北奥法律事務所

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震災から半年後(H23.8)の被災地相談~釜石編~

震災の年(5年前)に沿岸被災地に赴き無料相談に従事した件に関する投稿(旧ブログ)の最後として、平成23年8月に釜石で従事した「多士業連携相談」に関する件を再掲します。

他にも、陸前高田の学校や山田町の公共施設などに赴いたり、秋頃?から陸前高田の高台に弁護士会が設置した臨時相談所の担当などにも従事しましたが、今となっては良くも悪くも懐かしい思い出になってしまいました。

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多士業なんでも相談会と政策災害

この日、釜石市内で行われた「被災者向けの専門家合同相談会」に参加してきました。これは、被災者支援の一環として、県内の各士業や金融、FP(フィナンシャルプランナー)などの業界団体が連携し、複数業種に跨る相談に対応する「ワンストップ相談事業」として7月頃から開始した相談会です。

私は東京時代(8年ほど前)に、東京の士業が連携して行っていた「10士業よろず相談会」に参加したことがあり、ワンストップ型相談の有意性を感じていましたので、ぜひ参加したいということで行ってきた次第です。

実際、会場でも、相続関連の相談の方に関して、最初に担当した私が対象となるご家族の相続スキームや各種留意事項などを説明し、その後、司法書士の方が相続登記の手続等を説明し受任態勢を整え、最後に税理士の方が相続税などについて説明等するという流れを辿ったケースがありました(紛争性のないご相談だったので、私の出番はさしてありませんでしたが)。

ただ、東京の10士業相談の際は、一人の相談者に相談内容に応じて複数の士業が相対して相談に応じる形をとり、相談事項に応じて各士業がそれぞれ質問・説明などを適宜行っていたのに対し、今回は、別々に相談に応じる形になっているので、相談者の方にとっては二度手間になったものもあるかもしれません。

反面、直ちに受任を前提とした相談になる場合などは、受任をする士業者が一人で対応した方が賢明になることもあり、その辺は設営者等に工夫が求められるところかとは思います。

結局、これまでの例と同様、周知不足か供給過多か、最初の3組ほど(1時間)程度で相談者は打ち止めになり、あとは時間を持て余して他の先生と雑談するなどしているうちに終わってしまいました。

岩手に戻った頃は、どの相談会に参加しても定員一杯というのが当たり前でしたが、現在は完全にその逆になっています。今年は震災の影響もあり相談会の種類も量も飛躍的に増えているように感じますが、いずれの企画も効果的な集客の工夫をしていると感じたことはなく、このまま漫然と参加し続けて良いのか、疑問を感じないわけではありません。

相談会の場所が被災を免れた釜石駅付近であったため、帰りの際は釜石市の中心部から警察署まで行き、若干ながら被災状況を視察しました。4月3日以来4ヶ月ぶりの釜石でしたが、中心商店街が多少片づいてきたほかは復旧という言葉にはほど遠く、瓦礫やスクラップ状態の車両などが多く散乱していました。

往路では国道396号ルートを通ったので、帰路は東和から高速道路で盛岡に戻ることにしましたが、恐れていたとおり、盛岡南IC出口で「被災証明書渋滞」の長蛇の列に遭いました。その上、私の前方で渋滞待ちの車両が追突事故を起こし、当事者が車外に出て警察官らとやりとりしていました。

ETCを活用せず人力の書類確認を強いるなどという、大渋滞の発生が容易に見込まれる無料化政策さえ採られなければ、この人達も追突事故を起こしたり被害に遭うこともなかったんだろうな・・と思わずにはいられませんでした。

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最後のネタは、菅内閣が震災対策?として導入した「被災県の高速無料化」のことを指していますが、今思い出しても、どうしてETCを使用させずに人力の書類確認を強いるなどという方法を採用したのか、本当に不思議です。

大渋滞→導入者(菅内閣)への失望の声という展開が容易に予測されたはずなのにその程度のことも分からなかったというのか、それとも菅内閣の倒閣作業の一貫としてわざと諫言せずに行わせていたのか、今も訳が分からないと感じてしまいます。

同様に「多士業相談」も、その後は沿岸であれ内陸であれ県内ではほとんど行われておらず、その点も残念に感じます。

「相続(争族)対策セミナー」のご案内と、幻の「オボマロ」漫談シナリオ

本年1月に、明治安田生命さんのご依頼で相続対策に関するセミナーを県内3ヶ所で実施したのですが、3月にも同様のセミナーを行って欲しいとのお話があり、また、担当させていただくことになりました。

今回は3月25日の盛岡会場を皮切りに、北上・水沢(奥州)・久慈・一関の計5ヶ所で実施するとのことで、3月の最終週は、ひたすらセミナーという感じになりそうです。

関心のある方は、ご来場いただいただり、ニーズがあると思われるご親族・知人の方などににお声掛けいただければ幸いです。日時や会場などは添付の文書をご確認いただき、明治安田生命のご担当の方にご連絡下さるようお願いいたします。
明治安田生命 H28.2-3月セミナー日程

1月の際は、2回目の会場で相続に関する基本的な用語とルールの説明を中心に行ったところ前回よりも評判がよかったので、今回もこの方法で行おうと思っています。

ただ、なるべくなら様々な事柄を横断的に取り上げたいとの気持ちもあり、今回もレジュメ全体では30頁という大作(しかも各種文例つき)で、これをもとに一般向けの本の一冊でも出版できそうなくらいのものになっています。ですので、このレジュメを貰ってご覧になるだけでも意味があるのではと思っています。

ところで、1月のセミナーを告知した際は「綾小路きみまろに扮して漫談調にできればいいのに」と書いたのですが、結局、最初に軽妙なトークを試みても全く笑いが取れなかったこともあって、3回のうち1度もこの話を持ち出すことができず、毎回、内心トホホと思いながら解説をしていました。

たぶん、今回も漫談云々は無理でしょうが、せめてブログの中だけでもこんな感じで話ができればと、CM風に書いてみました。が、やっぱり「帰れ!」と言われてしまいそうです(きみまろ氏の真似事ですので毒舌漫談調になっていますが、他意はありませんのでご容赦下さい)。

あれから40年 おもちゃ売り場で泣き喚いた子を引っ張るあの手は
病院から早く自宅に連れ帰ってくれと 指を広げ腕を伸ばしてねだってる

あれから40年 おもちゃを取り合った小さな子供たちは
貴方の身柄を確保して遺言や財産もらおうと 親の右手左手 引っ張ってる

痛いと言ったら先に手を離した弟は 
昔おばあちゃんと一緒に見てましたね TBSの大岡越前

あれから40年 東京で暮らす子供達からの電話は
オレオレ詐欺にオレの金を取られてないかと そればかり

いやいや 「オレの金」じゃない! 
今はまだとか 3年待てとか そういう問題じゃないし!

