、大衆消費社会向けのプロパガンダ的な手法ではないかと述べている下りもあり、「個人の内面をテーマにする」というトトロ以後のジブリの広告展開が、個人が様々な帰属集団(大家族、地域社会、企業云々)から切り離されてバラバラになり、何らかの拠り所を求めていた現代社会のニーズに適合していた(だからこそ宣伝の仕方によっては危ういプロパガンダになりうる)という面があったことは、確かなのだろうと思います。

裏返せば、昭和の時代にはそのようなニーズが社会内になかった(主流ではなかった)からこそ、トトロ以前の映画では現代とは違ったコンセプトでの宣伝文言が採用されていたのでしょう。

「ジブリ展」そのものは、ゴーギャンの作品世界を意識した最新作の紹介や、ラピュタなどで描かれた「空へと向かう人類の夢」を具現化したジオラマ模型など様々な見所がありますが、そうした「時代」と「広告」の関係を感じたという点が、私にとっての収穫だったように思いました。

現在、ジブリは作品制作を止めつつありますが、以上に述べたことも考えると、或いは、単に宮崎監督らの高齢という問題に止まらない新たな時代の転換点が生じ、そのことも影響しているということなのかもしれません。

先日、大ヒット上映中の「シン・ゴジラ」を拝見しましたが、同作では、「エヴァ」で主人公の内面世界のドロドロを描いた庵野監督が、一転して、日本人・日本社会が個人ではなく組織・集団の力でゴジラという超絶的な力に立ち向かう姿を描いていました。

ひょっとしたら、次の時代のトレンドは、「脱・個人」、ひいては現代社会で様々な既存集団の解体などによりバラバラになった(ように見える)個人の新たな帰属集団への再構築(そうした意味での、新たな社会の創出)といったものになるのかもしれませんし、そうした営みは、すでに着々と始まっているような気もします。

 

弁護士の横領に対する予防策としての監査と優良事業者認証の制度

成年後見などで、親族後見人(事件当事者)どころか弁護士等の横領まで生じているということで、日弁連が弁護士の横領事案では被害者に500万円~2000万円程度の見舞金を交付する制度が導入される見込みが濃厚となっています。
http://www.asahi.com/articles/ASJ856QV7J85UTIL04Y.html

ただ、肝心の予防策については、一般会員向けに伝えられている話の限りでは、抜本的なものと言うには遠く及ばない印象です。

この件(弁護士の横領の問題)については、以前に盛岡で生じた事件を題材にブログで詳細な投稿をしたことがあり、「抜本的な解決をしたいのなら、韓国の不法投棄対策に倣って、被害額の全部補填を前提とする共済又は保険制度と組合・保険会社による業務監査制度を検討してはどうか」と書いたことがあります。

それはさておき、こうした制度を導入することで、改めて「不良会員(悪徳弁護士)のため一般の会員が犠牲になるのはおかしい、予防策を強化すべきだ」という声が内部から上がってくることは優に予測されます。

上記の共済や保険制度は過激すぎて無理があるかもしれませんが、次のようなもの(監査法人への収入・資産の報告義務を通じた監視監督システム)なら日弁連などがその気になれば導入できるのではと思い、ちょっと書いてみました。

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①日弁連の主導で各単位会(地元弁護士会)が監査法人と契約し、各会員(弁護士と弁護士法人)は、最低でも毎年1回、確定申告と資産一覧表を、委託先の監査法人に提出する(提出義務の不履行は懲戒処分に直結。以下、原則同じ)

②監査法人は、提出資料から生計を営めない収支が続き、めぼしい資産もない(のに遊興費の疑いのある支出が散見される)などの「横領リスク」の前兆を感じさせる会員があれば、日弁連の嘱託職員(専従弁護士)に通報し調査を開始。場合により、監査法人を通じて会計監査を行う。

③その上で、さらに問題がある(業務を停止させたりトラブル防止の見地から業務のあり方を大きく改善指導する必要があると判断された)場合には、地元会の名において?日弁連の嘱託職員を通じて業務監査を行い、メンタル問題等も含めて、本格的な業務の是正等を行わせる(顔の見える関係にある「地元会員」だけの業務監査は酷ないし監査の実があがらないので、赤の他人=日弁連が関与すべき)。

