北奥法律事務所

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すべては、「あなたに会えて良かった」のために。

数年前から弁護士紹介サイト「弁護士ドットコム」に登録しています。1、2年前は同サイトをご覧になった方からのご相談のご依頼を時折いただいていたのですが、ここ最近は、残念ながら同サイト経由でご相談のお申し出を受けることがほとんど無くなっています。

先日、1、2年前からネットでも強力に広告展開されている某先生にお話を伺ったところ、HP経由の相談依頼が毎日のように寄せられていると仰っており、或いは、「HP経由で盛岡の弁護士にアクセスする方」は、悉く某先生の方に相談なさっているのかもと、悲しくならないこともありません。

さりとて、岩手での開業以来、様々な形でお世話になっている某先生に愚痴を申すわけにもいかず、自分の至らなさゆえと腹を括り、地道に研鑽を続けるほかありません。

というわけで、せめてもの悪足掻きということで、弁護士ドットコムのプロフィール欄を大幅に加筆しましたが、万一、同サイトが閉鎖等された場合のデータの予備も兼ねて、こちらにも転載することにしました。

キャッチコピーは思いつきですが、某ビールの宣伝文句に似ていないこともありません。その点はご愛嬌というか、ご容赦下さい。

余談ながら、ここで用いた言葉は、平成15年頃に妻と出逢った際、自己紹介がわりに用いた言葉で、当時、ある重い事件が終局した際、依頼主の方から頂戴した言葉です。ただ、妻は、その時点では、ナンパ目的のニセ弁護士だと思っていたなどと述べていました(笑)。

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例えば、ふさぎ込んだ相談者の方に、論点を整理して解決の道筋をご説明したとき。大きな問題が生じた困難な事件で、依頼主と共に全力を尽くし、艱難辛苦を乗り越えて有意義な解決を掴んだり、ご本人が人生の新しい道筋を切り拓いたとき。

そんなとき「あなたに会えて良かった」と心からの笑顔で仰っていただいたことが、何度もありました。

私は、田舎の小さな商家の次男として生まれ、幼少時に大病を患い運動能力を著しく欠いた状態で少年期を過ごしたせいか、家でも学校でも、「要らない子、皆にとって扱いに困る子」という思いを抱えながら育った一面があります。

時を経て弁護士になり、東京時代は終電に向かって走る日々を、岩手での開業後も朝から朝まで働く日々を過ごしてきたのも、詰まるところ、皆さんと社会に求められ役立っているとの実感を、私自身の救いとして必要としてきたからなのだと思います。

平成12年の弁護士登録以来、約15年にわたり、ご家庭の問題から事故の賠償、各種生活トラブルや企業取引、経営上の紛争、債務関係など、幅広い分野を取り扱ってきました。

今も、お客さまの「会えて良かった」のため納得できる最善の解決を目指して、そして、願わくばその積み重ねの末に、ふるさとの礎となることができるよう、全力で闘っています。

「あれこれ言わずともオーラと権威で相手を圧倒し、要求を呑ませることができる大物弁護士」を希望する方は、私に依頼なさるべきではありません。数十年たっても、どんなに努力を重ねても、私は、そのような「偉い人」にはなれないのだと思っています。

反面、理不尽に見舞われ時に傷つきながらも、正しい解決を目指して立ち上がり、二人三脚で共に闘う弁護士を必要とする方には、私にもお役に立てることがあるはずです。

これからも、そんな方々の力になれるよう、何より、選んでいただけるよう、研鑽を重ねて参ります。

取扱業務や実績に関する詳細は、事務所HPをご覧下さい。

また、平成23年に当サイト(弁護士ドットコム)が運営されている「弁護士列伝」にインタビュー記事が掲載されていますので、ご覧いただければ幸いです。

税金の不正使用の予防等に関する弁護士の活用と民主政治

会計検査院が岩手県庁と県内8市町に対し、平成20年から25年にかけて国の補助金で行われた緊急雇用創出事業に法律違反があったとして、約5700万円を国に返還すべきという趣旨の報告をしたとの報道がありました。

主に問題とされたのは、山田町を舞台とする「大雪りばぁねっと」事件と被災県などでコールセンター事業を展開したDIOジャパンの倒産事件の2件で、いずれも県内でも大きく報道されてきた事案です。報道によれば、前者が1300万円強、後者が4300万円強とされています。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20151107_3
http://news.ibc.co.jp/item_25716.html

恐らく、その全額又はかなりの部分について、県や関係市町は国に返還=支払をするのでしょうし、両事件とも事件当事者からの回収については悲観的な見方をせざるを得ないのでしょうから、それらの返還金については、県などが自ら支出した補助金と共に、県民に負担が重くのしかかることになります。

ところで、以前も少し触れましたが、私は大雪事件の関係者(岡田栄悟氏ではありません。仮に「Aさん」といいます。)の方の刑事裁判に途中から国選弁護人として関わり、特殊やむを得ない事情で、大雪事件を巡りA氏が関係する多数の民事紛争の処理(要するに清算を巡る後始末)までも引き受けざるを得なくなり、今も、その対応に追われています。

本件では、大雪の破産管財人、山田町に加え、前代理人との間でも訴訟手続が必要となり、最近は多少は落ち着いてきましたが、去年の初夏から秋にかけての時期は、多数の関連事件のため膨大な労力を投入せざるを得ず、民事事件では相応のご負担をいただいたとはいえ、必要な作業のあまりの多さに「時間給ベースでは、当事務所の開業以来最悪の巨額赤字事件」という有様で、泣きそうな思いで対応してきたというのが率直な実情です(峠は越したと思っていますが、まだ終わりが見えません)。