そんなわけで ご自分の大事な資産を誰にどう遺すか
愛する家族に明るい未来を授けていくか 泥沼の抗争をくれてやるか

岩手の犬神佐兵衛さんも そうでない方も 
最後の花を咲かせるために ここが智恵の絞りどころ

そんな貴方に 相続セミナー おでってくんなせ かだってなは~ん

【テーマないし項立て】

第1 相続に関する「基本のき」と幾つかの「専門用語」     2頁
第2 相続に直面する前に考えておくべきこと~状況の整理など~ 5頁
第3 どのような場合に「争族」になりやすいのか                   7頁
第4  「争族」対策と、節税・納税策(生命保険)との関係       10頁
第5  典型例での個々の財産の一般的な取扱い~遺言のない事案~   13頁
第6 生前の準備~遺言を中心に~                                   19頁
第7 その他、相続の際に問題になりやすい幾つかの事柄と対処     25頁
第8 弁護士の上手な活用法と無料相談、留意点、参考文献など      26頁

震災から2ヶ月後(H23.5)の被災地相談~大船渡編~

先日に続き、震災から2ヶ月を経過した平成23年5月中旬頃に大船渡の避難所に初めて相談に赴いたときのことを記します。

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この日は大船渡市への出張相談を担当しました。今回は青森・秋田・神戸からそれぞれ派遣された弁護士さんを私の車両に乗せ、4人で被災地に向かいました。

配属先は、市の中心部に近く大船渡では規模の大きい避難所となっている「大船渡地区公民館」と大船渡の観光名所(碁石海岸・穴通磯)にほど近い「末崎中学校」の2箇所でした。

1 指定避難所まで

4月の弁護士会(対策本部)の会議で「他会の先生を自分の車に乗せるのはイヤ(事故等のリスクが怖い?)」との意見があったそうで、5月から、他会の先生については、タクシーに乗車していただくという制度?が導入されることになりました。

しかし、他会の先生は岩手の弁護士から情報を得ながら現地に向かいたいと思うはずで、タクシーに分乗せよというのは止めた方がいい(事故リスクの問題はありますが)と思い集合場所で協議したところ、もう一人の岩手の若い先生がタクシー利用を希望されたので(私に気を遣ったのかも?)、結局、私が3名を自車に乗車させ、もう一人の先生はタクシー2台に他会の先生を乗せ、ご自身は一人(自車)で現地に向かうという、かなり変な感じになりました。

これまでの経験や、この間の岩手会MLでの担当者レポートから、今回も従前以上に相談者の来ない閑散とした展開が予測されたので、遠方からお越しになる先生方に、せめて観光地の外観だけでもと、今回は、遠野(千葉家)廻りのルートで行きました(あまり遠野に関心がなさそうな方々でしたが・・)。

1時間前に現地に着きましたが、大船渡地区公民館は高台にあるため、先に被災状況を視察していただいた方がよいと考え、盛駅~大船渡駅周辺を巡回した上で、公民館に向かいました。国道沿いは断片的な被害しか見られませんでしたが、高台を降りて海岸沿いに走行すると、宮古の鍬ヶ崎のスケールを大きくしたような惨憺たる光景が広がっていました。

2 指定会場での相談

結論として、大船渡地区公民館(秋田と青森の先生が担当)が2名、末崎中(私と神戸の先生が担当)は0名という有様でした。貼り紙はありましたが、末崎では、担当の市職員の方?から「相談会は聞いてない」との発言があったり、やはり現場での広報等に至らない点はあるようです。

どこでも同じことが言われているようですが、弁護士会が避難所で相談会を実施しても相談希望者が集まらない要因として関係者等から指摘されたのは、

①被災者再建支援法などの情報が広まり「行政支援等のアナウンス程度の相談」が激減したこと

②避難所の利用者がピーク時の半分以下(約1/3とのこと)まで減少していること

③同じ避難所で何度も相談会を行っており、現時点での需要を一応満たしたこと、などでした。

同行の先生からは、

「避難所相談の時期は過ぎた。これからは込み入った相談が増えるだろうからプライバシーを確保できる市役所等に1本化すべき」

「(相談者があまりないことが常態化しているため)行く意味があるのかと自分の所属弁護士会で議論になっている。視察することに意味がある、と超熱心な某先生に説得されて渋々継続しているのが実情」

「当会ではタクシー分乗は不評」などの話もありました。

3 その他の避難所等の巡回

そんな次第で前回以上に他の避難所を熱心に廻ることにしました。とりわけ、末崎を担当した神戸の先生に関しては、神戸から来て避難所の体育館で1日中ぼけっとしただけでした、では「おもてなしの盛岡が聞いて呆れる」と言われそうなので、末崎では、12時半に「2時半に戻ります」と貼り紙をして、私と2人で末崎地区の避難所巡りをすることにしました。

が、6箇所の避難所を巡ったものの、同じような境遇に立たされた他の先生がすでに制覇していたようで、岩手弁護士会ニュースは概ね具備されていました。

なお、岩手会本部が末崎地区に神戸の先生と私を配転したのは、こうした展開になった場合に碁石海岸・穴通磯にも案内してガス抜きをせよとの指示を含むものと勝手に解釈しましたので、計20分ほど「今度は観光で神戸の皆さんを連れてきて下さいね」と観光タクシーあんちゃんに徹しました。

予想通り、両者とも以前と何一つ変わらない光景で、「壊滅したのは人の作りしものだけで、自然は無傷だなぁ」と都知事のセリフを思い浮かべました。(今回は、ヨブ記を引用する方が適切だと思いますが)

避難所巡りの最後に、避難所として使用(開放)されている某教団の道場に恐る恐る?行くことにしましたが、カーナビで山中を巡っても辿り着けず、ひなたぼっこ中のご老人に「ダーツの旅」風に尋ねたところ、「おれ、そこの避難者」と、同乗・案内いただけることになり、山奥に向かう凄い道を通って、辿り着きました。

高齢者を中心に10名弱いらしたのみで、幸い?弁護士会ニュースも見たことがないとのことでしたので、前回同様の「ミニ説明会+雑談」をして退去しました。

3時前に末崎中に戻りましたが、予想通り相談希望者はなく、その後も閑散としていました。公民館チームも同様の展開と見込んだので、そちらに移動することにしましたが、勝手に引き払うと本部の先生に怒られそうなので、神戸の先生を残し、私一人で公民館に向かいました。

公民館では、1名を残し1名を連れて近隣を廻るつもりでしたが、閑散としていたせいか、到着前の私の電話で撤収と誤解されたようで、やむなく3名で近隣を廻ることにしました。

毎度のパターンですが、公民館も不在者ばかりでチラシ(弁護士会ニュース)配りをしても効果なく、「相談者が来なくて困ってます」とアナウンスをして貰っても効果なしだったので、撤収希望という面もあったようです。

これまでのパターンから、公民館付近の人数の多い避難所(大船渡中やリアスホール)はどうせ弁護士会ニュースが山積みされているだろうと考え、少し離れた盛地区に進攻することにし、まずは、盛駅前のカメリアホール(中央公民館)に行きました。