④そもそも、①の制度などを通じて優良事業者認定制度などを構築し、その認定を受けた者でなければ、高額な預かり金が生じる事案は(少なくとも、裁判所等からは)受任できない仕組みにする(全会員の申告義務が困難であれば、先行して導入する優良事業者認定に申告を絡める形で、事実上、申告者のみ高額事案を受任できる仕組みにする)。

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ここまで徹底すれば、巨額横領の防止には相応の予防力を発揮しそうですが、プライバシー侵害?だとか、たたでさえ先細る一方の弁護士業界が公認会計士にまで搾取されるとか、「町弁向けの粉飾決算支援コンサル」なんて変な奴まで出てくるんじゃないかとか、弁護士自治の崩壊に繋がるだとか、ケチを付けようと思えばいくらでも付けれそうな気もします。

ともあれ、ここに書いた程度のことは、全国の少なからぬ同業者の方々が「将来あるかもしれない道」として危惧しているでしょうから、どのような結末になるにせよ、社会にとって(まじめな業界人にとっても)より少ないコストでより内実のある成果をあげることができるような仕組みと業界文化・慣行を構築していただきたい(私自身も地道な努力を重ねていきたい)と思っています。

ポスト震災時代を代表する日本映画「シン・ゴジラ」が描く「弥生的行政国家ニッポン」の強さと弱さ

前田有一氏の「超・映画批評」での激賞に釣られて、「シン・ゴジラ」を見に行ってきました。私は、平成9年の司法試験の合格発表日=合格を知る直前に新宿の映画館で「エヴァンゲリオン」の最終話を見ましたが、庵野監督の映画を見るのはそれ以来で、何となく特別な感慨があります。
http://movie.maeda-y.com/movie/02100.htm

それはさておき、前評判どおり大変興味深く拝見し、娯楽作品として大いに楽しむと共に色々と考えさせられ、大満足の一作でした。

以下、ネタバレを極力避けつつ、強く印象に残ったことを少し書きます。

1 稲田防衛相vsシン・ゴジラたち

まず、前半の「突然の災禍に右往左往する日本政府の面々の姿」については超映画批評で述べられているとおりですが、その中で、防衛大臣として気丈に総理の決断を求める女性の言動などが、現防衛相たる稲田大臣とイメージが重なると共に、映画の製作時には現実(公開時)の人選まで予測するのは困難でしょうから、ある種、神がかり的なものを感じました。

特に、米軍機が活躍したある場面で、この女性(防衛相)が全く嬉しそうにしていない一幕があったのですが、この瞬間は、安倍首相が心中望んでいるであろう?対米自立路線の後継者と目される稲田大臣の姿が特に思い浮かび、もし同氏が演じられた場合にはどのような表情になるのだろうと想像せずにはいられませんでした。

総理や官房長官の言動なども、どなたをイメージするかはさておき、現実の政治家の方々に近いものを感じたという方もおられるかもしれません。

2 震災をバネにして作られた、最初?の名作

次に、私がこの作品で特に感じたのは、この映画は東日本大震災津波を明らかに意識している、仮にそうでなくとも、あの震災がなければ、これほどのリアリティを感じさせる力作は生まれなかったのではないかということと、同時に、この作品は震災(被災者)を冒涜することなく、むしろ、震災以後、日本国内の「作り手」の全てに与えられた「震災を題材(誤解を恐れずに言えば「ネタ」)とつつ、被災者に顔向けできるだけの質の高いメッセージ性を持った作品を作る」という宿題に、真っ向から取り組んだ作品ではないかという点でした。

この臨場感は映画館でぜひ見ていただきたいのですが、とりわけ前半部分(やラストシーンあたり)で、あのときの災禍の最中や津波が去った後の光景として国内であまた流れた映像を強く意識した場面(報道の伝え方などを含め)が非常に多く出てきます。こうした「デジャヴ感」は、震災に限らず、冒頭で生じる地下道内の自動車事故のシーンは、数年前に我が国で生じた某重大事故を想起させるものがあります。

だからこそ、それら災害への関わりが近かった人ほど、これらの映像を見ていると、心揺さぶられるものがあることは間違いありません。

他方、誤解を恐れずに言えば、私はこれらの映像を見て、よくぞこれを映像化してくれたという奇妙?な感覚を抱かずにはいられないものがありました。

というのは、震災からしばらくした頃から「震災は未曾有の災禍だが、そこから人間は多くのものを学ぶなどしている(学ぶべきでもある)のだから、震災を題材に、現代や人間の様々な課題の解決を大衆に問うような芸術作品や娯楽作品などが作られるべきだと思っていました。