こう言っては何ですが、何人もの弁護士が登場する中、大雪事件の民事手続で現に関わっている「岩手の弁護士」は私一人ということもあり、会議とか抽象的な意見書の類や丸一日かけて誰も来ない被災地相談会に行くことよりも、こうした事件の適正解決に汗をかくことこそ地元弁護士の役割だという矜持のようなものだけで自分を支えているというのが正直なところです。

詳細は書けませんが、A氏のスタンスは、債権者への適切な配当のため管財人の管理換価に協力するのを基本としつつ、A氏自身が事件の処理や解決のため多額の自己資金の投入を余儀なくされたので、その回収を裁判所の理解を得た相当の範囲内で行いたいというものです(これは、裁判後の記者質問でも繰り返し説明しています)。

この点は裁判所も理解を示しており、「天王山」というべき訴訟では、これに沿った和解勧告もなされているのですが、管財人によれば、一部の債権者の反対があるとのことで、決着が進まない状態が続いています。

当方としては、少なくとも私が関与するようになってからは、それ以前とは一転して、動産の換価や某施設を巡る和解など管財人や山田町の作業が円滑に進むよう様々な形で協力しているだけに、残念に感じています(まだ書けませんが、やむを得ず、「窮鼠猫を噛むかのごとき、次の一手」を検討しています)。

ところで、何のためにこんなことを書いてきたかというと、Aさんは、この事件の中で大きな関わりをしたことと、本人に迂闊な面があったことは確かなのですが、自らの私利私欲を図ったわけではなく(現に、私が関わる以前から、「すっからかん」の状態でした)、詰まるところ、「巨額の税金が使用される事業に関わるには未熟すぎた(ので、留意すべき大事な場面で易きに流されてしまった)」という評価が、最も当てはまるのではないかと感じています。

また、岡田氏に関しても、さほど全体像を把握しているわけではありませんが、幾つかの不幸な偶然で、身の丈をあまりにも超えたカネ(税金)とヒト(部下)を与えられたため、結果的に身を滅ぼすことになったというべきで、少なくとも、初期の段階から「税金を食い物にして私利私欲を図ろう」との判断ではなかった(或いは、独りよがり云々の批判はさておき、本人の主観では、最後まで、一連の出費は彼の思い描いた「被災地支援事業」なるものを実現し継続させるためのものだったのかもしれない)という印象を受けています。

だからこそ、この件では、「使った側」の責任を問うだけでは全く不十分で、第三者の適正な監視、監督を欠いたまま、「公金を適正に使用する資格」を持っていない未熟な人々に高額な税金を渡し、使用させた(或いは、国を含め、その仕組みを作った)人々の責任が強く問われるべきであると共に、再発防止策に関し、事案の経過を踏まえた、より踏み込んだ手法の導入が図られるべきではないかと感じています。

そうした意味では、前者(責任追及)に関しては、住民訴訟が検討されてしかるべきではないかと思われ、そうした動きがないことが、とても残念です。一般論として、その種の住民訴訟は、いわゆる左派系の団体さんが行うことが通例と認識していますが、そうした方々に提訴のお考えがないのであれば、いっそ保守系勢力の方々がなさってはと思わないこともありません。

上記の観点から、地元行政だけを悪者にするのは間違いで、制度の構築等に関する国の責任も視野に入れるべきだと思いますし、その点で、十数年前に我が国を震撼させた大規模不法投棄事件における原状回復に関する国と自治体の費用負担などを巡る議論(とりわけ、私も関与した日弁連シンポの提言)は、参考になる点があるはずです。

また、後者(再発防止)に関しては、端的に、補助金の支給や費消に関して監視、監督する第三者(支給側である行政と受給側の事業者の双方から独立した立場で実務に携わる者)の関与を拡げる仕組みを作るべきだと思います。

具体的には、「一定以上の金額の税金(補助金)を受給して行う企業は、補助金交付の趣旨(その法律の趣旨)に即した支出をするだけの能力があるか、或いは、受給後に、その趣旨に合致する適正な使用等をしているか」について、例えば、弁護士や公認会計士、税理士などに、調査、報告等させる仕組みを作るべきではないかと感じています。

現在の社会では、弁護士の出番は、「第三者委員会」に見られるように、事後的なものばかりが中心となっていますが、食えない弁護士(公認会計士も?)が増えたとされる今こそ、薄給でいいのでそうした仕事をしたいとの供給サイドの要望はかなりあるのではと思われますし、日弁連なども、「行政は被災者に援助せよ」といった意見書も結構ですが、そのような仕組みの導入(と地元弁護士の働き口の創出)にも尽力していただきたいものです。

何より、そうしたものを導入させていくには、結局のところ、その必要性を理解し、人々に訴えていくだけの「政治=民主主義のチカラ」というものが育たなければ、どうしようもないのだと思っています。

民主主義(議会制民主政治)というものが、「公権力に税金を取られること」に対する自主権の獲得を発端として始まったことは、誰もが教科書で学ぶことではないかと思います。

しかし、「取られるかどうか」だけで使い道はどうでもよいというのが民主主義の社会でないことは、言うまでもありません。

「投票するときだけ主権者」という社会では、国民主権・民主政治とは言えないのと同様に、税金の使い道をより良くさせるための仕組みの構築や運用に人々が関わっていくことこそが、本当の民主主義の実現の道なのだということにより多くの方の共感が得られればと、願ってやみません。

と同時に、そうした営みに積極的にサポートすることが現代社会の弁護士の役割の一つになるべきだとの認識で、そうした場面に必要とされるよう、今回の件も僥倖なのだと感謝し、まずは地道な研鑽を重ねていきたいと思います。

