北奥法律事務所

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掛川城と静岡の「明日に架ける橋」たち

今年の正月は静岡県中西部に足を伸ばしました。まずは、島田市にある「世界で最も長い木造橋」とされる蓬莱橋に行きました。

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個人差はあるでしょうが、片道10~15分程度で、終点(橋の向こう側)に小さな祠があり、広大な大井川や遠方に見える富士などの眺望もよく、気軽に散策できる場所としても、訪れてよいところだと思います。

島田市は、岩手県民には震災後、放射線風評被害に負けずに真っ先に「三陸の被災廃棄物の広域処理に手を挙げた自治体」として覚えている方も少なくないと思いますが、私の知る限りでは、その後、島田市が県内ニュースなどに登場したとの記憶がありません。

同市が受入を表明した理由が、日本茶の一大産地たる同市にとって岩手が上得意という事情があったと報道されていましたので、今後も、相互交流や両県での各種物産品の販売、共同企画商品の開発と全国展開など、折角のご縁を豊かにしていく営みがもっとなされればと思っています。

次に、掛川城に行きました。こちらは、今川氏の統治時代に大物重臣の一人(朝比奈氏)が居城として築いたのが発祥とのことですが、言わずと知れた、山内一豊が「初めて本格大名に出世した城」として著名であり、現在の城郭も、(対徳川氏の防御目的で)一豊公により拡張・整備されたものとされています。

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そのため、「大河バカ」の私が「巧妙が辻」のテーマ曲を口笛で吹きながら散策していたことは、申すまでもありません。

現在の城は、江戸末期に地震で倒壊した後、現代になって地元の熱意で再建されたとのことで、東北で言えば、片倉景綱が統治した白石城に似ているのかもしれません。

数年前に浜松に行ったときには、浜松城が年末休業になっていたのですが、こちらは有り難いことに年末年始も休まず営業されているとのことで、入口にはご年配?の忍者まで出勤されており、南アジア系?の外国人ご家族ともフレンドリーにカタコト英語で会話をなさっていました。

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残念ながら二の丸美術館だけは休館でしたが、他の施設はすべて拝観可能とのことで、二の丸の御殿(藩の政庁)や城郭の一部「竹の丸」に地元の豪商が明治期に建築した邸宅跡を拝見し、二の丸茶屋で一服いただいて帰りました。

竹の丸の邸宅は、明治の廃城の際に地元の豪商が土地を取得し建築したとのことで、盛岡でいえば徳清倉庫さんのお屋敷に通じるものがあるかもしれません。ただ、外観ないし雰囲気については、青森県平川市の盛美園(「借り暮らしのアリエッティ」の屋敷のモデルになった館)に少し似ているような気がします。

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邸宅は「竹の丸」だけに本丸(天守)の直下にあり、徳清倉庫さんも、どうせなら城から離れた場所ではなく下ノ橋の袂あたりに建てていただければ、今頃は「盛岡城址の定番周遊コース」になっていたのにと、少し残念に思いました。

また、竹の丸と二の丸との間にステンドグラス美術館があり、折角なので立ち寄ってきました。

館内の解説によれば、作品自体はヴィクトリア王朝期のイギリスで作られて英国国教会に設置されたものが中心とのことですが、1960~70年代の英国で、「反王朝文化」の風潮が起きて国教会の多くが閉鎖され、協会内のステンドグラスの多くも無惨に破壊される中、たまたま日本に収集家がいるとの話があって、その方が多数を買い集めて保存されていたものを公開しているのだそうです。

館内はさほど広くはありませんが、教会に飾られていた同一サイズのステンドグラス群が聖堂のような雰囲気で並んでいる様は、かえって上品で荘厳な印象を与え、心地よい空間を演出しているように感じます。

ところで、「1960~70年代のイギリス」は、現代欧州史は不勉強なのでさほど知識はないものの、ビートルズを生んだイギリスであり、サッチャー時代の前史=英国病と後日に非難された時代であり、王朝時代への反感や国教会の衰退などという点からしても、それまで社会で抑圧されていた労働者達(の利害を代表する労働党)が、保守党(の支持者たる富裕層)に代わって社会の主役に躍り出た時代でもあるのだと思います。

だからこそ、そうした社会の光と影がステンドグラスの向こう側に垣間見えるようにも感じますし、そんな時代の荒波に晒された文化財を日本の愛好家が保護して現代に価値を繋いだということにも、大いに意義があるように感じます。

館内の解説では、ヴィクトリア王朝文化は日本の浮世絵等の影響を受けており、その原因は幕末~明治の混乱期に日本の美術品が大量に国外流出したことによるのだと記載されており、そうした「洋の東西でそれぞれ生じた美術品の受難と伝播の交錯」も、歴史や文化の深さを感じさせるものがありました。

最後に立ち寄った「二の丸茶屋」では良心価格で抹茶と和菓子をいただき(城の拝観と竹の丸や茶屋がセット券になっていました)、ちょうど休憩が欲しくなるミニ周遊の最後ということもあり、大変ありがたく思いました(茶菓子は、地元の和菓子屋さんのものを使っているそうです)。

盛岡城址には、このようなサービスを提供する庭園等を備えた施設等はない(そもそも、和菓子と抹茶を気軽に堪能できる店舗自体が城跡公園の周辺にない)ように思われ、改めて残念に感じます。

例えば、建替中の教育会館や亀ヶ池などの周辺に、そうした施設ないし店舗を設置してはいかがかと思うのですが、どうでしょうか。

掛川城周辺は、民家や公共施設なども、掛川城の景観を壊さないよう、多くの建築物が、瓦屋根や白い壁のような外観にするなど、非常に配慮された街並みを形成しており、その点もとても心地よく感じました。

盛岡は、城の建築物はおろか武家屋敷などが全く残っておらず、その原因は、南部氏が戊辰の敗戦で転封の憂き目に遭い、その際に家臣団が根こそぎ移転し家屋敷を売り払ったからだという話を聞いたことがあります。そうした「旧支配層たる公権力の喪失」は、一方で、民間活力の勃興や明治期の人材輩出に繋がった面もあるかもしれませんが、他方で街全体の香気を損なってしまったような印象もあります。