が、私の勉強不足かもしれませんが、「震災を題材にしたメジャーな作品」と呼べるものは、みんなで歌って涙する(した)「花は咲く」くらいのもので、被災者の尊厳を害しない形で震災の災禍を再現しつつ、より高次のテーマを提示するような作品というのは、ほとんど見られなかったのではないかと思います。

それだけに、様々な重要テーマを社会に広く伝えている本作において震災を強く想起させるシーンが繰り返し使われたことは、特別の意義があるのではないかと感じています。

3 「核や放射能の災禍への抗議(と克服)」という主題と庵野監督の集大成

超映画批評では、日本社会の組織の特性やその弱さ、強さの表現こそが本作の重要なテーマであるという趣旨の説明がなされており、大いに首肯するところはあるのですが、他方で、世間で言われるゴジラのテーマは、「核や放射能の災禍への抗議」という点ではないかと思います。

本作でも、この点は、中盤の最重要シーン(ゴジラが大きな災禍を表現する場面)で強く強調されていたのではないかと思いますし、その災禍が、誰のせいで発動したのか、或いは誰に向けられてなされたものであるか、そして、それを発端として日本人・日本社会が甚大な被害を受けたという、あの場面の描き方は、それを引き寄せた日本政府側の対応を含めて、核や放射能の惨禍への抗議を伝えることを目的としたと言われている初作の忠実な再現という点では、真骨頂と言えるシーンではないかと感じました。

また、本作ではあまり踏み込んだ表現はなされていないものの、震災(原発事故)以来、誰もが夢にみてきたであろう「放射線被害の抜本的解決策」という論点も提示され、そうしたことも含め、日本が描く現代版ゴジラとしての面目躍如だと感じました。

恥ずかしながら私自身は初作をはじめゴジラシリーズをほぼ全く見たことがなく、すぐにでもゴジラ初作を借りて見たくなりました。

また、この「ゴジラの大暴れシーン」は、我々の世代なら多くの方が巨神兵をイメージしたでしょうし、ある意味、ゴジラと巨神兵(数年前にTVで放映されていた「巨神兵東京にあらわる」を含め)とエヴァンゲリオンの3つを「だんご三兄弟」のように力技で統合した(一括りにまとめた)名場面だと感じ、それが核の恐怖による支配という現代社会への抗議との見方ができることと相まって、怖さより感動?で目頭が熱くなるものがありました。

4 現代日本が「大久保利通が江藤新平を惨殺して作った国」であること

ところで、本作には、弁護士はもちろん裁判官も検察官も、法務大臣すらも含めて「司法」の関係者が全く登場しません。映画の登場人物は、逃げ惑う大衆を別とすれば、名前があるのは自衛隊などの現業部門から大臣まで、ほぼ全て「行政」の関係者で、立法部門も与党政治家が少しばかり登場する程度になっています。国会議員であろう主人公らも、国民との直接のつながりを感じさせる場面がなく、「官」の一員としての面を色濃くしています。

震災の発生時や直後に現実の司法業界の存在感が希薄だったのと同様、「生の暴力」が出現する場面では出番が生じにくいのかもしれませんが、作品前半は法律(対処法令)に関する話が矢継ぎ早にでてくるだけに、ゴジラ(社会の存立脅かす存在)と総力戦で対決するニッポンという光景に狭義の法律家には出番が与えられていないことには、一抹の寂しさを禁じ得ません。

前田氏の言葉をお借りすれば、この作品の主要テーマが「日本という国家の強靭さ、しぶとさ」であるだけに、改めて、我が国における司法部の存在感のなさを印象づける作品だなぁと感じる面はあります。

ただ、そうした「国家というイメージの中での司法部の存在感のなさ」は今に始まったことではありません。

司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」には、現代日本の礎をなした明治の創生期に日本の政治体制の路線選択を巡って大きな政争があり、「行政官僚が国家の設計図を描いて主導し、国民はそれに従う代わりに行政に保護される」道を重視した大久保利通と、「国民の人権・自由を広く保護し、国民が議会を通じて権利・利益の実現と国の舵取りを図ることで社会を発展させると共に、ルール違反があれば徹底的に取り締まる」道を求めた江藤新平との争いがあり、江藤があまりにも無残な形で大久保に負けて悲惨な殺され方をしたことと、それが我が国における体制選択の大きな岐路であったことが詳細に描かれており、この点は、最近刊行された「逆説の日本史」の最新刊にも若干ながら触れられています。