相続と「争族」に関する事前準備

先日ある保険会社さんから相続に関するセミナーを担当してみないかとお声掛けいただき、まだ正式決定ではないものの、来年1~2月頃に県内の数カ所で行うことになりそうです。

まだ時間的余裕はあるものの、色々と考えたことをメモするなどして、それなりに準備を進めています。

そんな事情もあり、先日、相続絡みの本を2冊、立て続けに読みましたので、少しご紹介したいと思います。

以前、平成27年の相続税法改正(増税)に絡んで税務対策などを取り上げた本として、税理士の楢山直樹先生の著作をご紹介したことがありますが、以下の2冊は「法律上の紛争(「争族」に関する論点の具体例)」と「遺品」という、同書では取り上げていないテーマを一般の方むけに分かり易く説明した本ですので、楢山先生の本と併せてご覧になれば、なお良いのではと思います。
ここ1、2年に読んだ本③~様々な法分野・実務など~

あさひ法律事務所「90分で納得!ストーリーでわかる相続AtoZ」経法ビジネス選書(H27.2)

亡父の自宅を同居の子が相続した事例をベースに、トラブルメーカー役の叔父などの若干の登場人物を交えて、相続を巡って法律上問題となるベーシックな論点を、一般の方向けに分かり易く説明した一冊です。

論点として、相続人の範囲・特定、葬儀費用、相続分、相続財産の特定や遺産分割の要否、遺言の有効性、債務の相続、特別受益(生前贈与等)・寄与分などを取り上げ、登場人物を巡るストーリーを述べると共に、法律や裁判所の考え方について解説を加えています。

一般的な家庭の相続に関して生じうる法律上の論点などについて基本的な知識、理解を深めておきたい方には、大いに参考になる一冊だと思います。

木村榮治「遺品整理士という仕事」平凡社新書(H27.3)

遺品整理士の資格認定に関する協会を立ち上げ、遺品整理業務のあるべき姿について指導されている先駆者の方が、遺品整理士という仕事を志した経緯や遺品整理の意義などを説明しています。

遺品整理業務の一般的なあり方(あるべき姿)や問題業者の実情などのほか、特殊な対応が必要となる現場(孤独死、賃借物件、遺族が遠方居住など)、「生前整理」の必要性などにも触れられており、弁護士(紛争)や税理士(税)の業務とも異なる、第3の相続問題としての遺品整理及び関連事項につき、基礎的な知識、知見が得られる本として、大いに参考になる一冊だと思います。

とりわけ、「生前からの被相続人の所持品などの整理や、関連する見守りなどの問題」については、被相続人(ご本人)が、親族などと遠く離れて単身で賃借物件などに居住しているケースでは、福祉や医療などとの連携も含め、強く意識されるべきではないかと思われます。

余談ながら、日経新聞の本年8月30日の記事で、いわゆるIT終活(死後のPCやネット上に残存する各種データ等の処理)が触れられており、これも、現代に特有の「遺されたモノの整理」ということができ、それだけに、相続人側はもとより被相続人も適切な「準備」が必要でしょうし、それらを巡る相互の意思疎通を適切な形で行っていく文化が形成されるべきではないかと感じています。

田子の浦にて歌聖と戯るの記

旧ブログで掲載していた、平成25年1月に静岡県富士市にある「ふじのくに田子の浦みなと公園」を訪ねた件について、再掲しました。

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万葉集に登載されている山部赤人の歌は、教科書でも必ず取り上げられていることもあり、これを知らぬ日本人はいないと言っても過言ではないと思います。

田子の浦ゆ うち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける

私にはこれを訳すだけの力はありませんので、ネットで検索される代表的な訳を引用すると、次のように述べられています。

大和朝廷の官吏である山部赤人が東国に赴任する際に田子の浦付近から見た雄大な富士の姿に心打たれて、素朴な感動を高らかに詠み上げたものと理解されているようです。

“田子の浦を通過し視界が開けた場所まで出てみると、富士山の高いところには真っ白い雪が積もっていた”

田子の浦は、静岡県富士市の太平洋に面する付近にある海岸であり、その港は、現在は同県有数の工業都市たる富士市の玄関口として、企業の工場や油槽所、港湾関連施設などが立ち並んでおり、詩情を感じることがあまり期待できない状況が何年も続いていました。

私は、ご縁あって何年も前から時折、富士市周辺を訪れているのですが、最初に訪れた際、「ここは山部赤人の歌で有名な田子の浦なので、きっと風光明媚な公園などがあり、先人を顕彰しつつ市民の詩情を育成しているに違いない」と思っていました。が、ガイドブックを見てもそれらしい記載を見つけることができず、大いに残念に思ってきました。

で、今年の元日は時間が出来たので、数年前に入手した「富士市観光マップ」を片手に、山部赤人の歌碑がある場所に向かうことにしました。

歌碑の存在は何年も前から知っていたものの、マップによれば、歌碑は、港湾地帯の隅にひっそりと設けられているように見えることもあって、これまでは優先的に行こうとする意欲が湧かなかったのですが、今年は富士市に点在する史跡巡りツアー(平家越=富士川合戦記念碑など)の一環として、行ってみることにした次第です。

ところが、現地に行ってみると、大変驚かされました。

富士市は、そこ(田子の浦東端の太平洋岸)に、「ふじのくに田子の浦みなと公園」という都市公園を造営しており、土砂の埋立による防潮堤としての活用を兼ねた高台の見晴らしのよい公園として、平成25年の春頃?の完成を目指し、整備を行っていました。