盛岡の人々も、「盛岡ブランド宣言」などと称するのであれば、公園の名称改変などという子供騙しの話ではなく、一人一人が「南部の殿様」になったつもりで、城を取り囲む風景について都市規模に相応しい歴史と現代の双方の美と用途を備えた都市計画を練り、ハードとソフトの双方を100年かけてでも作っていく努力こそが必要というべきではないかと思いますし、それが、「主権者」たる地域住民のあるべき姿ではないかと思います。

掛川城は、山内氏の性質上、ご夫婦で裸一貫から事業を興す方にとっては何かと御利益がありそうな気もしますし、そうでない方にとっても、様々な思索の源泉となる場所として、一度は訪れてよいところではないかと思います。

 

相続対策セミナーで「中高年のアイドル」を目指す弁護士?

明治安田生命さんのご依頼で、1月中~下旬に県内3箇所(盛岡、水沢、大船渡)にて「相続(争族)対策セミナー」を実施させていただくことになりました。

ここ最近、相続対策(納税や他の相続人への代償金の原資づくり)として、生命保険の活用が注目されており、そのような観点から、「保険が必要となる前提場面としての争族紛争などを知っていただく」という見地から、地元の町弁の私に白羽の矢を立てていただいたようです。

同社にあまり商売っ気がないのか大して期待されていないのか?ネット上では広告なさっていないようなので(営業の方々にお任せしているそうです)、テコ入れも兼ねて?今更ながら、末尾で予定などを告知することにしました。関心のある方は、同社盛岡支社をはじめ開催場所の営業所までお問い合せいただければ幸いです。

恥ずかしながら、私は大勢の方の前で話をするのは苦手なので、毎度ながらレジュメの棒読みのような講義になるかもしれませんが、奮ってご参加いただければ幸いです。

ところで、テーマの性質上、主に中高年の方がおいでになると思いますが、妻と会ったばかりの頃に「綾小路きみまろに似ている」と執拗に言われたことがあります。

そこで、いっそ、それをネタにして「オボマロ」などと称して仮装し「あれから40年、あの頃はあんなに小さかった我が子の手は、今や、相続はまだかまだかと崖の端まで伸びてきて・・」とか、「東京で暮らす子供からの電話は、オレオレに金を取られてないかという話ばかり」などと漫談してみたい誘惑に駆られないこともありません。

ただ、笑いを取るだけの力量はありませんし、講義では、過去に扱った紛争なども例に出して(もちろん守秘義務の範囲内で)、それなりに生々しい話もお伝えするかもしれませんので、ただでさえ似合わない毒舌トークなんぞ試みても、参加者の方に「帰れ!」と言われてしまいそうです。

それはさておき、こうした機会を生かして、レジュメを持ち帰るだけでなく、有益な話が記憶に残るよう、関心をもってテーマを拝聴いただけるような話芸を磨くことができればと思っています。

また、レジュメがA4版で25頁以上という「大作」になってしまったので、後日に今後の宣伝を兼ねて、項立ての中身についても少し投稿したいと思っています(自分で言うのも何ですが、このレジュメを貰いにいらっしゃるだけでも意義があるかもしれません)。

そのまま肉付けすれば、ちょっとした書籍が出来上がりそうなので、出版企画を持ちかけて下さる方がおられば大歓迎なのですが、泡と消える淡い期待で終わってしまいそうです(笑)。

【テーマないし項立て(予定)】

① 相続に直面するにあたって考えておくべきこと
② どのような場合に「争族」になりやすいのか
③  「争族」対策と、節税・納税策(生命保険)との関係
④  紛糾しやすい典型例と、個々の財産に関する一般的な取扱い
⑤ 生前の準備~遺言を中心に~
⑥ 相続の際に問題になりやすい幾つかの事柄と対処
⑦ 弁護士の上手な活用法

【日時・場所】

1月14日 13時半~15時 大船渡
1月19日 10時半~12時 水沢
1月28日 10時半~12時 盛岡

大人も楽しむワンピース世界とホンモノ志向のちぐはぐ感

年末に、妻の実家への帰省に伴い、妻の提案で、東京タワーで行われている漫画「ワンピース」のテーマパーク(東京ワンピースタワー)に行きました。

私自身は大学の頃に少年ジャンプは卒業しておりワンピースは全く見ていなかったのですが、1年ほど前、家族に見せようかと思ってアニメ(ドレスローザ編のSOP作戦決行直前)を録画して見ていたところ、ドフラミンゴの悪辣ぶりが妙に気になり、少年時代に起きた社会の最上層からの転落と矜持や怨念という人物像に逆説的な人間らしさを感じる部分もあって、以来、恥ずかしながら、番組を録画して毎週深夜に見ています。

もともと、同作が、ジャンプの黄金時代が過ぎ去った後、「努力、友情、勝利」という旗印を背負ってきた作品だという話は聞いており、だからこそ、(のめり込まないよう)意識的に避けていたのですが、世界観の壮大さや個々の人物造詣の緻密さ、現実社会にも通じる論点を取り上げて閉塞感を吹き飛ばす爽快さなど、売れるのもよく分かるというか、大人も相応に楽しめる作品だと感心する面は強いです。

また、弁護士の仕事も、「本人の努力、依頼主との友情(共同作業と信頼関係)、事件での勝利」が求められるという点で、ジャンプの価値観そのものと言えなくもない性質があり、次から次へと敵(対処すべき仕事と厄介な論点ないし当事者)と相対しなければならないという点でも、ともすると、子供時代以上にジャンプ作品の当事者にシンパシーを感じてしまう部分はあります

そんな訳で、そこそこ事前知識のある中で「タワー」に行ってみると、大人の鑑賞に耐えうるホンモノ志向が強く表れているものもあれば、そうでないものもあって、ある意味、ちぐはぐ感が否めないところはありました。