この政争などで大久保が勝利し現在まで続く強固な官僚制度を構築したことが明治政府の運営を決定づけたことは巷間よく言われていることではないかと思いますし、「ニッポン国家のしぶとさ」をテーマとする本作において司法の出番がないことの根源を考えると、ここに行き着くのではないかと感じます。

その上で、一見すると基本的人権や国民主権などという江藤の理想が実現したようにも見える現代日本においても、「ニッポンを守護するのは行政官僚群による国家堅持の知恵と国民保護の情熱だ」として説得的に描かれていることに、この問題のある種の根の深さを感じずにはいられないところがあります。

余談ながら、大学生が憲法を勉強する際に最初に学ぶことの一つに「司法消極主義と付随的違憲審査制」がありますが、私は、これらの淵源は米国ではなく、司法部の利害を最初に担った江藤新平があまりにも悲惨な負け方、死に方をし、これに伴い戦前社会で司法が行政に仕えるものと位置づけられてきたことが、日本の司法消極主義の根底にあるのではと思っています。

ちなみに、ご存じのとおり、大久保利通も西南戦争の直後に非業の死を遂げるわけですが、その後、彼の遺志を継ぐ人々により「行政国家・大日本帝国」が建設されていったことを考えると、「次のリーダーがすぐに決まるのが強みだな」という作中のセリフも、また違った深みや課題を感じさせてくれる面があるように思います。

5 描かれた「弥生国家ニッポン」と「縄文の道(或いは、サツキとメイ)」の不存在の寂しさ

もう一つ、本作の特徴として感じたのが、ゴジラと向き合う人々の姿勢が、撃滅であれ他の道であれ、ゴジラを人間にとってコントロール可能な(コントロールすべき)存在として認識しており、こうした超絶的な存在を、人間を超越した存在(神)として崇め奉ろうとする(そうした観点から共存の道を図ろうとする)人が誰も出てこなかったという点でした(この点は、ややネタバレになってすいません)。

昔の日本映画なら、「八つ墓村」で登場するヒステリックな老婆のように、新興宗教まがいの扮装で、ゴジラと戦うな、畏れ敬えなどと叫んで大衆に呼びかけるエセ宗教家のような御仁が登場することがあったと思いますし、そうしたパロディ的な話ではなく、真剣にゴジラとの共存の道、或いは、物語の結末とは違う方で、ゴジラから人類が物事を学ぶような道もあり得ると思うのですが、そうした「ゴジラと向き合うもう一つの選択肢」は全く議論などされることがなかったという点は、「尺」(放映時間)の問題もあったのかもしれませんが、正直なところ寂しく感じました。

それと共に、後半部分のゴジラとの対決計画を着々と練り上げ、組織として粛々と遂行していく登場人物達の姿を見ていると、「神(異界の超越的存在)なき世界」を描いているように見え、縄文的(自然界に潜む超越的な存在を畏敬しながらその恩寵に与るという思想)ではなく弥生的(自然界の惨禍を人間の努力で克服し、それを前提に自然の恩恵を受けるという思想)な世界観を強く感じました。

この点は「となりのトトロ」など宮崎駿監督の作品と対比すれば分かりやすいのではと思いますが、「トトロ」では、超越的な存在であるトトロと少女達が親しくなり、子供なりの畏敬を交えてトトロの奇跡を楽しんだり助けられながら共存していく姿が描かれていますが、同じ「異界の存在」でありながら、本作のゴジラと人々との間には、そうした光景ないし端緒は描かれていません。

それだけに、仮に、宮崎監督がゴジラ作品に携わることがあれば、そうした「人とゴジラとの共存」をテーマにした、本作とも全くコンセプトの異なるゴジラ作品を練り上げてくるのではないか、また、それ(人間の超越的存在への向き合い方)こそが、宮崎監督と庵野監督との分水嶺なのかもしれないなどと感じました。

また、超映画批評では石原さとみ氏の熱演について「崩壊一歩手前のおバカ演技をみせる素っ頓狂なキャラクター」と評されていますが、現代ニッポンに「天上」から様々なお達しをしてくる某国を「今どきの神サマ」と考えるのであれば(本作でも、某国の要求が自分勝手だ(が逆らえない)と首相らが愚痴をこぼす場面が頻出します)、さとみ氏がエキセントリックに熱演する女性の役回りは、某国の代理人としてその言葉を伝えると共に、某国と日本政府を仲介し、主人公をはじめ日本の指導者の進む道を決定づける点など、まるで現代の卑弥呼そのものと言うことができます。