それまで田子の浦港の一角で不遇を託っていた山部赤人の歌碑も、公園の中心部に移設され、付近からカメラを向けると、歌碑の背景には富士と愛鷹山だけが綺麗に収まります。

人の背丈よりも遥かに大きい歌碑は、ストーンサークルの石柱やオベリスクの類を見ているようでもあり、このような視界が開けた場所に設けられるのがよく似合います。

振り返ると、駿河湾全体を見渡すような広大な海岸線に、太平洋の白波が打ち寄せている壮大な光景を目にすることができ、伊豆半島西岸の荒々しい断崖も、手に取るように見ることができます。

波打際がテトラポット群となっている点だけが残念ですが、砂浜の護岸のためやむを得ないのかもしれません。

公園の造営そのものに関しては、観光客が知ることが出来ない、綺麗事だけでない地元の事情もあるのかもしれませんが、率直に言って、この光景は、新富士駅で途中下車しタクシー又はレンタカーで往復するだけの価値はある、なかなかのものだと言えると思います。

そんなわけで、甦りつつある和歌の聖地・田子の浦を素朴に祝って一首。

青空に映ゆる白嶺に白波に 田子の浦から詩情ふたたび

これだけでは物足りないので、蝦夷の末裔の1人として、歌聖への返歌の真似事のつもりで一首。

蝦夷らも うらみを捨つる白雪を 田子に見ゆるはいつの頃から

大意:大和朝廷に祖国を滅ぼされた東国の民=蝦夷(えみし)には、田子の浦から富士を高らかに詠み上げた山部赤人の歌すらも、勝者の凱歌のように感じ、哀しみを深めずにはいられなかったのではなかろうか。

しかし、そんな彼らも、田子の浦から見える白雪を纏った美しい富士の姿を目にすることで、過去のわだかまりを捨て、新しい社会(統一国家・日本)のために己が身を尽くすようになったに違いない。

東国の人々も西国に行き来するようになり、雄大な富士の姿を目にして、そんな思いを共有できるようになったのは、いつの頃からであろうか。

皆さんも、ぜひ一度、訪れて歌聖と戯れてみてはいかがでしょうか。

富士市におかれても、駐車場や子供向けの遊具等だけでなく、気の利いたカフェテリアなどの整備も検討いただければと思います。

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今も日本と世界に問い続ける「原敬」の足跡と思想

昨日は盛岡出身の戦前の大政治家・原敬の命日ということで、菩提寺や生家跡の記念館で追悼行事がなされたとのニュースがありました。
http://news.ibc.co.jp/item_25696.html
http://news.ibc.co.jp/item_25691.html

盛岡北RCの例会でも、地域史などに圧倒的な博識を誇る岩渕真幸さん(岩手日報の関連会社の社長さん)から、原敬の暗殺事件を巡るメディアの対応などをテーマに、当時の社会や報道のあり方などに関する卓話がありました。

途中、話が高度というかマニアックすぎて、日本史には多少の心得がある私でも追いつけない展開になりましたが(余談ながら、前回の「街もりおか」の投稿の際も思ったのですが、盛岡で生まれ育った人はマニアックな話を好む方が多いような気がします)、それはさておき、今の社会を考える上でも興味深い話を多々拝聴できました。

特に印象に残ったのは、「原敬を暗殺した少年は、無期懲役の判決を受けたが(求刑は死刑)、昭和天皇即位等の恩赦により10年強で出獄した。その際、軍国主義の影響か反政友会政治の風潮かは分からないが、暗殺者を美化するような報道が多くあった。そのことは、その後の戦前日本で広がった、浜口首相暗殺未遂事件や5.15事件・2.26事件などのテロリズムの素地になっており、マスコミ関係者などは特に教訓としなければならない」という下りです。

「大物政治家を暗殺した人間が美化される」という話を聞いて、現代日本人がすぐに思い浮かぶのは、韓国や中国における安重根事件の美化という話ではないかと思います。

安重根の「動機」や伊藤博文統監の統治政策について、軽々に論評できる立場ではありませんが、少なくとも、「手段」を美化する思想は、暴力(武力)を紛争解決の主たる手段として放棄したはずの現代世界では、およそ容認されないものだと思います。

それだけに、仮に、中韓の「美化」が手段の美化にまで突き進んでしまうのであれば、それらの国々が戦前日本が辿ったような危うい道になりかねない(ひいては、それが日本にも負の影響を及ぼしかねない)のだという認識は持ってよいのだと思いますし、そうであればこそ、「嫌韓・嫌中」の類ではなく、彼らとの間で「日本には複雑な感情があるが、貴方のことは信頼する」という内実のある関係を、各人が地道に築く努力をすべきなのだろうと思います。

私が司法修習中に大変お世話になったクラスメートで、弁護士業の傍ら世界を股に掛けた市民ランナーとして活躍されている大阪の先生が、韓国のランナー仲間の方と親交を深めている様子をFB上で拝見しており、我々東北人も、こうした営みを学んでいかなければと思っています。

ところで、wikiで原敬について読んでいたところ、原内閣が重点的に取り組んだ政策が、①高等教育の拡充(早慶中央をはじめとする私立大の認可など)、②全国的な鉄道網の拡充、③産業・貿易の拡充、④国防の拡充(対英米協調を前提)と書いてあったのですが、昨日のRCの例会で配布された月刊誌のメイン記事に、これとよく似た話が述べられており、大変驚かされました。

すなわち、今月の「ロータリーの友」の冒頭記事は、途上国の貧困対策への造詣が深く、近著「なぜ貧しい国はなくらならいのか」が日経新聞でも取り上げられていた、大塚啓二郎教授の講演録になっていたのですが、大塚教授は、低所得国に早急な機械化を進めると非熟練労働者を活かす道がなくなり、かえって失業や貧困を悪化させるとした上で、中所得国に伸展させるために政府が果たすべき役割について、①教育支援、②インフラ投資、③銀行など資本部門への投資、④知的資本への投資と模倣(成果の普及)による経済波及という4点を挙げていました。