館長さんにお尋ねしたところ「弁護士会ニュースは一枚だけある。貰えるなら世帯分だけ欲しい」とのことだったので、世帯数+αを置き退去しました。他の先生は、役所の方と雑談的に「悪徳商法被害(リフォーム系)が多発しているようだ」などと話しており、末崎に2名配置するくらいなら、こちらに1名配置した方がよいのでは?と思いました(盛地区なら周知さえあれば近隣の方も来訪するでしょうし)

次に、近くにある避難所として指定された老人福祉施設に行きました。こちらも弁護士会ニュースは1部しかないとの説明だったので補充して退去するだけかと思ったところ、相談希望の方がおられるとのことで、急遽、弁護士3名で相談内容を伺いました(訴訟の可能性のある本格的な事件相談でした)。

結局、その施設で時間切れになったので5時半に末崎中に戻り、やはりゼロ件のままということで、そのまま退去しました。

遠方からいらした先生方も色々と思うところはあったかもしれませんが、最後にお連れした盛楼閣で、それらもすべて吹き飛んだことでしょう。

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以上、計3回に亘り、宮古・陸前高田・大船渡の3ヶ所で、震災直後に私が従事した「他県の先生を引きつれた避難所相談」の実情を掲載しました。

4月3日の釜石北部の避難所相談を含め、震災から間もない時期に、沿岸の自治体の大半を廻り、様々な光景を見たり、お話を伺ってきました。

とりわけ、大船渡は震災2年目から現在まで法テラス気仙の相談担当をしており、その後の被災エリアや街並みなどの変貌を目の当たりにしてきましたので、当時の光景などを思い返すと、色々と考えてしまうところはあります。

あと1回、震災の半年後に釜石で行った相談について掲載しようと思いますが、当時の被災地の惨状や現地の混乱ぶり、ひいてはそれを踏まえた今後の改善等に関する問題意識が多少でも伝わったのでしたら幸いです。

繰り返し書いてきたとおり、避難所では、私に限らず「相談者がいなくともとにかく押しかける」という光景が多く生じましたが、私としては、これを今流行り?の「アウトリーチ」などと賛美する気には全くなれず、弁護士会の無為無策ぶり(現場サイドへの戦力投入の稚拙さ)を示すものとしか思えません。

私は、「弁護士は勉強し、かつ働いて(させて)ナンボである。だから、相談者の来ない相談会に往復数時間を含めて丸一日、弁護士を従事させる時間があるのなら、何か勉強でもさせるか、被災地向けの法律関係の広報でも書かせて自治体等を通じて伝達させた方が人の活かし方として正しい。少なくとも、懸命に勉強した人間(の能力や熱意)をそうした形で生かさずに時間等を浪費させるのは、社会悪ではないのか」としか思えない面があります。

少なくとも「15年戦争(日中・太平洋戦争)って、こうして負けたんだろうなぁ」と感じながら何度も運転を続けてきたというのが、末端の兵隊の正直な気持ちであることは間違いありません。

また、弁護士業界内の有名なネタで、民事訴訟法の泰斗・高橋宏志先生の「成仏理論」というのがあり、「世の中の人々のお役に立つ仕事をしている限り、世の中の人々の方が自分達を飢えさせることをしない」といったことが語られているのですが、「誰にも必要とされない相談会や押しかけ相談事業に駆り出される若手弁護士の姿」は、成仏?に向かってまっしぐらという町弁業界の未来を感じて暗澹たる思いを禁じ得ないところはあります。

結局、そうした気持ちが勝ちすぎたせいか、事実上その後は弁護士会の支援活動なるものからは距離を置くようになっていったような面はありますが、他方で、業界環境の激変などもあり「私なりの支援」を実践するどころではない状況が続いているという有様で、他人様に面と向かって偉そうなことを言うこともできず、こうして、細々とブログで問題意識を共有いただける方があればと願っているというのが、恥ずかしい現実です。

震災から1ヶ月半後(H23.4末)の被災地相談~陸前高田編~

先日の投稿に続き、震災から1ヶ月半を経過した平成23年4月末頃に陸前高田の避難所に初めて相談に赴いたときのことを記します。

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この日は先日の宮古に引き続き、岩手県では最も被害の大きい自治体である陸前高田市への出張相談を担当しました。今回は、函館・秋田・大阪からそれぞれ派遣された弁護士さんを私の車両に乗せ、4人で被災地に向かいました。

配属先は、陸前高田の広田半島(牡蠣の養殖で有名)の真ん中にある「モビリア」というキャンプ場などに利用されている施設と、海岸から10㎞以上は離れているはずなのに、川沿いに押し寄せた津波の影響で大きな被害が及んでいる竹駒地区にある公民館(定住促進センター)の2箇所でした。

1 指定避難所まで

この日は、住田町から陸前高田市内(竹駒地区手前)に入ったところで大渋滞となりました。原因は、四十九日法要の日であったほか、竹駒地区から高田一中の国道沿いで電線の架線工事をしており、片側通行になっていたことによるものでした(高田市内の中心部や北部に渋滞はみられませんでした)。

なお、私と共にこの日の陸前高田の相談(別の避難所)を担当された某先生の提案で、「旧宮守村にある某ドライブイン風店舗」をトイレ休憩場所にしましたが、肝心のトイレに紙が切れていて泣きそうになりました。

2 モビリア(私と青森の先生が担当)

竹駒地区の渋滞と、陸前高田の中心部の壊滅等に伴うルートの不明(カーナビで指定された道路が、冠水その他で通行できず)のため、30分ほど到着が遅れました。途中で通過した陸前高田の中心部のあまりの壊滅ぶりには、本当に言葉を失うばかりでした。

施設では予め開催予定の告知はされていたとのことであり、他の避難所から相談に見えられた方もいましたが、相談にいらした方は5名に止まりました。

3 竹駒その他(秋田と大阪の先生が担当)

手前の渋滞に泣かされたものの11時前には到着しましたが、到着した時点で相談希望の方はおらず、担当者も不在でした。

結局、11時から5時までの相談会として設定していましたが、相談にいらした方は2名しかなく、施設の管理担当の方も「そんな連絡もあったかも」程度の低調な対応だったとのことです(住民から担当者に弁護士に相談させてくれ的な突き上げがないことの裏返しかと思われました)。

他の先生方のレポート(岩手弁護士会MLに送信)でも同様の指摘が多々なされていますが、事前に現場に周知がないなどの問題が多いようで、今回も現地の方から「事前周知の徹底(工夫)」を求める声がありました。

11時に竹駒で2人の先生を降ろした際、相談者が来なくて困った場合は連絡して下さいと述べていたところ、案の定、1時半頃、モビリアにいた私の元に大阪の先生からSOSが入りました。

そこで、急遽、青森の先生をモビリアに残して竹駒に移動し、岩手会のMLで本部の先生が送信していた「県内の避難所リスト」をもとに大阪の先生と近所の避難所巡りをすることにしました。以下、巡回先では次のようなやりとりがありました。

①西部デイサービスセンター竹の里

高齢者のデイサービスの施設で、ちょうど、利用者向けのオリエンテーション的な集会をやっていたため、窓口対応をされた方に、「岩手弁護士会ニュース」数十部を説明・交付して退去。