そうしたことも含めた「縄文vs弥生」という伝統的な日本文化の観点も交えて本作のディテールを解釈してみるのも、面白いのではないかと思ったりします。

6 おまけ

極私的な感想で恐縮ですが、個人的には、「八重の桜」で山川浩の姉を演じていた市川実日子氏の熱演が印象に残りました。私自身が、目が大きくて細身で気が強くて頭の回転が速く早口で異端児の女性に惹かれる類の人間だからかもしれません。

そうした観点から当方家族の過去と現在を思うと・・・
おっと、コマさんタクシーとおぼろ入道華雄が来たようだ。

中央大OBの「大臣」の連続登板記録?の消滅と雑談

新たな内閣(改造を含め)が発足する際、今回は我が校のOBの大臣さんはいるのだろうかと見てしまう中央大出身者は、私だけではないだろうと思います(こうした感覚は東大や早慶のOBの方は無縁でしょうが、他の六大学や「マーチ」などの大学の方はどうなんでしょうね・・)。

で、私の記憶では「箱根駅伝に辛うじてシード校入りする(少なくとも予選会では落ちない)」のと同じ程度の感覚で、どの内閣でも一人くらいは中央大の出身の大臣さんがいたような気がするのですが(先日までは、山形の遠藤大臣がおられました)、今回の第3次安倍第2次改造内閣では、公開情報をざっと見る限り、残念ながら中央大の出身者が一人もおられないようです。

その上、土曜の新聞に載っていた副大臣名簿にも中央大の出身者が一人もいないという惨状になっていました。

唯一?の救いは、政務官(財務省)に真法会の先輩である三木亨議員(参院徳島選挙区)を発見できたことです(政務官の出身校情報を表示した記事を発見できていないため、他にもおられるかもしれませんが)。

三木さんは、私が入学(入室)した時点で大学は卒業されており、私自身は少しご挨拶させていただいた程度でしたが、ネットで表示されている現在のお姿と比べて、もっと髪が長く、スリムな体型(顔立ち)だったような記憶があります(体型云々は、私が言ってもブーメランになりそうですが)。

それはさておき、自民党の執行部では、中央大の弁護士OBなら皆ご存知であろう高村副総裁だけでなく、二階幹事長もOB(しかも私と同じ政治学科卒)とのことで、その点は恥ずかしながら今はじめて知りました。

ともあれ、他党の議員さんも含めOBの政界関係者の方々におかれては、他大学の方々に負けずに中央大らしさを発揮しご活躍いただければと願っています。

と、こんな話を書くと、お前もそっちの世界に色気があるのかと誤解を招くかもしれませんが、面識のある方々なら多言を要せずともご存知のとおり、私は、大学2年の真法会の役員選挙(信任投票)の際、同期のA原S太郎センセイと共に「最低得票率で賞」を頂戴した身であり、その種の経験は何度もしていますので、選挙(人気投票)の類にはおよそ適性がないことは身に染みて存じています。

また、政治には手を出すなが実家の家訓である上、最近、政界で存在感を放つ他の同業者の方々と異なり、零細企業のタコ社長(主要労働者)として事務所の存続に汲々とする日々を送っているのが実情です。

他方、プレイヤーとしてではなく距離を置いた場所から観察者として政治(権威と権力を巡る身近な人々のせめぎ合いの世界)を拝見するのは昔から割と好きで、岩手で言えば、岩手大の丸山先生や県立大の齋藤先生のようなポジションの一端を狙うことができないかなぁなどと夢想することがないわけではありません。

が、JCの公開討論会で反対尋問よろしく候補者にギャンギャン吠え立てて「あなたの言ってることはちっとも訳がわからないよ!」などと田原総一朗氏の真似事をしたところで、岩手から出て行けと言われるだけでしょうから、今後もFBやブログなどでボソボソと呟く程度が精一杯というのが分相応なのでしょう。

余談ながら、私と上記のA原(とF女史)は奇しくも同期で最初に司法試験に合格しており、役員選挙のときを思い出して「捨てる神あれば拾う神あり」などと思ったりしたものです。