このうち①と②はほぼ重なり、③も言わんとするところは概ね同じと言ってよいでしょう。民間金融を通じた地方の産業・貿易の拡充として捉えると、現代日本の「地方創生」「稼ぐインフラ」などの話と繋がってきそうです。

そして、④も、当時が軍事力を紛争解決の主たる手段とする帝国主義の時代であるのに対し、現代はそれに代えてグローバル人材が一体化する世界市場で大競争をしながら戦争以外の方法(統一ルールの解釈適用や交渉)で利害対立を闘う時代になっていることに照らせば、時代が違うので焦点を当てる分野が違うだけで、言わんとするところ(国際競争・紛争を勝ち抜く手段の強化)は同じと見ることができると思います。

何より、大正期の日本は、ちょうど低所得国から中所得国への移行期ないし発展期にあったと言ってよく、その点でも、原敬の政策や光と影(政友会の利権誘導政治、藩閥勢力との抗争など)などを踏まえながら大塚教授の講義を考えてみるというのも、深みのある物の見方ができるのではないかと感じました(というわけで、盛岡圏の方でRCに関心のある方は、ぜひ当クラブにご入会下さい)。

ところで、岩渕さんの卓話の冒頭では、「原敬は、現在の盛岡市民にとっては、あまり語られることの少ない、馴染みの薄い存在になってきており、残念である」と述べられていました。

私が9年間在籍した青年会議所を振り替えると、盛岡JCは新渡戸稲造(の武士道)が大好きで、1年か2年に1回、新渡戸博士をテーマとする例会をやっていましたが、原敬や米内光政など先人政治家をテーマとして取り上げた例会などが行われたとの記憶が全くありません。

戊辰の敗戦国出身で決して裕福な育ちではなく、紆余曲折を経た若年期から巧みな知謀と大物の引き立てにより身を興し、「欧米に伍していける強い国家」を構築する各種基盤の構築に邁進し、それを支える新たな権力基盤の構築にも絶大な手腕を発揮した点など、原敬は、「東の大久保利通」と言っても過言ではない、傑出した大政治家だったことは間違いないのだと思います。

だからこそ、両者が、絶頂期かつ志半ばの状態で暗殺により歩みを中断させられたことは、織田信長しかりというか、この国の社会に不思議な力が働いているのかもしれないと感じずにはいられないところがありますし、余計に、前記の「テロリズム礼賛の思想」を根絶することの必要性を感じます。

それだけに、地元で人気がない?(素人受けせず、通好みの存在になっている)点も、大久保利通に似ているのかもしれない、そうした意味では、対立したわけではないものの、同時代人で人気者の新渡戸博士は、いわば盛岡の西郷隆盛のようなものかもしれない、などと苦笑せずにはいられないところがあります。

皆さんも、「古くて新しい原敬という存在」に、よりよい形で接する機会を持っていただければ幸いです。

街もりおかと「わが町を愛する壮年経済人」たちのモノローグ

10月13日のブログで、2年前にタウン誌「街もりおか」に投稿させていただいた文章などを掲載しました。
街もりおかへの投稿(ドラマ「火怨」考)と「記事のバラ売り」

その件で、先日、同誌の「盛岡JC投稿グループ」元締めのSさんに、他の面々の投稿をデジタルで見ることができないのかと頼んだところ、気前よく?これまでのJC執筆陣(約25名)の投稿をPDFファイルで頂戴したので、さきほど、一気に拝読しました。

執筆陣の皆さんは、私と同じく「テーマは盛岡、あとは自由」とSさんから指示を受けて執筆したと思いますが、本当に多種多様で、皆さんの個性や人柄がよく表現されており、大変興味深く拝見できました。

個人的には、和菓子職人のNさんの投稿に掲載されていた、亡くなられたお父さんの言葉(技術は年月をかけて積み重ねるもの、焦らなくともよい、それより志が大切だ、どんな和菓子を作りたいか目標を持って続けることだ)が、同じ職人同士として心に残りました。

それは恐らく、私もNさんと同じく、先達から手取り足取りの指導を受けておらず、現場で足掻きながら、職業人(法律実務家)としての志を心の拠り所にして研鑽をしてきた面が強いので、JC在籍時のNさんの姿勢をよく知っていることも相俟って、特にそのように感じたのだろうと思います。

また、JCで仲良くなったものの、お仕事に関するお話を伺う機会に恵まれなかった方が、各人の本業に関する専門知識を上手に披瀝しつつ盛岡の風土や文化などを論じている文章も、非常に読み応えがありましたし、お名前等は存じているものの、ほとんどご挨拶する機会に恵まれなかった方に関するエピソードなども、その方の顔立ちや若干ながらも在籍時に接した足跡などを思い起こし、そういうことだったのか的なささやかな感動を得ることができたと思います。

申すまでもないことなのでしょうけど、顔や人となりを存じている方の書いた文章は、書き手に対する一定の知識があればこそ、行間の光景が色々と見えてきて、味わい深く楽しめる面があります。

また、書き手が、執筆時に概ね盛岡JCを卒業して間もない40歳前半の方という共通項があるせいか、全員が同じテーマを与えられつつ、各人の辿った道や過去の人生でこだわりを持って取り組んできたこと、職業等を通じて積み重ねた矜持などといったものを踏まえた個性と才知あふれる投稿が満載で、個々の話題は全く異なる内容ばかりなのに、「盛岡」という地理的な概念を超えた、共通するメンタリティが投稿群から浮かび上がっているという点でも、印象に残りました。