②社会福祉協議会事務所

上記のすぐ近所にあったので立ち寄り、窓口対応をされた方に「ニュース」を説明し、数十部を交付して退去。特に相談希望者が来所しているという感じでもありませんでした。

③仲の沢公民館

高齢者3、4名のみ滞在されていたため、「ニュース」数十部を説明・交付して退去。

④上細根町内会館

すでに夕食の準備を始めていたものの、十数名の利用者が滞在されていたので「ニュース」の簡易な説明会をしたいと申し出、10分ほど「ニュース」の内容や補足(支援法の典型相談例など)を説明し、若干の懇談とフリーダイヤルの宣伝、「ニュース」数十部の交付をして退去。

4 その他の視察?先

上記のとおり、指定場所の相談(特に竹駒)が低調であったため、他の関係先に「岩手会ニュース」を届けるのを優先した方が賢明と判断し、若干早めに竹駒を切り上げ、陸前高田市役所(臨時庁舎)に行きました。

本来の庁舎は津波が直撃したため、現在は高田一中の近くにある高台の団地付近に仮庁舎が設けられており、そこにある市の対策本部(広報担当)に伺ったところ、「岩手会ニュース」はこれまで見たことがないとのことでしたので、市内各所への配布等も含め、広報への活用を要請してきました。

その後、高田一中にも行きましたが、こちらは、さすが「県内最大の避難所」と目されていることもあり、岩手会ニュースも山積みでした。

宮古で伺った小学校は体育館のみ避難所として使用されているのに対し、こちらは校舎の1階を広く避難施設として使用しており、別格の感がありました。校庭での仮設の建設も進んでいましたが、反面、ここの生徒さんはどうやって勉強・運動すればいいのやら・・とも思いました。

その後、壊滅した中心部と海岸沿い(道の駅)を経由してモビリアも撤収し、大船渡経由で戻りました。

「大船渡・碁石海岸」インターで降り、大船渡署などを垣間見て住田町方面に向かいましたが、これまで拝見した宮古・釜石・大船渡は中心部が相当程度、生き残っていたので、これに対して中心部が完全に壊滅した陸前高田の惨状を改めて強く感じ、他市と比べた再建のため必要とする距離の違いが強く印象に残りました。

私個人は、4年ほど前に大船渡署の当番で高田松原に行って以来でしたので、高田松原のすぐ近くにある道の駅付近の変貌ぶりや、海面が国道のすぐそばまで来てしまっていることに、特にショックを受けました。

5 雑感・おまけ

壊滅した旧中心部を走行することが何度かありましたが、国道を除けば、道路状態が非常に悪く、パンクの恐怖を感じました。岩手会で他の地域に派遣された先生からパンクしたとの報告が複数あったので、パンクのリスクはかなり注意を払った方がよいと感じました。

盛岡に20時過ぎに戻りましたが、遠方からお見えになった先生に何の労いもしないのは私の「おもてなしの心(byどんと晴れ)」が許さない(或いは、ささやかながら外貨獲得)ので、反省会をやることにしました。その際、大阪の先生からは次のような指摘がありました。

①関西と東北との心理的距離について。

関西人にとって沖縄は身近だが、東北は非常に疎遠。大阪弁護士会には旅行などで沖縄を気に入り登録替えする人は多いが、東北には聞いたことがない。

神戸・大阪には、「被災地しばり飲み会」を筆頭に、支援希望者が多いので、もっと双方が交流する仕組み・仕掛けが必要。(私が銀座のアンテナショップや「なまはげ居酒屋」の話をすると、大阪にも「座敷わらし居酒屋」を作るべきと強調されていました。岩手弁護士の協同組合も他の弁護士会のように特産品販売でもやればいいと思うのですが。)

②仮設住宅について。

仮設に早く行きたいという声は多いが、奈良の大滝ダム(ダムの設計ミスで巨大地滑りの危険が生じ、集落の強制移転が行われた事件。近々に控訴審?判決とのこと)では、日当たりの悪い場所に仮設が作られたため、虫が大量発生して生活に多大な支障を来したり、防音能力がまったくなく、プライバシーがおよそ保護されず、問題が生じた例を沢山見てきている。「仮設の先(公営住宅の建設など?)」を見据えた対策を迅速に取るべき。

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こうして当時の記録を読み返すと、当時の現場の悪戦苦闘や、良くも悪くも「被災地サイドとの意思疎通を欠くまま、兎にも角にも被災地を訪れて支援したい(すべき)との県内・他県の一部の「偉い」弁護士さん達の声に押される形?で闇雲に避難所相談を設定し、半ば行き当たりばったり的に被災地を巡っていた」という印象を、改めて強く感じます(この点は次回の大船渡も全く同じです)。

岩手弁護士会では、在間先生が陸前高田に着任した3年ほど前から、主に陸前高田エリアで在間先生や盛岡の若手を中心に仮設住宅等の巡回相談をなさっているとのことですが(私は、その頃から原則的に月1回の法テラス気仙の相談担当のみとさせていただいています)、相談者・利用者サイドのニーズや心理的な距離を縮めること(地元の協力支援者などを含め)なども考慮し、より合理的で的を射た、持続可能な支援のあり方を考えていただければと思っています。

また、末尾に記載した「関西圏と東北との距離を縮める」という点も、残念ながら私自身はその後は特段のことはできていないように思われます。岩手の先生の中にはこの5年間で神戸の方々と強い繋がりを築いた方もおられるだけに、なおのこと忸怩たるものはあります。

昨年、沖縄に出張した際、「縄文文化圏」である北東北と沖縄の共通点だけでなく、関西圏が、首都圏以上と言ってよいほどその結節点の役割を担っているのではないかと感じました。それだけに、私自身がそうしたものに繋がる実践をできる場がないのか、今後も模索し続けたいと思います。

震災から1ヶ月後(H23.4)の被災地相談~宮古編~

先日から、震災直後の出来事などについて、旧HPの日記欄に投稿した文章を再掲していますが、先日の投稿に引き続き、震災後間もない時期に避難所相談などに従事した件について再掲します。

長たらしい文章ですが、それだけに当時の生々しい状態が再現されており、支援活動のあり方などを検討いただく上で、参考になる点はあると思います。

今回は、23年4月中旬に宮古の避難所相談を担当したときのことです。

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岩手弁護士会では、3月下旬から順次、内陸部(主に盛岡)で執務する弁護士がローテーションを組み、沿岸部に点在する避難所への無料相談事業を行っています(幸い、法テラスから申し訳程度ですが日当が出ます)。

4月中旬頃からは、日弁連を通じ、他県(主に北海道・青森・秋田・大阪・兵庫)の先生が応援に参加し、岩手会1名+他県3名が、岩手の弁護士が運転する自家用車に乗り現地2~4ヶ所に赴くという体制を取っており、5月末までこの体制が続くことになっています。

私自身は、家庭の事情により独身等の方々に比べて自由に身動きが取れない状況にあり大した貢献はできていませんが、それでも4月と5月で計5回、被災地への出張相談を担当しています。