私は子供の頃から「一般ウケはしないが、ゲテモノ好きの人には呼ばれる」という傾向があり、法曹界が「ゲテモノの世界」かどうかはさておき、今後も妙な高望みはせずその路線で磨きをかけていきたいと思っています。

相続財産管理業務における原状回復債権~これも「空き家問題」の未整備論点か?~

ここ数年、クレサラ問題と急速にご縁が無くなるのと反比例して、煩瑣な事務処理を必要とする厄介な相続財産管理業務に関するご依頼(弁護士会を経由して行われる裁判所からの選任)が多くなっています。

相続財産管理人の業務については、民法に幾つかの定めがありますが、同じような「財産の清算(と債権者への配当など)を目的とする手続」である破産手続と比べると、あまりにも不十分な面が多く、私自身は、破産法の諸規定を参照(類推)しながら業務を進め、悩んだものについては、適宜、自分の見解を整理して裁判所に照会することにしています。

ただ、破産法では、税金や労働債権・原状回復債権などをはじめ、様々な債権の優劣関係に関する規定が整備され、議論も相応になされているのに対し、相続財産管理業務では、そうした論点に触れた文献を全くと言ってよいほど見つけることができておらず、代表的な文献でもこの点は全くと言ってよいほど触れていません。

他方、いわゆる「空き家問題」に象徴されるように、居住者が相続人を欠く(放棄を含め)状態で死亡し、相続財産管理人を通じて権利関係の処理をしなければならない事案は、現在の我が国では潜在的なものを含め、膨大な数になっている(なりつつある)はずで、実務で頻出する論点を適正に処理するための法制度ないし法解釈が未整備の状態が続くのは、現場に様々な混乱、弊害を生じさせる危険を強く内包しています。

それだけに、相続財産管理業務で生じやすい諸債権の優劣関係などに関して、早急に実務のスタンダードを明示する相応の文献や論文が世に出るべきではと思いつつ(私が勉強不足で知らないだけでしょうか?)、それと共に、民法の当該分野(限定承認などを含む清算的な相続財産処理に関する全般)の大改正が必要ではないかと感じています。

ご参考までに、先般、裁判所に照会するため作成した文書の一部を抜粋しますので(他にも後から判明した継続的給付契約の料金などの論点を含んでいます)、そうした問題意識を共有していただける方のご参考になれば幸いです。

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被相続人は、生前、A氏から貸室αを賃借しており、貸主の提出資料によれば、残置品の廃棄等として●万円、蛍光管等の交換費用に●万円、クリーニング費●万円、室内の各種補修工事費●万円の計●万円を、原状回復費用として余儀なくされたとのことである。

そもそも、建物賃貸借の終了時における汚損などの補修義務については、いわゆる通常損耗は借主に補修義務がなく、それを超えた特別損耗のみ補修義務があるとされているところ、上記の各費用が特別損耗と言えるのか、必ずしも判然としない。但し、●●の事情から、本件では概ね特別損耗に属するものと認定してよいのではないかと考える。

その上で、次の論点として、それらの原状回復義務が優先債権となるのか一般債権として扱われるべきかという問題がある。

この点、民法には相続財産管理業務における優先債権に関する具体的な規定がなく、文献上も担保権付の債権について担保権が及ぶ範囲で優先権を有するとしか述べられていないが(片岡ほか「家庭裁判所における成年後見・財産管理の実務(第2版)」367、369頁)、これは制度上の不備というべきで、相続財産管理人の業務が債権者との関係では破産手続(清算・配当の手続)に類似する面が強いことから、債権の優先関係に関しては、性質上望ましくないものを除き、破産法の財団債権等に関する規定を類推すべきと考える。

その上で、破産法においては、債務者の賃借物件に対する原状回復債務は、破産開始前に契約が終了していた場合は一般破産債権となり(但し、残置物があれば、収去義務は財団債権となる)、開始後も契約が存続しており管財人が契約解除を行う場合などでは、原状回復費用は財団債権になるとされている(破産法148条1項4号、7号等。「新・裁判実務大系№28」214頁)。

但し、原状回復義務が財団債権となることについては、債権者全体の共同の利益たる費用という性質を認めることが困難だとして、債務者の用法違反行為(原状回復義務の原因となる行為)が破産開始前に生じていた場合には、貸主は契約終了(破産開始)を待たずして借主に対し賠償(修補)請求が可能であることを理由に、一般破産債権として扱うべきとの有力な見解が付記されている(上記文献216頁)。