旧司法試験時代の格言?で「優秀な答案は、問題文を読まなくとも答案から適切に再現できる」というものを聞いたことがありますが、今回拝見したエッセイ群は、「盛岡というテーマで、各人の前半生を振り返り、地域人又は職業人としての矜持やこだわりについて述べて下さい」という設問に対する論文集という面もあるように思われ、こうした営みが今後も続くと共に、JCの後輩方をはじめ、他の方々にまとまった形で知っていただく機会があってよいのではと感じました。

また、盛岡育ちの方と他の県内出身者の方、東京等の出身の方とでは、投稿の傾向が異なる(三者の内部=同じ共通項を持つ方同士では、割と書きぶりが似る傾向がある)点なども、興味深く感じました。

ところで、10月13日の投稿では、「街もりおか」(のようなタウン誌)に掲載された各文章を、「これだけは読みたい」という層のため、ネット上でバラ売りしていただければという趣旨のことを書きましたが、面識等のある方々のこうしたエッセイ集を読むと、改めてその意を強くせずにはいられません。

過去のものは筆者の個別承諾が課題になるかもしれませんが(ネット上の再掲・配信等に関する権利もタウン誌側に帰属するか云々の法律上の論点はさておき)、今どき、昔の知り合いなどをネット検索することは珍しくないと思われ(反対尋問のネタ目的で検索をする弁護士も珍しくありませんが)、タイトルなどが表示されたページを発見して「あの人が、こんな投稿を出してるのか」と驚き、少額の閲覧料を支払ってでも見てみたいというニーズは、相応にあるのではと思います(黒歴史だから後に残すなという執筆者もいるかもしれませんけど)。

また、「街もりおか」は郷土の偉人や埋もれた各種文芸・文化資産などを取り上げた投稿など、学術的価値のある投稿も多く含まれていると思います。可能なら、記事群を体系化するなど「アーカイブス化」して閲覧できるようになれば、なお良いのではと思っています。

ともあれ、そうした作業はすぐにできるものではないそうですので、また1、2年後にでも、JC陣の原稿を同じような形で拝見できればと思いますし、それこそ、少額でも課金して、「地元の茶菓子が報酬」の執筆陣はさておき、将来のアーカイブス構築の原資にでもしていただければと感じています。

ロータリーとリーダーシップ

盛岡北ロータリークラブは毎週水曜日が例会となっており、私はほぼ毎週参加していますが、一度だけ弁護士会の行事と重なったため欠席したことがあります、

その翌週に届いた会報を見たところ「温泉ソムリエ」という若い女性の方が卓話にいらしていたことを知り、よりによってこんなときにと、悲しさを禁じ得ませんでした(笑)。

それはさておき、翌週の例会では、本年度の岩手・宮城地区のガバナー(地区の全RCを代表する立場の方。岩手と宮城で1年交替になっています)である菅原裕典氏の公式訪問がありました。
http://www.ri-d2520.com/governor_message.html

で、先に到着していた菅原ガバナーが入口で各会員に挨拶(名刺交換)をなさっていたのですが、私がご挨拶したところ、開口一番、「小保内さんですね。このクラブで一番若い会員だと聞いています」と仰ったので、大変驚きました。その上、卓話(講演)の際も、私の名前と最近入会したことを挙げて、こうした若い世代にロータリーへの関心や入会意欲を高めて欲しいと仰っていたので、二度びっくりしました。

菅原ガバナーは、所属されている業界では仙台で最大手クラスの企業を一代で築き上げた方だと人づてに聞きましたが、JC在籍時にも時々体験した、「強烈なリーダーシップや気配りの力を持った方が、グイグイと人の心を掴んでいく光景」を直に見せられたような気がして、勉強になりました。

菅原ガバナーによれば、国歌斉唱などをピアノの生演奏(会員の女性の方)で行っているのは、地区内では当クラブと仙台RCだけとのことで、入会半年程度の私が申すのも何ですが、大変居心地のよいクラブでもありますので、盛岡広域圏でRCへの入会を検討されている方は、ぜひ当クラブにお越しいただければ幸いです。

マイノリティとして生きていくということ

ここ1年ほど、LGBT(各種の性的マイノリティ)がメディアに取り上げられる機会が非常に増えたように思います。

3年ほど前、性的マイノリティの方に関する事件を取り扱ったことがあり、その際、依頼主の背景に関する理解を深めるべきと考えて、以下の本を読んだことがあります。併せて、次の投稿をしており。再掲することにしました。

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先日、上川あや「変えてゆく勇気」という岩波新書の本を読みました。

筆者は性同一性障害(MtF)の方であり、まだ、この障害がほとんど社会に認知されていなかった時代に生まれ育ち、様々な辛酸をくぐり抜けた後、区議会議員に立候補して当選し(現在も現職)、性同一性障害性別取扱特例法(特定の条件を満たせば、戸籍上の性別を変更=人格に適合させることができる法律)の制定運動にも携わった方です。

性同一性障害については、人格の一種であって障害と位置づけるのは適切ではないとの見方もあると思われ、本書でも、トランスジェンダーなどの言葉が紹介されており、この障害(人格)について勉強する上で、入門書として大いに参考になります。

ところで、私自身は、性に関しては典型的なマジョリティですが、ささやかな障害(左耳の聴力が皆無で左側からの会話が困難)があるほか、人格に関しては衆と交わることができない変わり者の典型という面があり、様々な場面で、自分がマイノリティだなぁと感じて生きているように思います。

本書は、性同一性障害のような重い問題を背負っていなくとも、何らかの生きにくさを抱えマイノリティ意識を感じて生活している方にとっても大いに共感できる本であり、多くの方にご一読をお勧めしたいと思いました。