この日は、私にとって4月3日の釜石以来2回目の避難所相談となり、神戸の弁護士さん1名、青森の弁護士さん2名と一緒に宮古の避難所に行きました。

終了後、岩手弁護士会のMLに相談結果を報告しましたが、相談内容以外は守秘義務が問われる内容でもありませんので、ここでもご紹介します。

1 指定避難所まで

この日は午後1時からの開始でしたが、弁護士会のルールで9時に盛岡駅前から出発となっていたため、11時過ぎに宮古市内に到着しました。

派遣先の避難所が、被災の様子が分かりにくい内陸方面にありましたので、県外の先生方にも被災現場を見ていただくべきと考え、宮古でも被害の大きい鍬ヶ崎地区に行き、そこから浄土ヶ浜を垣間見て、宮古駅に戻って昼食を取り避難所へ移動しました。

鍬ヶ崎の凄惨な光景は、その1週間前に宮古振興局の相談に来た際にも見ていましたが、若干片付けが進んだように感じました。また、浄土ヶ浜と国道を結ぶ橋からは、右手に壊滅した鍬ヶ崎地区、左手にいつもと変わらない穏やかで美しい三陸の海と断崖の光景が広がり、非常に対照的でした。

2 シーアリーナ

今回は宮古市民総合体育館(シーアリーナ)と宮古小学校の2ヶ所を派遣先として指定されており、弁護士会の対策本部の指示に基づき、シーアリーナで青森の先生お二人を下ろし、私と神戸の先生が宮古小に移動しました。シーアリーナでは、相談者が計11名で、他に雑談的に数名ほどの相談があったとのことでした。

避難所相談は現地で場所の選定をされている地元の弁護士さんや市役所等との協議で決まるのですが、一杯一杯とのことで、直前にならないと決まらず、現地でも十分には周知されていないことが常態化しているようです。

この日もシーアリーナでは開催予定の告知はされていたそうですが、あまり周知されていなかった様子で、相談者もまばらだったようです。

3 宮古小学校

到着直後、避難所になっている体育館の入口で利用者の顔役のような年配の方(配膳担当?)に、開口一番「弁護士相談が事前に連絡されていなかった」「前夜までに言ってくれれば、利用者に周知したのに」「今日は温泉の通所サービスの日で、皆、3時過ぎまで出払っている」と言われ、実際、利用者の多くが外出中で、閑散としていました。

宮古で執務している先生から「そのような場合はこちらへ」とメールでアドバイスを受けていたので、3時過ぎにまた戻る旨を伝えて、車で5分ほどの距離にある別の避難所(愛宕小学校)に移動し、3時頃、神戸の先生を残し、私一人で宮古小に戻りました。

ところが、戻った後も温泉から戻った方は高齢者が10名前後で、アナウンス等するも「相談しようムード」にならず(風呂上がりのせいか皆さん寝てました・・)、形としては1件のみに止まりました。

やむなく、岩手弁護士会で作成した様々な制度やアドバイスの要点を記載したチラシ(岩手弁護士会ニュース)の戸別配布等をしながら、気力のありそうな避難者の方に被災者生活再建支援法(家屋が被災した方に行政の支援金が支給される制度で今回は特に出番の多い法律)のアナウンスをしたところ、数名の方と雑談的に色々と質問を受けたりしました。

結局、前出の顔役の方から「4時過ぎに配膳開始になるので退去するように」と言われ、やむなく退散することにしました。

退去した4時半の時点まで、宮古小では壮年世代の方はほとんど外出して不在で、横になっている高齢者の方10~20名弱とお子さん数名という構図で、終始閑散とした感じでした。

避難所の入口には札幌市の職員の方(受付用の応援要員とのこと)が待機しており、「一番不足しているのは現地で人や物の配点のコーディネートができる人材なんですよね・・」と互いにため息を付き合うばかりでした。

岩手弁護士会の出張相談では、このように、せっかく現地に伺っても事前の広報等が行き届かず、弁護士4名・避難所2箇所で相談者が合計で10名前後に止まる日も少なくないようです。

言うなれば我々自身が「積み上がった支援物資」のような状態で、被災者だけでなく遠方から来ていただく弁護士さん方にも申し訳ないと感じています。

現地での広報等のコーディネートや適切な戦力投入のあり方などについて、弁護士会だけでなく、地元の方々にも対処法を検討いただければと思っています。

4 愛宕小学校

前記2の経緯から、1時半過ぎに何のアポイントもなく愛宕小に押しかけましたが、こちらは宮古小とは打って変わって到着直後から相談希望者が多数あり、私と神戸の先生で、合計11名の相談がありました。

再建法絡みがほとんどでしたが、生活・仕事の再建に絡む相談もあり、印象として宮古小やシーアリーナの方よりも活気があるように感じました。

宮古の先生のメールによれば、宮古小やシーアリーナが、宮古の中心部では特に被害が大きく、自宅その他を根こそぎ奪われた鍬ヶ崎近辺の方が入っているとのことで、これに対し、愛宕小の利用者が、多少は街並みが維持されている愛宕小周辺~市街地の方ということなら、その差が出たということかもしれません

弁護士会のルールで7時まで待機するように言われていましたが、5時半頃から避難者の食事時間となり、それ以後は相談希望の方もなく、そのまま終了となりました。

さすがに震災から1ヶ月半近くも経過したせいか、避難者・スタッフ向けの食事も大量に余っており、配膳場所のすぐ脇に開設したブースで空きっ腹で座っていたのを見かねたのか、「どうぞどうぞ」とスタッフ(ボランティア)の方に勧められ、遠慮無く頂戴しました。

ただ、シーアリーナに着くと、こちらでは、別室に移動したせいか、青森の先生方はそのまま待機されていたとのことで、汗顔の至りでした・・

5 雑感

3ヶ所とも、乳幼児(連れの家族)の姿はありませんでした。優先的に仮設住宅等に移動したということなのでしょうか?要介護の方がいる家庭も同様でしょうが、そうした配慮がされたということであれば、望ましいことかと思います。反面、今後の支援等の問題はあるかとは思いますが。

また、全般的に(特に宮古小とシーアリーナ)、1ヶ月半も避難所生活が続き、疲労の蓄積が顕著という印象です。「弁護士が対処を要する論点・紛争が顕在化するのはこれからだ」などと言われていますが、それ以前に避難者の方々が精根尽き果ててしまわないか心配です。

仮設であれ民間住宅等であれ、避難所生活の解消が何より優先されるべきではないかと思われます(反面、避難所生活なのでコミュニティが維持できているという指摘もあり、悩ましい問題も含まれていると思いますが)。

また、疲弊感の根本原因に、1ヶ月半も経過しているのに生活再建=仕事等の目処が立っていないという点も顕著に見られました(雑談等をしても、皆さん被災前はそれなりに仕事を持っていました)。

弁護士も、困っている住民の支援だけでなく地域に雇用と利潤(自立的な復興原資)をもたらしてくれる、産業・経済・企業等のサポートの方にも携わっていければと感じずにはいられませんでした。