良いと感じた点は何と言っても「ライブショー」で、麦わらの一味が、ある洞窟内で得体の知れない何かと闘うという設定になっているのですが、演じる役者さんの格好や人相などはもちろん、踊りの際の様々な仕草や手足の動かし方が、本物を彷彿とさせる面が多く、司会役の女性のアドリブの巧妙さなども含め、ショービジネスに本格的に携わっている方々が作り込んでいるのだろうと強く感じました。

折角ということで、メインである「麦わらの一味のショー」のほか、「ボン・クレーのニューカマーショー」も見てきたのですが、本物と見紛うほどの御仁が登場し、大人も子供も楽しませる工夫が随所に見られる一方で、その種のショー(いわゆる夜?の大人向けのもの)にありがちな痛々しさ(尊厳が損なわれている印象)はなく、そうしたことも含めて感心しました。

参加者も大いに盛り上がっており、例えば、前者のショーでは、多くの若い?女性から「サンジー!」などと黄色い声が盛んに飛び交っていました。

他方、昼食はビュッフェ形式の「サンジのレストラン」を利用したのですが、様々なメニューに作品の登場人物の名前などが付けられているものの、食事自体は値段相応の「テーマパークのありふれたバイキングそのもの」といった感じで、少なくとも大人の「ワンピースファン」が満足できるほどのものではありませんでした。

あまりマイナスなことを書くのは差し控えたいのですが、例えば、普通のポタージュやミネストローネを、いくら黄色や赤色だからといって、「黄猿の~」「赤犬の~」などと命名するのは、かえって興醒めというか、こじつけ感が丸出し過ぎて本物への冒涜ではと思わないでもありません。

せっかく、サンジが作品中は著名なレストランの大物シェフの片腕を務めていたという設定があるのですから、上記のような「子供(ご家族)向け」のバイキングとは別に、作品で出てくるレストラン(バラティエ)を模すなどした本格的な料理を提供する店舗も考えて良いのではと思いました。

とりわけ、上記の「黄色い声を上げている女性陣」は、恐らくはディズニーにも湯水の如くお金を使うような購買力が高い(その種のものに出費を厭わない)層なのでしょうし、いっそ、ショーに対抗して、サンジに似た風貌の人を集めて髪もカツラ等で対応し質の高い料理をテーブルに給仕するサービスなども提供すれば、一人あたり単価で数千円以上の値段でも世界中から殺到する層が十分いるのではと思われます(それこそ、ナミやロビンの格好をして入店したいという層すらいそうな気がします)。

さほど作品世界を知っているわけでないので、作品中で、その「高級レストラン」に相応しいメニューが取り上げられているのか知らないのですが、そうであるなら、いっそ、名だたる若手シェフ(それこそ、作品のファンのような方々)に作品世界をイメージしたメニュー開発を依頼して、東京タワーの近くの本物のレストランに協力依頼して特別メニューを出すといった試みもあってよいのではと思いました。デザートも、相応のパティシエに依頼して、皿に作品の絵柄を表現するような一品を出せば、より好評を博するのではないでしょうか。

あと、物産店舗(ショップ)についても、ローの帽子とか海軍大将衣裳などと称するモノが売っていたのですが、これも、本物志向の強い人からすれば、買わないだろうなぁという印象は受けました。

決して安い帽子ではなかったのですが、その「(普通の)子ども向け商品」とは別に、その5倍から10倍かけて、高級ブランド店でも取り扱うようなものを敢えて加えた方が、「なりきりたい大人」には受けるのではと思いました。

ちょうど、ショーで前に座っていた女性が、エースの帽子とそっくりなものを被っており、てっきり売店で購入したのかと思ったのですが、それらしいものが見あたらなかったので、手作りなのか似たものを他で入手したのか、単なる私の勘違いかは分かりませんが、子供以上に大人(外国人を含む)の集客を多く見かけたこともあり、出費を惜しまない本物志向のニーズは相応にあるのではと感じました。

ワンピース自体は、ディズニーに負けない強力なコンテンツとして世界で勝負できるように思われるだけに、本物志向でレベルの高いショーと、それと反対方向の印象が否めないレストランやショップの落差のようなものを感じ、後者のグレードを軽視しない(ように見える)ディズニーに見習った方がよいのでは?(それこそが「花の都・大東京」の役割と責任なのでは?)というのが、とりあえずの感想といったところです。

アニメの方は、ようやくルフィーとドフラミンゴの対決が決着するところまで来ましたが、ワンピースの世界の様々な問題や矛盾に伴う負の部分を一手に引き受けて「暴力による非人道的な解決の万能性」を主張する存在であるドフラミンゴを見ていると、現実世界の「イスラム国(IS)」などに重なる面が大きいように思われます。

それだけに、混沌をもたらした世界の矛盾の象徴というべき西欧列強による爆撃などでは本当の解決が実現するはずもなく、非人道性の核にある矛盾を根元から洗い流すような営みが広まって欲しいですし、そのことに貢献することこそが、中東などに迷惑をかけた過去がなく、他方で圧倒的な強者達に挑んだ経歴がある「地味でイケてないルフィー」というべき日本の役割として、求められているのだろうと思います。

平成28年の年頭のご挨拶

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

昨年末は28日で通常営業を終了し、4日まで年末年始休業となります。個人的には、溜まった日経新聞の閲読や判例雑誌の学習(DB作り)、事務所の書類整理に充てたいところですが、今回も家族の実家への帰省などであっという間に過ぎていきました。

昨年は、ここ数年の潮流である弁護士業界の大増員や高金利問題の終焉に伴う倒産・債務整理分野の需要減などの影響が本格化し、当事務所も厳しい荒波に揉まれました。

幸い、昨年も、家事(離婚や相続など親族間の紛争や広義の家族又は親族関係の法律問題)や交通事故をはじめとする賠償請求の分野を中心に、他の分野も含め多くのご依頼をいただき、現在も相応に忙しくさせていただいておりますが、事案の性質や依頼主のご予算などから利益率の低い仕事や不採算のものも多く、事務所経営者としては難しい判断を迫られる日々が続いているというのが率直な実情です。