また、本書は、性同一性障害性別取扱特例法の制定に関するロビー活動(立法支援運動)を詳しく取り上げているため、何らかの法(法律、条例等)を作るための運動をしたいという方にとっても、大いに参考になるように思われます。

本書では、立法を支援したキーマンとなる政治家として南野千恵子議員(元法務大臣)の尽力が紹介されているほか、議会での折衝などが紹介されており、当時の国会で強い影響力を持っていた、青木幹雄・自民党参院会長との面談のシーンは、その象徴的なものと思われます。

また、大前提として、どうしてその法を作りたいのか、そのことによって誰を(或いは自分を)、どのように救いたいのかといったことについて、切実な必要性や深い思索、それを実現しようとする強固な意思がなければ、これまでの社会通念を変えていくような法の創造などというものは到底できないし、できたとしても様々な苦闘や紆余曲折が必要になるのだということも、当事者ならではの言葉として伝わってくるものがあります。

JCなどに絡んで、「まちづくり」的なことに関わっている方から条例などについて尋ねられることもあったのですが、曲がりなりにも法の運用に携わる身としては、様々な方に、社会を活性化させる正しい法の創造に積極果敢に取り組んでいただきたいと思う反面、上記のような重みにも、よく思いを致していただければと思ったりもします。

保険金請求訴訟とモラルリスク

お世話になっている損保会社さんから、事故に伴う保険金請求の相談を受けている事案で、「故意による事故(自殺・自死など)の疑いがあるので、調査会社が調べた事実関係などを分析して、保険金請求の当否について意見書を提出して欲しい」と要請され、作成して提出したことがあります。

保険金請求を巡っては、被保険者・契約者・受取人などが意図的に保険金支払事由となる事故を生じさせた疑いがある事案(モラルリスク事案)の発生が避けられず、その主張立証責任に関する争いなども含めて、多数の判例等が生じています。

この点については、昨年に判例タイムズ1397号などに掲載された「保険金請求をめぐる諸問題(上・下)」が大いに参考になります。

この論考では、①傷害保険、②生命保険、③火災保険、④自動車保険の4類型について、最高裁判例などに基づく主張立証責任の構造が明らかにされた上で、多数の裁判例などをもとに、保険金請求の当否に関する考慮要素及びそれらに関する裁判所の考え方などが述べられ、現在のところ、基本文献と言ってよいのではないかと思います。

少し具体的に述べると、傷害保険については、偶然性など(偶然な外来の事故)について、保険金の請求者に主張立証責任があるとされ(但し、立証責任の軽減の問題はあります)、それ以外の保険類型では、請求者は保険事故の存在等を明らかにすれば良く、保険会社側が、故意重過失などの免責事由を主張立証しなければならないとされています。

傷害保険に関しては、自動車保険契約に付帯する人身傷害補償特約の保険金給付の当否を巡って問題となった裁判例が幾つか公表されています。

そして、「偶然性」や「故意・重過失」など、モラルリスク事案における保険金請求の当否に関する判断は、次の4項目を総合的に検討し判断すべきものとされています。

①事故の客観的状況(運転方法の異常性をはじめ事故態様などに偶発性を疑わせるだけの要素がどれだけ備わっているか、自殺の手段として合理性があるか、自殺以外の事故原因が指摘・説明できるか等)、

②被保険者等の動機、属性等(借金などの経済状態、疾病、精神状態、家庭状況など)、

③被保険者等の事故前後の言動等(事故直前の普段と異なる不審な行動や事故現場への不自然な接触、自殺等を仄めかす言動の有無等)、

④保険契約に関する事情(締結の経緯、時期や契約内容等にに関する不自然な事情の有無)

保険金を請求する側であれ、される側(保険会社)であれ、保険金請求の当否が問題となっている事案では、詳細な事実関係の調査がなされることを前提に、弁護士が過去の裁判例などを踏まえた適切な分析をすることで、よりよい解決を図ることができるケースが多数あるのではないかと思われます。

膨大な事実関係を丹念に検討するのが「地味で地道な仕事ぶりだけが取り柄?の町弁の持ち味」だと思っていますので、そうした事案に直面した方は、どちらの立場であれ当事務所にご相談いただければ幸いです。

 

弁護士の死神営業と泣いた赤鬼

最近になって、社会派ブロガーで有名な「ちきりん」さんのブログや著作を読むようになりました。

先日は、延命治療の技術進歩により「本人が必ずしも延命を望んでいないのに、誰もそれを止めることができない(勇気や制度がない)との事情から高額な医療費を(若い世代に)負担させ、何十年も延々と延命をするような例が、今後、続出して巨大な社会問題になるのではないか」という趣旨のことが述べられていました。

尊厳死を巡る問題については、法律業界でも古くから議論され、ネット上でも多数の論考などを見かけることができますが、私自身は関わった経験等がないこともあり率直に言って不勉強で、今のところ大したことを述べることはできません。

ただ、単純に、ちきりんさんのブログに即して感じたことだけを言えば「本人も望まず、社会的にも不要有害と言わざるを得ない長期延命治療を関係者に無用の負担等を生じさせない形で止めさせる制度」が必要なのだろうとは思います。

それは、言うなれば、医療技術上は長期延命が可能な方に対し、「死」を宣告する(延命治療の中止による死亡を法的に正当化する)ような手続であり、それが「誰しもが、やりたいとは思わない嫌な決断だが、社会通念上は必要とされる仕事」だというのであれば、それに従事(主導)すべき立場にあるのは、法律実務家というべきではないかと思います。

酷い例えだとお叱りを受けるかもしれませんが、延命治療の中止判断(決定)は、それに従事する者に慎重な姿勢と重い決断を伴う「死の宣告」にあたるという点で、死刑判決と似たような面があり、後者が法律家(裁判官)が行うとされている以上、前者についても、法律家こそが担うべきだと言ってよいのではないかと思います(ちなみに、「執行」は、適切な方法で医療関係者に行っていただくことは、当然です)。