以上を前提に本件について検討すると、少なくとも、残置品の廃棄費用については、これが放置されていれば、相続財産(管理人)の費用負担で行う義務があることとの均衡から、優先債権として取り扱うのが相当である。

他方、他の費目は、相続の開始時点で契約が終了しておらず、その後に申立人などを通じて事務管理的に契約の終了と明渡がなされており、破産法の類推にあたり破産手続開始時=相続開始時と捉えるのであれば、手続開始後に契約が終了しそれに伴い原状回復義務が発生しているとの理由で全て優先債権(財団債権類推)と扱われることになる。

他方、上記の「発生原因が手続(破産)開始前に生じていれば、その原因に基づき発生した債務は財団債権にならない」という見解に従った場合、これらの原因となった事象は被相続人の生前に生じたと見るべきであろうから(但し、クリーニング費については一概には言えないかもしれない)、基本的に一般債権の扱いになるはずである。

この点は、債権者間の利害が対立する問題という性格上、管理人において結論を出すことが相当とは思われず、貴庁において相当な判断を行っていただくよう求める次第である。

余談ながら、破産法上の原状回復の問題もさることながら、相続財産管理の制度において債権の優劣等に関する規定が整備されていないという問題は、早急な改善を要するのではないかと思われる。実際、本書面で述べたような論点を担当管理人が理解せず、性質上、優先債権として取り扱われるべきものを漫然と一般債権として取り扱ったり、その逆、或いは債権の調査等すら行われない事案は、非常に多く潜在しているのではないかとも危惧される。

実務の末端を担う一人として、ぜひ裁判所からも法務省などを通じて問題提起していただきたいと切望する次第である。

祭り囃子の向こうから

本日の午後5時頃に、盛岡東警察署に勾留中の方から接見要請がありました。

普段は中央通~内丸を自動車でヒュッと行っているので、何も考えずに7時に行きますと留置係の方に回答したのですが、事務所を出た瞬間に、地元のお祭りに目を背けて生きている我が身の愚かさに気づきました。

盛岡は8月1日から4日まで、夜間はこの通りを自動車で通行することはできず、当事務所から盛岡東署には大迂回が必要になります。

そんなわけで一句。

忘れるな さんさ見ろよと 呼ぶ被疑者
 大渋滞 今日の弁護に さっこらず

さんさ踊りは明日(8月4日)までとなります。
まだ訪れたことのない方は、ぜひ盛岡においで下さい。
http://www.sansaodori.jp/

平成初期の浦島太郎が感じた函館駅の再開発と「ぽつんと感」

都知事選は小池氏の圧勝で幕を閉じ、次にどのような第二幕が展開するのか期待されますが、私の「アゴラ投稿」もしぶとく生き残り、本日現在も、「週間ランキング」で10位以内に止まり、「いいね」も1700個以上も頂戴するという有り難い結果となっております。

それはさておき、以前にも書きましたが、私は函館で高校生活を過ごしており、今年の5月に24年ぶりに函館に行きましたが、函館駅や駅前の空間は、建替等により当時と今とでは激変していました。

何となく、無駄に広くなって函館駅と駅前商店街(棒二森屋をはじめとする大門地区の街並み)との距離が遠くなったような印象を受けたのですが、同じようなことを、先般、岩手を代表する「まちづくり」のエキスパートのOさんが、函館を訪れた際の感想としてFB上で発言されていました。

私の高校時代(平成1~3年頃)、函館駅には帰省の際などでお世話になっていましたが、当時=旧駅舎時代は、駅舎の位置は概ね同じなのですが、現在の広場状になっている場所(駅の正面近く)に、タクシーや駐車車両などが大量に陣取っており、その奥(街側に向かって進んだ場所)にバス乗り場群があり、いわば、盛岡駅東口(バス乗り場、タクシー、自家用車駐車場群)をヨコではなくタテに切り替えたような感じでした「函館駅前」でグーグル検索すれば、旧駅舎時代の画像を見ることができます)。

昔は「駅前が広かった」という記憶はなく、駅前のロワジールホテル(旧ハーバービューホテル)の前を歩いて市電まで行くのも、田舎者の身にはホテルの外観が眩しかったせいか、そんなに苦痛ではなかったとの記憶です(距離はほぼ同じなのに、今の方が、遠く感じるような気がしました)。