弁護士業界を巡って生じたここ10年の時代の激変の中で、当事務所ないし私のあり方についても色々と考えていかなければならない点は生じていますが、時代の激変というマクロ視点と「一人一人の速度が異なる(特に、岩手は周回遅れと最先端の双方が混在している)」という幅広いミクロ視点の双方を見据えつつ、「地域社会やこの地を愛する人々のため、今、何が法律実務家に求められているか、何ができるか、すべきか」を基本に、皆様に必要とされ、ご期待に応えることができる事務所を今後も目指して、地道に努力し続けたいと思います。

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15年目の弁護士たちの悲喜こもごも

今年の夏に起きた「局部切断事件」は、先日、加害者(被告人)の公判で、犯行経緯に関する検察側の詳細な冒頭陳述が報道され、改めて脚光を浴びていますが、ネット上では、被害者、加害者及び関係者である女性について、様々な生々しい記事が飛び交っており、プライバシーなどの観点からは疑問に感じる面が無いわけではありません。

といいながら、こんな話を書いていいのか逡巡があるのですが、この事件の報道があった直後に、被害者が私と同期修習の方ではないかとの噂話を聞き、知り合いだったらどうしようと思って少し検索したところ、ネット上で名指しされている方(以下「A先生」といいます。イニシャルではありません)がおり、そのA先生に関しては、私と同じ頃に弁護士になり、しかも、年齢も私と同じ(同じ年に合格して弁護士になった)ということが書いてありました。

幸い?私自身はA先生とは面識がありませんが、ご経歴を見る限り、東大などではなく私=中央大と偏差値的には同程度の私大のご出身でありながら、非常に優れた先生が集まっていることで業界では高い評価を受けている(と思われる)事務所に就職され、その後も企業法務などを取り扱う弁護士として、絵に描いたような模範的なキャリアを積んでこられた方だということが分かりました。

中には、ご本人の「ぶっちゃけトーク」的なインタビュー記事が掲載されているサイトもありましたが、ご本人の才気もさることながら、業界人として凄まじい努力を積み重ねてこられたであろうことは間違いなく、それだけに、「隙」の部分も含め、世の中にはこんな恐ろしい落とし穴が存在するのだと感じざるを得ません。

と同時に、私も、曲がりなりにも運良く(何かの間違いで?)卒業2年目という当時の中央大生としては比較的早い時期に合格できた人間として、もし、岩手の弁護士になるという当初の方針を捨てて、東京で生きていく弁護士になっていれば、自分にできたかどうかはさておき、A先生のような道を目指したのだろうか、その場合、自分はどうなっていたのだろうか(やっぱり途中で脱落して鬱病→自殺などのパターンになったのか、突然変異を起こして「大企業や富豪向けのエリート弁護士」になってしまうこともありえたのか)などと、夢想してしまうところはあります。

事実、私が個人的に存じている「卒業2年目で合格した中央大出身の先輩方」は、そうした道で活躍されている方が非常に多く、それだけに自分の身の上を申し訳なく思っている面があることは確かです。

私の場合、東京の小さな事務所で4年半ご指導いただいた後、岩手で開業し、一時は、いわゆる弁護士過疎と債務整理特需の影響で、朝から朝まで仕事する家庭崩壊リスクを抱えた生活と引き換えに分不相応な収入をいただいた年もありましたが、現在は、弁護士大増員と高金利問題の終焉などに伴う町弁業界の零落も相俟って、運転資金に負われつつ細々とやりくりする日々になっています(兼業主夫業のせいか少額の割に作業量が多い案件が増えているせいか、労働時間だけは昔と大差ないのが悲しいですが)。

曲がりなりにも40年以上も生きていると、様々な紆余曲折もなかったわけではありませんが、今のところ、A先生?のような事態には至っていません。

以前も、地方の有力な弁護士の方のご家庭で生じたとされる信じがたい事件について、少し書かせていただいたことがありますが、今も、どうして天があのタイミングで私をこの業界に連れてきてくれたのか、その理由と責任について考えながら、キャリアだけは15年を過ぎた「しがない田舎の町弁」として、地域社会のためできること、すべきことを探していきたいと思っています。

ところで、上記のような特異なニュースばかりでなく、最近では、同期の方が様々な立場で第一線の法律家として活躍されているとの報道などに接することも増えてきました。

例えば、先日、大きな話題になった、長期間逃亡していたオウム真理教の元信者の方に関する無罪判決で主任弁護人を勤めておられる先生は、研修所で同じクラスだった方で、当時からクラス内でリーダーシップを発揮されており、刑事事件に強い関心を持って取り組んでおられる様子があったと記憶しています。

私が所属していたクラスだけでも、同業のかたわら小説家としても活躍されている方、国際派のマラソンランナーとして世界融和に貢献されている方、司法研修所の教官をなさっている方や日弁連の中枢で活躍されている方など、当時からしかるべき時期に大きな舞台に出てくるのだろうと思っていた方々が、予想通りないしそれ以上の活躍をなさっている光景を拝見する機会が増えてきており、それだけでも早めに合格できた甲斐があったと思わないでもありません。

正直なところ、今の自分が何を目指して努力すべきか、抽象的な目標(地域云々)はさておき、「司法試験合格」とか「事務所開業」のような、即物的?で分かりやすい目標のようなものが見あたらず、いささか自分(のありかた)を見失っているような面もあり、しばらくは、同世代・同期の方々などのご活躍に学びながら、新たな暗中模索の日々という感じがしています。

余談ながら、冒頭の事件については、身体の他の部位と比べて「被害者の性を壊す犯罪」というべき面があり、その意味では(また、性が人格的実存と直結しているという点でも)、強姦罪などと似たような面があるのではと思います。