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この日の避難所相談は、弁護士会の支援活動の問題点や課題について、色々と考えさせられることの多いものだったと思いますが、結局、さしたることもできず、改善というほどの事柄も生じないまま、現在に至っているように思われ、改めて私自身の力不足を痛感せざるを得ないところはあります。

最後に記した「産業・経済・企業等のサポート」も、弁護士会はもちろん、私個人としても特段のことはできておらず、今も皆さんにお力添えをお願いするほかないというほかない有様です。

はじめての被災地相談(H23.4再掲~釜石市北部の激甚被害エリアでの避難所相談)

先日から震災直後などに旧HPに掲載した文章を再掲していますが、折角なので、震災から間もない時期(4月や5月)に避難所の相談に赴いた際の文章も載せることにしました。

今回は、その1回目(甚大な被害が生じた釜石市の鵜住居防災センターから内陸部に入ったところにある、同市北部の栗林小学校での避難所相談)について記載したものを再掲します。

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岩手弁護士会では、3月下旬頃から避難所への出張法律相談を開始しましたが、この日、私もはじめての避難所相談を担当することになりました。派遣先は釜石市の栗林小学校で、もう1名の盛岡のO先生が運転する車で、一緒に行きました。

釜石市に到着すると、先に釜石駅前の行政施設に立ち寄りましたが、釜石駅前周辺が津波の到達の有無を分けた分水嶺になっており、神戸の警察官が交通整理をしていたり、大阪府のバスが駐車していたり、中東系の団体が炊き出し支援をしていたりと、被災地ムードで溢れていました。

その後、被災した釜石市の中心部を横切って北上し、栗林地区に向かいました。釜石市の商店街(駅から海側のエリア)は、1階部分が津波で壊滅し、少なからぬ建物が倒壊等の被害を受けており、はじめて被災状況を目の当たりにしたこともあって、悲しいやら悔しいやら無力感で一杯になりました。

釜石は約3年前に筆界調査委員の仕事で中心部のホテル(のレストラン)などに来たことがあり、自分が訪れたことのある、以前の状態を知っている場所が壊滅しているのを目の当たりにすると、本当に苦しい気持ちになりました。

中心部から一山超えて北上すると、地区全体が丸ごと津波で壊滅したエリアが点在しており、さらに暗澹たる気持ちになりました。

そうして栗林小学校に到着し、2部屋を相談場所として提供していただき、O先生と二手に分かれて相談(13時から19時まで)を開始しました。

この日は、弁護士が来訪したのが初めてということもあったと思いますが、その後の相談会(おって掲載する4/25、4/28、5/16を参照)と異なり、ひっきりなしに相談希望の方がいらっしゃいました。私の方は合計で13件ほど、O先生に至っては5分程度で終わったものも含め、20件以上あったとのことでした。

大半は「自宅が流されたが行政の支援はないのか」などという類のものでしたので、阪神淡路大震災を機に制定された、被災者再建支援法のスキームを説明し、おって行政の受付開始を待って下さい(審査後に問題が生じた場合には、再度ご相談下さい)と述べる程度に止まるものも少なくありませんでした。

ただ、債務関係の相談や相続、中にはご両親を亡くしたお子さんの問題(お母さんの姉妹の方が一緒にいらして今後の養育などの話をされていきました)など、弁護士の力の及びにくい領域で難しい問題が多々生じていることを感じさせられることも少なくありませんでした。

相談結果については岩手弁護士会でデータ化して集計しており、現行法では救済し難い問題も少なくないため、政策や立法などの資料として生かしていただければと思っています(※後日、日弁連に提供し、整理・分析等を委託することになりました。ただ、本当に活用されたと言えるかは疑問符ですが・・)。

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ところで、上記の末尾にある「相談結果のデータ化」については、そうしたものを集約して相談回答集的なものを作ってはどうかという話があり、私は賛同し相談と回答例を分野などに類型化してまとめる作業を多少はしていたのですが、結局、そうした作業はしない(できない)という話になり、立ち消えになってしまいました。

私自身は、多数の相談事例の整理、分類は得意としているので、そうしたものを作って被災地などに広く伝えていれば、多くの被災者・関係者にとって、少なくとも「とっかかり」として利用できた面はあったのではないかと、残念に思っています。

震災1年目に考えたこと(H24.3再掲)

先日、震災5年目の日を迎えて考えたことについて書きましたが、震災からちょうど1年目の平成24年3月に書いた文章を再掲することにしました。

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それぞれの1年目

震災から1年を経過したこの日(平成24年3月11日)、私自身は当番弁護士の担当日で遠方を含む複数の警察署に接見に向かったり、家族が通っているピアノ教室の発表会の付添を余儀なくされるなど、震災とは何の関係もない一日を過ごすことになりました。

ただ、地震発生時刻がピアノ教室の発表会の最中でしたので、その際は参加者全員で黙祷を捧げることができ、その点は良かったと思っています。

遠方の警察署から帰宅した後、facebookやブログなどで様々な方がこの日にどのように過ごしたり、どのような情報を発信しているのか、興味深く拝見しました。

沿岸の方々は言うに及ばず、盛岡の方も日本JCによる被災者追悼などを目的とする大きなイベントがあったこともあり、震災絡みの多くの投稿を拝見しました。

私のfacebookでの「友達」は、東北地方の他県の方はごく少数しかいませんが、その方々も被災地の方か否かに限らず震災関連の投稿をしておられました。

他方、東北以外の地にお住まいの方からは震災関連の投稿はほとんどなく、何人かの方が、普段どおりの日常に関する投稿をなさっていました。

そのことを非難するつもりもなければ非難する立場でも勿論ないのですが、そうした光景は、やはり一種の風化というか、温度差なのかなぁと思わずにはいられないものはありました。

もちろん、私自身を含め、身内などが犠牲者になったわけでもない立場では、いつも通りの日常を送ること自体が震災に負けないことの表明だというスタンスも当然正しいと思いますので、何一つ間違っていないとは思うのですが、盛岡の方が次から次へとfacebookに震災関連の投稿をしているのに対し、他の地域からそうした声が出ないのは、ある意味、不思議な感じもしたことは事実です。

私の盛岡の「友達」は、同県人としての同胞意識もさることながら、JC関係者など被災地支援に関わってきた方が非常に多く、私がこうした投稿を書いているように、何か言わずにはいられない方々という面がありますので、そうしたことも割り引かなければとは思います。

ただ、「地震の揺れの程度」では盛岡も東京もほとんど差がなく、帰宅難民という点では首都圏の方が苦労された方も多いと思いますが、不思議なほど震災について何かを語ろうとする投稿を見かけませんでした。

或いは、津波や原発に直面した本当の被災者の方に遠慮して、ご自身の経験については投稿を差し控えたのかも知れません。

それに対し盛岡の方々が次々に投稿をされていたのは、実際に支援活動などに携わる中で、心理的なものを含めた被災地との距離が近くなってきたことによるのではないかと思います。