また、当時は函館駅前に土産物店が多くなく(駅ナカなどというものもありませんし)、同ホテルの1階の土産物店の存在感が大きかった=動線としての役割があったことも指摘できるのではと感じました(今では存在感が非常に下がり、ホテル前の幅広の歩道も通りとしての魅力がないと感じました)。

函館駅の建替(再開発)にあたり、折角、駐車場群を取り除いたのに、創出したスペースの価値を高める営みが全くなされていないという、「まちづくり」のエキスパートの方々がよく仰っていることの典型のような話なのだろうと思います(例えば南池袋公園のような芝生などのある光景を目指しても良かったのではと、素人ながら感じました)。

私が住んでいた頃から、函館駅前(大門商店街)の凋落が叫ばれていましたが、当時とあまり変わらない函館山の麓や、当時よりも遙かに栄えているベイエリア・五稜郭界隈と比べて、大門商店街の市内での存在感の低下はますます進んでいる感は否めず、そのことが、函館駅の「ぽつんと感」を、なお一層、演出しているのかもしれません。

奥多摩湖畔を彷徨った日のこと~都知事選に寄せて?

都知事選絡みの投稿が続いて恐縮ですが、折角なので、少し前にfacebookの方に載せた投稿を再掲させていただきます。

大学1年の終わり頃、突然、奥多摩湖に行きたくなり、昼過ぎに当時の自宅(東京都日野市の百草園)を出て、夕方4時頃に湖(小河内ダム)に到着し、南岸のほとんど整備されていない踏み跡程度の遊歩道を、日が沈もうとしていた時間に何も考えずに延々と歩き出したということがありました。

何を考えていたのか思い出せませんが、誰もいない森の中に入っていけば、そのまま自分が消えて無くなってくれるんじゃないかなどと、自殺とまではいかなくとも、厭世的な願望があったのだと思います(失恋とかが理由ではありませんので念のため。ある意味、「それ以前」の大学生活でした)。

当時はまだ山登りに目覚める前だったので、ヘッドランプなどの用意がないことはもちろん、靴も普段用のもので、ほぼ手ぶらで出かけたことや、「ここから先は落石等があるので立入禁止」の看板(ネットで少し調べたら今もあるようですね・・)があるのを見て、そのまま石にぶつかって死んでくれてもいいや、などとみっともない感傷に浸っていたことはよく覚えています。

2月か3月頃の話ですので(11月だったかもしれません)、5時半頃には周囲一帯は暗くなり、仕舞いには遊歩道がどこかも分からなくなって、暗闇の中、沢沿いの砂防ダムのようなところをよじ登ったりもしました。

湖畔に沿って行けば何とかなるだろうと思って歩いているうちに、6時過ぎ頃、明かりが見えたので山中をよじ登ったところ、キャンプ場らしき場所(南岸の真ん中過ぎ。今もグーグル地図に載っています)に出て、そこから車道をトボトボ歩いていたところ、通りがかりの自動車の方に拾っていただき、奥多摩駅まで送っていただきました。

湖畔を歩いていたときのことはあまり思い出せませんが、明かりを見つけて無我夢中で走ったことと、ドライバーの方(おじさん)から「この辺は熊が出るぞ」と言われたことは、今もよく覚えています。

その後、ほどなくして、大学生協で見つけた奥多摩地域の登山ガイドを手にとって、大学2年の秋頃には毎週のように未明から自宅を出て、京王線百草園駅から立川駅5時25分発の電車に乗り、日帰り登山に出かけていました。

大学時代は、誰が見てもどこから見ても、近寄るなと言われてもやむを得ないような陰気で救いのない学生でしたが、そうした時間を持つことで、辛うじて自分を持ち堪えることができたと思っています。

退任間際の舛添知事が湯河原通いを批判された際、奥多摩を軽視しているかのように受け取られかねない発言をしたことが話題になったせいか、知事選の候補者の方々が演説等に訪れたとの記事が取り上げられていましたが、私自身は奥多摩に特別の思い出や恩義のようなものがあり、今も、奥多摩の良さや大切さを都知事に限らず多くの方に知っていただければと感じています。

余談ながら、先週の土曜には中央大岩手支部の総会があり、遅参の身で恐縮ですが参加させていただきました。参加者の多くは大先輩の世代の方々なのですが、先輩方に暖かい言葉をいただくことを有り難く感じるのも、そうした学生生活を過ごしたことが関係しているのかもしれません。