もちろん、この件では被害者の落ち度が相当にあるのではとの議論はあるでしょうが、加害者側の心情なども含め、人間(個人)の尊厳に直結するものとしての性という厄介なものとの関わり方、ひいては「裁きのあり方」について、良質な思索と議論が深まればと思っています。

ラーメンのトッピングには依頼主の笑顔と事件解決を添えて。

昨日は大船渡(法テラス気仙)でしたが、今日は仕事で由利本荘に行きました。色々な難しさを抱えた離婚訴訟の期日でしたが、本日、依頼主が納得できる相当な内容での和解が成立して終了しました。

この件では、今年の3月まで在籍していた辻弁護士が、子の引渡というハードルの高い論点に挑んで、多大な奮闘の末に大きな成果を成し遂げた後、残務処理を私が引き継いだのですが、決裂か和解かの瀬戸際が相当あり、どうにか解決に至ったという案件でした。

11時半に開始した和解協議が2時半過ぎにようやく成立したのですが、裁判所の近くに、3時まで営業している、本荘を代表する?ラーメン店の一つと思われるお店があり、ギリギリセーフということで、大変美味しくいただきました(残念ながら、12月下旬に閉店となるそうです)。

ちなみに、第1希望だった本荘ナンバーワンとされる有名店は、2時半までの営業時間なので泣く泣く諦めました。依頼主はこの話を聞いて苦笑していましたが、裁判官にも和解成立時に同じ話をしたところ、軽口トークに慣れておられないのか、きょとんとしていました。

事案の中身は申せませんが、当方依頼主は、紛争を通じて2年ほど様々な艱難辛苦を余儀なくされており、最初にお会いした頃と比べて、とても強く、逞しくなられたと感じます。

この種の紛争は、弁護士にとっては不採算になることが通例で、この件も時間給ベースなどで見ると経済的には泣きそうな面はありますが、純然たるビジネス上の紛争などでは学びにくい、人間の業や人として生きることの深さを否応なく考えされられることが多いことは確かです。

ロータリーの標語に「最もよく奉仕する者、最も多く報いられる」というものがありますが、この事件も、その言葉を事実の重みをもって考えさせられるものがありました。

業界には「弁護士報酬と書いて、いしゃりょうと読む」という有名な言葉があり、この事件でも、私や辻先生に限らず担当事務局を含め今日までに色々と苦心惨憺がありましたが、今後もこうした事件を手掛けることができるだけの売上をいただけるよう、めげずに頑張っていきたいと思います。

最後に、締めの一句ということで。

その果てに 味わいを知る 和解麺

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当事者として申し立てる、はじめての原発ADR

先般、当方が破産管財人をお引き受けしている企業さんについて、福島原発事故に基づく被害があるものの賠償問題が未解決ということで、一旦は東電に請求したものの芳しい対応が得られなかったので、現在、原発ADR(損害賠償紛争解決センター)の申立を準備している案件があります。

単なる賠償に止まらない色々な論点がある一方で、会社のご担当がご年配とか他の問題でそれどころでなかった等の事情で、当方の関与時まであまり話を進めることができないまま今年に至ったようです。

平成25年春頃、岩手県の企業も風評被害の賠償請求ができるという第三次追補が出されたことや弁護士会の公害環境委員会が相談窓口を仰せつかったことをきっかけに、当時、県内の事業者の方などから多くのご相談をいただいたのですが、ADR等の手続を私に依頼したいという方には残念ながらお会いする機会がなく、その後は、岩手でも被害対策弁護団が立ち上がり、運営を他の先生方にお任せしたことなどもあって、原発被害問題からはすっかり遠ざかってしまいました(この点は、今年の1月に書いた別の投稿もご覧いただければ幸いです)。

そのため、福島からの避難者の方なども含め、この手続にご縁がない状態が続いていたのですが、まさかこんな形で原発賠償問題にご縁ができ、当時収集した資料に出番がくるとはということで、不思議に思っています。

さきほど、センターの和解解決例を久々に見たところ、当時ご相談を受けた会社さんが申立人と思われる事案を見つけ(ご相談の内容に特徴があり、すぐ分かりました)、ご相談の際に仰っていた希望も採用されたという趣旨の解説が付されていました。

その件の注釈を見ると弁護士費用の計上がされていないので、恐らく(私がイヤで他の先生に頼んだという類ではなく)ご担当の方が自ら作成して申立をなさったのだと思いますし、お会いした際のご担当の方の事務処理能力が高かったことも覚えていますので、その件ではそれがベストの対応だったのだと思います。

ただ、企業さんによっては、自ら申立書を作成するのが困難であるとか、作成はしたものの内容について確認を受けた方が望ましいという例もあるでしょうから、そうした方々は、適宜、原発被害向けの無料相談制度などをご利用いただければと思います(個人も企業も利用可能です)。

さすがに事故(震災)から4年以上を過ぎて、少なくとも「風評」に関しては通常であれば新たな被害は考えにくそうですし、私自身、ご縁がないまま終わると思っていた矢先に、こうした事案の配点を受けて驚いているというのが正直なところですが、冒頭の会社さんのように、何らかの事情で先送りの状態が続いている方もおられるかもしれませんので、そうした方には、上記の制度などをお伝えいただければ幸いです。

その事件は、損害賠償以外にも岩手でその問題に詳しいのは私を含めごく少数という特別な論点(詳細は差し控えますが、地域や公の利害にも関わります)が潜んでいる事案ということもあり、久々に「呼ばれた」という感覚を禁じ得ませんでしたが、ADRを成功させないと先に進むこともできませんので、まずは優しい仲介委員や調査官の方に配点していただけるよう、精一杯お祈りしようと思います。

平成10年頃の盛岡修習の様子と思い出

半年ほど前の話で恐縮ですが、岩手弁護士会の広報にエッセイを投稿せよとのことで、以下の文章を寄稿しました。勝手ながら、本ブログにも転載させていただきます。

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1 はじめに

先般、K先生よりエッセイを投稿せよとのご指示を受けました。内容は自由とのことですが、私の場合、共働きなどの事情から本業と兼業主夫業に追われて会務等にほとんど参加しておらず、若い先生方には「あなた誰?」と思われているでしょうから、自己紹介的な文章を書かせていただくことにしました。