実際、盛岡の方の投稿も、ご自身のことではなく被災地=沿岸についてのものばかりであったことは言うまでもありません。

私自身も、はじめて被災地を訪れた頃、津波でズタズタにされた街並みを見て、在りし日の姿を思い出し悔しくてたまらなくなったり、その後、何度も被災地の避難所などを通って相談に従事し様々な方のお話を伺ったことなどが、走馬燈のように思い出されました。

これまで、私自身が当事者として経験していない終戦記念日や原爆投下日、阪神大震災の発生日などについて、敢えて何かを記すに値するだけの特段の感慨を抱くことは無いに等しかったと思います。

これに対し、3月11日については同時代の当事者に準じる立場として、これからも特別な日として心に残っていくのだと思います。

3月11日という日に対する受け止め方は様々だと思いますが、大自然に対する人間の小ささ、儚さと、犠牲者への哀悼の念や被害に挫けず努力を続ける必要性を感じさせる日として、多くの方に生き続けていけばと感じています。

震災の日のこと~東北地方・太平洋沖地震(東日本大震災)の被災経験~

旧HPで掲載していた、震災の日(平成23年3月11~12日)に私が盛岡で経験した出来事などを記載した文章を再掲することにしました。盛岡は停電やガソリン問題を除けば大きな被害はなく、「被災経験」と題するのは大げさかもしれませんが・・

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昨日に発生した表記の大震災については、当事務所の存する盛岡市でも震度5強とされる大規模な地震に直面しました。

幸い、激しい揺れは経験したものの、私に限って言えば、家族・実家とも人的被害はなく、物損もごく僅かに止まりました。しかし、岩手ないし東北・東日本の被害という点から言えば、沿岸部を中心に甚大な人的・物的被害が発生してしまいました。現在も救助等の活動が行われており、可能な限り人命の救助や被害の拡大阻止が図れることを願ってやみません。

また、全国・全世界の皆さんには、犠牲者・被災者及びそのご家族のため、相当なご支援をお願いしたいと願っております。

個人的にご心配をいただいた方もおられるので、取り急ぎ、土曜夜までの私個人の体験談のみ簡潔に記載したいと思います。

まず、地震が発生した午後2時50分には、出勤中の事務局2名と共に事務所で書類仕事をしており、3人とも机に隠れましたが、幸い一部の食器が破損した程度の被害しかありませんでした。

ただ、激しい振動が続いた時間が非常に長く(実感として3~4分程度)事務局長に言わせれば、このままビルが倒壊してしまうかと思ったというほどのものでした。私も、机の下でNZの映像が脳裏をよぎっていました。

揺れが収まった後、一旦ビルの外に出て近くの広場に行きましたが、街中が完全に停電し、信号機も完全に消灯していたので、修習中に旅行したインドネシアの町(交通量が多いのに信号機がなく各人が勝手に渡っている)と同じような印象を受けました。

何度か震度4、5クラスの余震がありましたが、それ以上の余震が見られなかった上、金曜の4時にある事件の期日が予定されており、その際に来週早々の期日の準備書面なども持参するつもりであったので、多分、行っても無駄だろうとは思いつつ、自転車を駆って裁判所に行きました。

当事務所から裁判所までは自転車で10分程度ですが、歩道には普段の数倍の人が歩いており、完全停電も相まって、被災地そのものという印象でした。

裁判所に着くと、予想通り、職員が次々と帰宅していたため、急いで4階の書記官室に行き、まだ残っていた書記官の方に、事情を説明して休廷を確認し、訴状や準備書面だけ受け取って下さいとお願いして、事務所に戻りました。裁判所も人的・物的被害はほとんどない様子ではありましたが、完全停電のため、階段などは真っ暗でした。

余談ながら、4時の事件の相手方代理人は東京の弁護士の方で、電話会議とせずに出廷を予定していたため、恐らくは新幹線に乗車中に地震が発生したものと思われ、同情の念を禁じ得ませんでした。

その後、事務所に荷物を置いて家族と合流しましたが、巨大な余震があると不安とのことで、少し事務所で待機した後、歩いて帰宅しました。その日は完全停電でしたが、幸い、私のマンションは帰宅後21時まで給水ができた上、ガスが止まっていなかったので、お湯を沸かして夕食を取ることができました。

自宅にラジオと登山用のヘッドランプがあったので、最低限の対処ができましたが、何度も余震があり、不安を抱えながらの就寝でした。

翌12日は、盛岡の街は平穏そのもので、行きつけのスーパーに自転車で買い出しに行きましたが、店頭で菓子類や果物、レトルトカレーなど若干の品物を販売していただけで、それでも購入まで1時間半くらい並ばなければなりませんでした。

帰宅後、今夜も停電のままかと肩を落としながら家族で夕食をとって間もなく電気が復旧しました。文明社会に復帰できたことを喜びつつも、テレビ画面で過去に何度も足を運んだことがある沿岸方面の惨状を目の当たりにし、愕然とさせられた次第です。

沿岸部の皆さん、とりわけ沿岸部在住の知人・友人や当事務所に事件を依頼されていた皆様の安否が心配でなりません。自動車で2時間程度の距離に過ぎないのに、ガス欠その他の事情で現場に向かうこともできない自分が悔しく、情けない気持ちで一杯ですが、皆さんのご無事と一人でも多くの方の救出を心より祈っています。

ちなみに、地震発生の直前に、11日付で「16日予定のJCの知事選公開討論会のPR」の日記までを書き終えて事務局に掲載要請をしましたが、もはや、それどころではなくなってしまいました(既に、延期が決定されています。知事選そのものも特例法で延期になるようです)。

震災被害者の救済が最優先で図られるべきことは当然ですが、未曾有の震災により、沿岸部をはじめ県内全域で、数十年以上に亘り様々な負の影響が生じるであろうことも危惧されます。今後も様々なことに視野を向けながら、自分の立場でできること、すべきことに全力で取り組みたいと思っています。

あの日から5年、そしてfacebookから垣間見る2つの社会

昨日(3月11日)は震災から5年目で、あのときと同じ金曜日でした。この年になると年月があっという間に過ぎてゆく感覚がありますが、今も、地震発生から翌日夕方の電気復旧までの時間については多くのことを覚えています。

あれから5年。私にとっても本当に色々なことがありました。

ただ、私に関しては、震災支援で何かを成し遂げたという類のものはほとんどなく、何をしたかと言われれば、5年間、月1、2回の頻度で丸1日かけて沿岸被災地の無料相談等に赴くなどの繰り返しだったというのが実情だと思います。

もちろん、そうした活動などを通じ、色々な問題意識を持つことはありましたが、残念ながら、私の力量不足のせいか、問題意識を多くの方に共有いただき物事の大きな改善を図るとか、それを通じて社会を切り開くとか、そうした大それた話に関わることは全くできていません。