もちろん、そのような制度を作るのであれば、「必要」が生じた場合に、関係者の(本人の事前届、近親者、医療従事者や検察官など)の申請に基づいて、何らかの「審査会」的なものが設けられ、そこで延命治療の中止の当否について判断することが想定されます。

当然、そこでは、単純に本人の同意があるから中止だとか、近親者の同意がないからダメだなどというのではなく、ご本人の人生経歴や治療経過など、中止の当否を巡って斟酌すべき様々な要素を適切な事実調査を踏まえて判断するという形になるのではないかと思います。

このような「様々な事実の調査・整理を含む、諸要素の総合的な価値判断」は、法律実務家が得意とするところですし、「死」という判断の重さに照らしても、一般の方が軽々に従事できるものでもありません(その点は、重大事案における裁判員裁判の当否を巡る議論も参考になるかもしれません)。

もちろん、利害関係者などによる不服申立(最終的には裁判所の司法判断を含む)もあってしかるべきだと思います。

なお、費用については、なるべく自己負担が望ましいので、審査制度の利用額を定めた上で、延命治療の長期化を希望しない方が事前に予納するとか、何らかの保険制度に組み込むなどの方法が適切だと思います(最後の綱は、法テラスでしょうか)。

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で、どうして今こんな話を延々と書いてきたかというと、そのような制度が社会に必要とされているのであれば、給源たる弁護士業界(なかんずく日弁連)が、制度設計をした上で制度の導入に向けて積極的に提言・運動してもよいのではと思うのですが、私の知る限り、そんな話は聞いたことがありません(単に不勉強で存じないだけかもしれませんが。なお、法案への反対意見の類なら日弁連HPなどで拝見できます)。

変な話かもしれませんが、仮に、そのような「審査会」が設置される場合、医師であれ、他の何らかの資格商売であれ、或いはお役人(公的機関)であれ、弁護士以外にも、「自分にそれを担わせて欲しい」といった「ライバル」が出現することは予測されますし、TPPなどを引き合いにするまでもなく、新たな制度を構築する場合は、なるべく早期に制度設計を巡る議論に参加、主導しないと「置いてけぼり」となることは、容易に想像できることだと思います。

ただ、逆の見方として、この制度が、死という人間にとって最も忌避したいはずの事態をダイレクトにもたらす意思決定であり、しかも、重大犯罪者ではなく、全うに生きてきた方のための手続という性質上「究極のケガレ仕事」と言えなくもなく、そのような制度を導入すべきだ(しかも、自分に担わせて欲しい)などと言い出せば、「お前は死神か。おぞましい奴だ」などという批判を世間から受けてしまうのかもしれません。

そうした意味では、この仕事は、ちきりんさんの見立てからすれば、社会的必要性が認知されれば膨大な需要を生じさせる可能性がある一方で、「貧困に喘ぐ町弁業界を一挙に救済する、素晴らしいブルーオーシャンだ!」などと無邪気にはしゃぐ話になるはずもなく、色々な意味で、弁護士(法律家)という職業の悩ましさ、本質に迫る話ではないかと感じる面はあります。

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ところで、法律家が「死」に関わるのは、重大犯罪の刑事事件だけではありません。相続は言うに及びませんが、それ以上に、「企業のお葬式」としての倒産事件には、申立代理人であれ破産管財人であれ、多くの町弁が日常的に関わっています。

裏を返せば、ほとんど弁護士を利用される機会がない小規模な会社さんなどにとっては、弁護士と関わるのは倒産のときだけという面が無きにしもあらずで、そうした方から見れば、我々は、「企業が死を余儀なくされるときだけ関わる連中で、必要かもしれないが、嫌悪・忌避すべき死神のような存在」ということになるのかもしれません。

恥ずかしながら、私の場合、中小・零細企業向けの仕事をもっと沢山お引き受けしたいとの希望がありつつ、人脈の無さなどの悲哀から、東京時代とは比較の対象にならないほど、そうした機会を得ることができていないので、せめてもの営業活動?ということで、企業経営者の方々が集まる団体さんに参加することもあるのですが、遺憾ながら、何度出席しても、あまり親しい関係などを築くことができずにいます。

人付き合いや「他愛のない和やかな会話」が苦手な私のキャラの問題も大きいのでしょうが、接する方々の雰囲気を見ていると、弁護士という存在が「敷居が高い」という形容よりも、忌避すべき存在として意識されているように感じないこともなく、ある種の悲哀を感じる面はあります。

著名な児童文学作品(童話)で、「泣いた赤鬼」という物語がありますが、弁護士は、「人々を守る仕事をする(かつ、守りたいと思っている)一方、人々からは忌避されやすい面がある」という意味で、この作品の主人公である赤鬼に、よく似ているのかもしれません。

そのように考えると、以前にも取り上げた「日弁連ニコニコCM」は、赤鬼が、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます」という立て札を書き、家の前に立てておくようなものだと感じてしまいます。
日弁連CM問題と、今こそアピールすべき弁護士像を考える

さすがに、同業の先生に「青鬼よろしく筋の悪い裁判を私が面識がある企業の方々に起こして下さい。そうすれば、私はその裁判に勝って、自分が良い鬼だと知ってもらい、仲良くしてもらうことができます。」などと、お馬鹿な頼みをするわけにもいきませんが、さりとて、私が赤鬼くんのような看板を立ててもそれが奏功するとも到底思えず、どうしたものやらと嘆くほかなしというのが、お恥ずかしい現実のようです。