ただ、単なる自己紹介ではつまらないでしょうから、私が盛岡で修習生をしていた平成10年頃の様子を題材にすることにします。私は修習生のお世話を仰せつかることがなく、現在の修習制度や修習生活の実情などを伺う機会がありませんが、当時と今では大きな違いがあるでしょうし、不快に感じる面もあるかもしれませが、法曹養成制度のあり方なども視野に入れて?お気軽に読んでいただければ幸いです。

2 実務修習開始まで

私は二年修習制の最後の年である52期の修習生でしたが、当時は7月中旬に前期修習を終え、下旬に実務修習が始まりました。私は二戸市の出身ですが県外の高校に進学したこともあり、修習先は盛岡を第1志望としましたが、そのような変わり種は私だけで、書いていないのに配属されたと嘆いていた地元出身の方もいました。

この年の盛岡配属は4名で、2名が現役、2名が卒業2年合格(男性3名、女性1名)となっており、出身大学も、私が中央で他の3名が東大、早稲田、慶応という綺麗?な組合せで、各人のキャラも、「地味で地道」の私をはじめ、各大学のカラーを体現しているような印象を受けました。

3 検察修習

盛岡に限らず当時の小規模庁は検察修習から始まりました。地裁での開始式のあと、地検に移動するのかと思いきや、反対側の岩手医大に引率され、いきなり遺体解剖に立ち会うことになりました。さすがに、その晩の歓迎会では刺身を見ながら複雑な思いを禁じ得ませんでしたが。

4人だけの修習生が4ヶ月間も地検のお世話になるため、修習生向けとも言える一般的な窃盗、傷害、覚せい剤自己使用の類だけでなく、殺人や嘱託殺人、金融機関での業務上横領など、重大ないし複雑な事案が個々の修習生に配点され、取り調べ等をさせていただく機会がありました。

また、三席検事が手掛けていた元大物県議による特別背任事件の強制捜査を盛岡地検総出で行うことになり、我々も現地に同行して差押物件の確保や整理などに従事したことも、強い印象に残りました。

この頃は修習生4人だけで行動することが多く、私の実家に全員が泊まりに来て、翌日に一緒に北山崎をはじめ沿岸の名所を廻って盛岡に戻ったことなど、楽しい思い出も沢山あります。指導検事(四席)の方も、厳しくも面倒見のよい親分肌の方で、公私とも大変お世話になりました。

4 弁護修習

私はI先生のご指導を受け、訴状など幾つかの起案を担当させていただきました。修習生の指導担当であるK先生、O先生にも、様々な行事や他の先生方からの講義の引率等をはじめ、大変お世話になりました。

ただ、12月から3月というスキーシーズンと重なる上、とりわけ弁護修習は勉強よりも見聞・体験することが重視されたせいか?全員が週末はスキー三昧の日々で、K先生や若手の検事の方々に大変お世話になりました。

一度、私がI先生の事務所で朝方まで境界絡みの訴訟の控訴趣意書を起案して帰宅した後、徹夜明けで皆と一緒に安比に行ったのですが、帰りの温泉で気を失って倒れ、ご一緒した三席に盛楼閣で焼肉を奢っていただく話がフイになってしまったことがあり、今も申し訳なく思っています。

余談ながら、三席は検察庁の飲み会で、「クリントンをはじめ弁護士が国を牽引している米国に見習い、君達が政治の世界に打って出て、法の理念に基づく正しい社会が形成されるよう頑張るべきだ」と仰っていたのですが、予想通りというか、我々ではなくご自身が霞ヶ関を「脱藩」して、政治の道で活躍されています(岡山2区選出の山下貴司議員です)。

また、クリスマスの際、まだ弁護士登録されて間もないS先生から「お一人さま」の面々(4人全員だったかは忘れました)に声をかけていただき、ご自宅でご馳走になったこと(大葉を刻んだ豆腐のサラダが強く印象に残り、その後も自分で作って食べていました)なども懐かしい思い出です。

5 民事裁判修習

裁判修習は、民裁と刑裁で二人ずつに分かれ、2ヶ月交替で1人の裁判官(部長と単独専門の判事)のご指導のもと、起案などに明け暮れます。

さすがに、民裁修習ではそれなりに勉強漬けの日々でしたが、ご夫婦で判事をされていたOさん(ご主人)が、「小保内君は、この点の勉強が足りないね」と仰ると、間髪入れずに「これを読んでみて」と、裁判官室の本棚から本を5冊以上取り出して山積みにされることが何度もありました。

しかも、申し合わせたように?家裁にいらした奥様(判事)にも、「小保内君の顔は、いつ見ても勉強してなさそうに見える」と言われ、トホホと思いながらも、勉強モードに頭を切り換えないと大変なことになると恐怖し悪戦苦闘していたのをよく覚えています。

おかげさまで、弁護士登録以来、今も、法律論で勉強不足と感じたときは、文献等を山積みにして色々と読みながら起案する習慣が染みついています。

この頃、K先生のご結婚と独立開業が重なり、結婚式の二次会や新事務所での開業パーティに呼んでいただいたことも、懐かしい思い出です。

6 刑事裁判修習

恥ずかしながら、私は諸事情(一応、不祥事の類ではありません)によりこの時期に急遽、東京で就職活動を開始することになりました。幸い、一度お会いしただけで内定をいただける先生もおられましたので、2度ほどの上京で就職先を確定できたのですが、その間は全くと言ってよいほど修習に身が入らず、折角、無罪判決を予定している事件の起案を勧めていただいたものの、起案できず簡易なレポートの提出で終わってしまったことが、今も悔やまれます。