むしろ、震災前の頃の方が、若さゆえの愚かさのせいか、そうした可能性が多少は自分にあるのではと素朴に(無謀に)信じていたのではないかとすら思っています。

正直なところ、震災そのものより、その前後で激変した我が国(や岩手)の町弁業界の環境変化の方に翻弄されてきたというのが率直な心情であり、そのことも、震災にシンボリックな負のイメージを抱いてしまうきっかけになっているのかもしれません。

私は、facebookで多くの方と「友達」になっていますが、震災の日に関しては、例年、県内の方と県外の方ではFBフィード上に表示される投稿にはっきりと違いが出ます。

端的に言えば、岩手の「友達」は今も多くの方が震災について触れますが、遠方の「友達」の方々は震災を話題にすることはほとんどなく普段どおりの投稿をしており、その点は震災から1年後の3月11日のときからはっきりとした傾向としてありました。

私の場合、フィード上に表示される投稿の比率が、盛岡で開業してから県内で知り合った地元(大半が盛岡)の方が6~7割、高校・大学や修習中などに知り合った県外の方が3~4割という感じなので、この日に限っては、まるで二種類の民族が国内に存在するかのように、そうした「投稿の違い」がはっきりと出ます。

東京や西日本などの方にとっては関心はかなり薄れているのだろうと残念に感じる面がないわけではありませんが、5年を経た今も県内の方々の投稿が震災一色になるという光景にも、それはそれで若干の違和感というか、必ずしも共感というか一体化できない「もやもや」した思いを感じる部分もあります。

もちろん、いわゆる復興の遅れも震災の風化も望ましいことではありませんし、沿岸被災地では今も急激な人口減少をはじめ様々な課題に直面していることも申すまでもなく、そうしたことに触れながら社会批判や関心喚起を訴えている投稿そのものを批判したいのではありません。

そうではなく、「facebookで投稿や情報発信をするのを好む人々」という層が、3月11日には、震災に触れずにはいられない岩手(被災県)の方々と、まるで震災そのものが無かったかのように普段どおりの日常を投稿している遠方の方々に二分化する光景を見せつけられると、ある種の無力感であるとか、社会の断絶といったものを感じざるを得ないような気がして、そのことに気が滅入る面があるからではないかと思っています。

私には、職業柄?反安倍政権などをFB上で公言する同業などのFB「友達」もいれば、逆に、右寄りの傾向を感じさせる「友達」の方もいますが、双方が対話や討論(ひいては調和や弁証法的止揚)をすることなく相互に一方的な主張に関する投稿(論者の投稿への「いいね」を含め)を繰り返している光景を垣間見ては、日々残念に感じています。

こうした例えは失礼かもしれませんが、岩手の人々と遠方の人々の震災を巡る投稿傾向の違いにも、思想信条や社会的立場を異にする人々が互いに交わることなくご自身の縄張りで自己主張している光景と、どことなく似たようなものを感じてしまう面があります。

ただ、そのようなことを述べていると「お前こそ、双方の人々とFB「友達」になっているのだから、震災絡みであれ、それ以外であれ、そうした人々をつなぐ役割を果たすことがお前の仕事ではないのか。それなのに愚痴ばかり言ってどうするのか」とお叱りを受けてしまいそうです。

まさにそのとおりで、3月11日という日は、被災者の方々とは違った意味で、私にとって、何かが止まり今も取り残されているような気持ちにさせられる、そんな無力感を強いられる日になっているのかもしれません。

もちろん、そうした後ろ向きな心情を抱いていることこそが、前に進んでいくためには最も克服しなければならないのだと、自分を叱咤しなければならないことは当然ではありますが。

本日、とあるご縁で「地域の小学6年生の卒業を祝う会」的な集まりに参加させていただいたのですが、大人が前を向いて笑顔で進んでいかなければ子供達が笑顔で育っていくことはできないだろうと、そうした思いを新たにしました。

快晴の安比に潜む妖怪「わすれん帽」に今も昔も取り憑かれた男

去年の秋に安比に行く機会があり、リフト前売券を1枚だけ買っていたのですが、行く余力がないまま本日に至ったので、通常コンディションで滑れるのは今日が最後だろうと、腹を括って行くことにしました。

昔に比べると雪質は良いとは言えませんが、数日前の大雪後の晴天ということもあり、概ね問題ないコンディションでした(深夜3時まで事務所で仕事したせいか、寝坊して昼近くに着いたのが悔やまれます)。

やはり、快晴の日に来ると、「安比に行かない岩手の冬なんて」とか「こんな日に安比に来ないなんて、あなたそれでも岩手人?」などと、どこかで聞いた言葉をもじりたくなってしまいます。

ただ、好事魔多しといいますか、今日は驚くべき事態が発生してしまいました。帰宅して車の後部座席を見たところ、スキー板とストックを持ち帰るのを忘れてしまったのです。

愚かにも、自車にスキーを立てかけておきながら靴だけ履き替えてスキーを車内に入れるのを失念して出発するなどという、先日の最高裁判決が人ごととは思えない夢遊病級の失態をしてしまったようです。

幸い、スキー場に問い合わせたところ、ほどなく発見していただき、着払いで発送していただけることになりました。

ちなみに、このスキー板ですが、18年前に指導官(検察庁での修習生の監督役)だったO検事のご推薦により当時は大通商店街にあった石井スポーツにて購入したロシニョールの板で、ストックはO検事が「ストックを買い換えたから、古いやつを修習生の誰かが買わんか」と言われて購入したものでした。ちなみに、その際に「オマケにこれも付けてやる」とタダで頂戴した紫のフリース衣料を、今日もウェアの内側に着ていました。

修習生の頃は、中3(か高1)に購入したイケてないスキーウェアの上に、修習1年目の冬にインドネシア(ジャワ島のジョグジャカルタ)で購入した、寝具用と思われる「ちゃんちゃんこ」風のフード付き衣類を羽織って滑っており、誰からも「その格好はヤバいから止めろ」とストップが入らなかったので(実際、色合いなどは違和感ありませんでした)、何年も、そのスタイルで続けていました。

が、現在では家族から強硬なクレームが入り、今はやむなく普通のスキーウェアを買って着ています。

昔から、一般的にはスキー板や靴の寿命は5年程度と言われ、それ以上を過ぎるとプラスチックが割れると聞いていますが、今のところ、板にも靴にもヒビらしきものは見えません。まあ、2年前まで10年近くブランクがあったほか、修習後は年に3回程度しか行けてないことが、延命の理由かもしれませんが。

そんなわけで、いつ買い換えるべきかと悩みながら放置し続けてしまったのですが、こんな事件まで起きてしまったので、もう、滑走中に空中分解するくらいの事態が生じるまでは使い続けようかなと思っています。

そういえば、修習生のときも、買った直後の「メガネの曇り防止のためのファン付きゴーグル」を昼食後にザイラーレストランに忘れ、ゴンドラから滑り戻ったところ神隠しに遭っていた(しかも、電池を入れないとファンが回転せず曇り防止にならないことを修習生の誰かに食事中に指摘され、結局、曇り防止機能を一度も使うことなく昇天してしまった)という出来事があったことを思い出しました。

あの日も、安比の太陽がとても眩しかったような気もします・・