5年以上前にお会いした修習生の方から、当時すでに、地方に配属された修習生の多くが何度も上京を余儀なくされ、重い負担を強いられているとの話を伺ったことがありますが、就職活動と修習の両立を修習生に強いるのは無理があり、修習開始までに就職先を内定させるなど、修習中は修習に専念できる文化が根付いて欲しいと思っています。

刑裁修習の最後に、現在と同様に修習生による模擬裁判がありましたが、当時は前後の期の修習生と一緒に行っており、1年目と2年目の2回、経験できました。

1年目で検察官を担当した際は、被害事実を法廷で否認した被害者証人の特信性立証(被告人の知人から金品を受け取った等の証言の引き出し)ができず、弁護人を担当した51期の方々に惨敗したものの、2年目で弁護人を担当した際は、被告人役を担当した53期のOさんの熱演もあり、無罪判決をいただくことができました。

被害者立会の実況見分調書に被害者の証言と相反する記載があり、法廷でその点を指摘したものの同期で検察官役のI君の剣幕に圧倒されるという一幕があったのですが、53期の裁判官役の方からその件を考慮したとのコメントをいただき、法廷は迫力だけで決まるものではないと感じたのを覚えています(ただ、監督役のK裁判官からは、どうして有罪じゃないのと言われて自信を無くしましたが)。

7 その他、最後に

私の誤解でなければ、当時と現在の修習制度の大きな違いとして、前後の期と交流できる機会ないし程度の有無が挙げられると思います。

当時は盛岡に一緒にいる期間が数ヶ月もありますので、私は51期の盛岡修習の方々から感銘を受ける機会が多々ありましたし、53期の方からも、(私はさておき)52期の面々から良い影響を受けたという話を頂戴したことがあります。現在の仕組みを把握できていませんが、修習生が前後の期の方々と継続的に交流できる機会は、必ず設けていただきたいものです。

当時は、「弁護士になった後は、どうせ仕事漬けの毎日になるのだから、今のうちに遊んでおくように」と言われ、私自身、己の至らなさもあって概ねそのような日々を送ってきました。

それだけに、長期休暇など、ここでは省略した他の出来事も含め、修習生の頃の様々な思い出が、その後の自分の支えになった面も大きいと感じています。

現在の方々は、修習開始前に多少ともそうした機会を持つことができるのだろうとは思いますし、修習直後の弁護士の眼前に広がる世界自体が、当時と今とでは様変わりしていますが、実務修習が法曹養成の根幹である(べき)ことは微塵も変わりないと思います。

指導等に携わっておられる諸先生方におかれても、盛岡配属の全ての修習生が岩手に来て良かったと思って法曹人生をスタートできるよう、OBの一人としてご尽力をお願い申し上げる次第です。

企業の再建と倒産の狭間に揺れる「いのち」達と弁護士

前回に引き続き、旧ブログで中小企業家同友会の行事に参加した際の感想等を述べたものについて、あと1回、再掲することにしました。

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平成24年11月8日に、企業再建で有名な村松謙一弁護士の講演会が岩手県中小企業家同友会の主催で行われ、参加してきました。

田舎の町弁をしていると、企業の破産については申立代理人であれ破産管財人であれ、大小様々な案件を取り扱っていますが、企業の民事再生については様々なハードルのためか申し立てられる件数が少なく、私の場合、何年も前に申立代理人と監督委員を各1度だけ経験できたのみで、なかなかご縁がない状態が続いています。

まして、法的手段(民事再生)に依らざる企業再生、なかんずく金融機関等への救済融資などを求める交渉は、田舎の弁護士には滅多にご相談を受ける機会がなく、必然的にノウハウを培う機会にも恵まれません。

そこで、そうした論点に関する実務上の工夫などを少しでも伺うことができればと淡い期待を抱いて参加したのですが、NHKで既に2回くらい見ていた「プロフェッショナル」の番組が講演中にノーカット?で放映された上、番組で取り上げられていた企業の方に関するエピソードや倒産・再建実務を巡る理念的なお話が中心で、残念ながら、そうしたノウハウ的なことは取り上げられなかったように思われます。

まあ、弁護士向けの講義ではなく中小企業の経営者の方々向けの講演でしたので、どうしても理念的、総論的な話が中心となるのは致し方ないことなのかもしれませんが。

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それはさておき、村松先生が、企業倒産を巡る現場では、経営者が自死に身を委ねてしまう場面が非常に多いことを、ご自身の経験をもとに具体的に語られ、それだけは絶対にいけないのだと強調されていたことが、講演では最も印象に残りました。

私も、事件当事者のご家族にそうしたご不幸があったというお話を伺ったことが何度かありましたので、そのことを思い返してみましたが、私の場合、これまで実際にお話を伺ったのが3回で、いずれも従業員10~20名前後の小規模な企業の倒産が関わっている事件でした。

1件は、破産管財人を務めた県内の企業で、資金繰りに苦しむ状況の中で、高齢の社長の後継者で実務を担当していた息子さん(常務)が自死し、生命保険金の大半を運転資金に用いたものの、すぐに行き詰まり破産申立に至った事件。

1件は、同様に破産管財人を務めた県内の企業で、同様の状況下で熟年の社長さんが自死し、同じような経過で破産申立に至った事件。

1件は、申立代理人を務めた県内の企業で、数年前に創業者である社長(お父さん)が自死し、その際の生命保険金などで資金繰りを凌いできたものの、万策尽きて破産申立に至った事件。

私は平成12年から弁護士をしていますが、過労自殺など自死が関わる他の類型のご依頼を受けた経験がないこともあり、携わった事件に関連して当事者の方に自死があったというのは、この3件だけではないかと記憶しています。

その経験だけで一般化することはできませんが、企業経営に携わっている方々が、自死という問題に晒されるストレスやリスクを少なからず背負っていることは、もっと知られてよいことではないかと思います。

また、自死ではありませんが、「創業者(父)が亡くなった後、経営を引き継いだ兄が、資金繰りに困って、精神障害者(成年被後見人)である弟の預金(数千万円)を横領して運転資金に宛てたため摘発された事件」を扱ったこともあります。その事件では、横領したお金で取引先や従業員への支払を完済したそうですが、兄はあまりにも大きい代償(1審実刑判決)を払うことになりました。

敢えて尋ねませんでしたが、倒産を余儀なくされた場合でも、少なくとも労働者の賃金については8割相当の立替払制度がありますので、もし、その制度の利用で最低限の納得が関係者から得られるのであれば、倒産処理の途を選んでいただくべきではなかったかと悔やまれます。

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企業の経営者は、様々な責任感に押し潰されそうになる思いを余儀なくされることが多々あると思いますが、ご家族などを悲しませる行動にだけは及ぶことのないよう、孤独の淵に沈むことなく賢明に対処していただきたいと思わずにはいられません。

経営者にとって企業はご自身の子供のようなものだというお気持ちは、私も零細企業の経営者の端くれとして多少とも存じているつもりですが、そうであればこそ、「お子さん」が自らの力で生き続けることができないほど症状が悪化した場合には、終末期医療や葬儀を担当する弁護士という存在を適切にご活用いただき、最後を看取っていただくべきと考えます。

少なくとも、ご自身を投げ打ち「お子さん」の命を救おうとしても、残念ながら無理心中にしかならない可能性が高いという現実は、ご理解いただく必要はあると思います。

もちろん、投薬や手術で治療が可能な場合には、そうした面でも、弁護士を活用いただくと共に、再建関連法制の様々な使い勝手の悪い部分の改善にご協力いただければと思っています。

余談ながら、先日、士業向けに「中小企業経営力強化支援法に基づく経営革新等支援機関認定制度」が導入され、私は、(当時は)岩手県で認定を受けた恐らく唯一の弁護士ということになっています(といっても、興味を抱いて申請を出したのが私だけだったという程度の話で、特別の選抜をされたなどという類の話ではありません)。

どれだけ意味があるかよく分かりませんが、そうしたものも活かした形でお役に立てればと思います。

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ところで、上記の3つの自死事件は、いずれも死亡後に会社に生命保険金が支払われているようです。

10年以上前に、会社が従業員を被保険者として生命保険を契約し従業員が不慮の死を遂げた際に高額な保険金を受領することが社会問題視されたことがあったと記憶していますが、会社役員について同様の事態が生じた場合の当否については、議論があるのか存じません。

思いつきレベルで恐縮ですが、役員を被保険者、会社を受取人とする生命保険は上記のような弊害が大きいので、原則的には禁止すべきではないかとも思われます。

少なくとも、自死の場合でも保険金を受領できる契約にあっては、ご家族のみを受取人とするなど、弊害防止のための措置が講じられるべきではないかと思いますが、現在の保険実務はどのようになっているのか、ご存知の方はご教示いただければ幸いです。

中小企業家同友会と起業家精神

前回のブログで中小企業家同友会について触れた関係で、3年半前(平成24年2月)に旧HPの日記に掲載した文章(はじめて同友会について記載したもの)を微修正して再掲しました。

ただ、当時と今とでは同友会の雰囲気も大きく変わり、私よりも若い方が増えて飲み会なども多くなり、当時とは逆の意味で、私のようなタイプの人間にはハードルが高くなったような感もあるため、何とかしなければと焦っているのが正直なところです。

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平成23年11月から、仕事上のお付き合いのある方の勧めで、岩手県中小企業家同友会に加入しています。中小企業家同友会とは、中小・零細企業の経営者や管理職の方が参加し、地域経済の実情や企業経営の理念などを互いに学びつつ交流や相互支援を図る目的で全国組織された団体だそうで、詳しくは同会のサイトなどを見ていただければと思います。

私の場合、盛岡JCで幽霊会員同然の状態が続いているため、新たな団体に加入することには心苦しい面があり、入会に躊躇する面はありました。が、ここ数年、私の原点であり最もこだわりのある分野の1つである、地域の中小企業のお役に立てる仕事をもっと受任できる機会を持ちたいと思いながらも、十分にその機会を得ることができない状態が続きましたので、新しい学びと出会いの機会を求めて、JCの卒業を待たずに、思い切って参加することにしました。

同友会にはJC会員の親・先輩世代が多く、若輩者の私には敷居が高い面がありますが、経営者が集まって経営に関する講義を聴き、学習した内容に関し討議することが活動のメインとなっており、特別企画などに参加する方を別とすれば、大きな時間的拘束はないように見受けられます。

また、「何はともあれ宴会」という雰囲気はなく、様々な世代の会員の方が、熱心に講義を拝聴している非常に真面目な団体さんのようですので、その点でも、私の気質には合っているように感じています(居眠り王の私が言えるセリフではありませんが…)。

反面、JCのような「会員同士が頻繁に集まって互いに知恵と汗と時間を費やしイベントを創り上げる」という団体ではないようで、過去の積み重ね(会員の方とのお付き合い)のない私のような「よそ者」にはかえって敷居が高いようにも感じており、その点は今後の課題かと思います。

昨日は、「復興特別講座」と銘打って、中小企業経営等がご専門の大学教授の方が、中小企業を巡る震災前後の日本経済の概況やそれを踏まえた被災県の中小企業の経営のあり方などを熱弁を振るって講義されていました。

また、今日は、新会員向けのオリエンテーションがあり、熱心に活動しているベテラン会員さんが複数お越しになり、同友会の講義や活動などを通じて自社の経営理念や従業員とのコミュニケーションのあり方などを大きく改善させることができたという話を熱心に語っておられました。

さすがに、私の業務や当事務所の経営に上記の講義や体験談の内容を単純に当てはめるのは難しいでしょうが、激動期を迎えた弁護士業界にあって、社会から求められる業務・経営革新のヒントになるものはあったように思います。

諸般の制約から参加できる機会は限られてしまうかもしれませんが、零細事務所を経営し顧客(社会)と職員に責任を負っている田舎の町弁に必要な起業家精神を涵養する場として活かしていければと思っています。