北奥法律事務所

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弁護士の死神営業と泣いた赤鬼

最近になって、社会派ブロガーで有名な「ちきりん」さんのブログや著作を読むようになりました。

先日は、延命治療の技術進歩により「本人が必ずしも延命を望んでいないのに、誰もそれを止めることができない(勇気や制度がない)との事情から高額な医療費を(若い世代に)負担させ、何十年も延々と延命をするような例が、今後、続出して巨大な社会問題になるのではないか」という趣旨のことが述べられていました。

尊厳死を巡る問題については、法律業界でも古くから議論され、ネット上でも多数の論考などを見かけることができますが、私自身は関わった経験等がないこともあり率直に言って不勉強で、今のところ大したことを述べることはできません。

ただ、単純に、ちきりんさんのブログに即して感じたことだけを言えば「本人も望まず、社会的にも不要有害と言わざるを得ない長期延命治療を関係者に無用の負担等を生じさせない形で止めさせる制度」が必要なのだろうとは思います。

それは、言うなれば、医療技術上は長期延命が可能な方に対し、「死」を宣告する(延命治療の中止による死亡を法的に正当化する)ような手続であり、それが「誰しもが、やりたいとは思わない嫌な決断だが、社会通念上は必要とされる仕事」だというのであれば、それに従事(主導)すべき立場にあるのは、法律実務家というべきではないかと思います。

酷い例えだとお叱りを受けるかもしれませんが、延命治療の中止判断(決定)は、それに従事する者に慎重な姿勢と重い決断を伴う「死の宣告」にあたるという点で、死刑判決と似たような面があり、後者が法律家(裁判官)が行うとされている以上、前者についても、法律家こそが担うべきだと言ってよいのではないかと思います(ちなみに、「執行」は、適切な方法で医療関係者に行っていただくことは、当然です)。

もちろん、そのような制度を作るのであれば、「必要」が生じた場合に、関係者の(本人の事前届、近親者、医療従事者や検察官など)の申請に基づいて、何らかの「審査会」的なものが設けられ、そこで延命治療の中止の当否について判断することが想定されます。

当然、そこでは、単純に本人の同意があるから中止だとか、近親者の同意がないからダメだなどというのではなく、ご本人の人生経歴や治療経過など、中止の当否を巡って斟酌すべき様々な要素を適切な事実調査を踏まえて判断するという形になるのではないかと思います。

このような「様々な事実の調査・整理を含む、諸要素の総合的な価値判断」は、法律実務家が得意とするところですし、「死」という判断の重さに照らしても、一般の方が軽々に従事できるものでもありません(その点は、重大事案における裁判員裁判の当否を巡る議論も参考になるかもしれません)。

もちろん、利害関係者などによる不服申立(最終的には裁判所の司法判断を含む)もあってしかるべきだと思います。

なお、費用については、なるべく自己負担が望ましいので、審査制度の利用額を定めた上で、延命治療の長期化を希望しない方が事前に予納するとか、何らかの保険制度に組み込むなどの方法が適切だと思います(最後の綱は、法テラスでしょうか)。

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で、どうして今こんな話を延々と書いてきたかというと、そのような制度が社会に必要とされているのであれば、給源たる弁護士業界(なかんずく日弁連)が、制度設計をした上で制度の導入に向けて積極的に提言・運動してもよいのではと思うのですが、私の知る限り、そんな話は聞いたことがありません(単に不勉強で存じないだけかもしれませんが。なお、法案への反対意見の類なら日弁連HPなどで拝見できます)。

変な話かもしれませんが、仮に、そのような「審査会」が設置される場合、医師であれ、他の何らかの資格商売であれ、或いはお役人(公的機関)であれ、弁護士以外にも、「自分にそれを担わせて欲しい」といった「ライバル」が出現することは予測されますし、TPPなどを引き合いにするまでもなく、新たな制度を構築する場合は、なるべく早期に制度設計を巡る議論に参加、主導しないと「置いてけぼり」となることは、容易に想像できることだと思います。

ただ、逆の見方として、この制度が、死という人間にとって最も忌避したいはずの事態をダイレクトにもたらす意思決定であり、しかも、重大犯罪者ではなく、全うに生きてきた方のための手続という性質上「究極のケガレ仕事」と言えなくもなく、そのような制度を導入すべきだ(しかも、自分に担わせて欲しい)などと言い出せば、「お前は死神か。おぞましい奴だ」などという批判を世間から受けてしまうのかもしれません。

そうした意味では、この仕事は、ちきりんさんの見立てからすれば、社会的必要性が認知されれば膨大な需要を生じさせる可能性がある一方で、「貧困に喘ぐ町弁業界を一挙に救済する、素晴らしいブルーオーシャンだ!」などと無邪気にはしゃぐ話になるはずもなく、色々な意味で、弁護士(法律家)という職業の悩ましさ、本質に迫る話ではないかと感じる面はあります。

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ところで、法律家が「死」に関わるのは、重大犯罪の刑事事件だけではありません。相続は言うに及びませんが、それ以上に、「企業のお葬式」としての倒産事件には、申立代理人であれ破産管財人であれ、多くの町弁が日常的に関わっています。

裏を返せば、ほとんど弁護士を利用される機会がない小規模な会社さんなどにとっては、弁護士と関わるのは倒産のときだけという面が無きにしもあらずで、そうした方から見れば、我々は、「企業が死を余儀なくされるときだけ関わる連中で、必要かもしれないが、嫌悪・忌避すべき死神のような存在」ということになるのかもしれません。

恥ずかしながら、私の場合、中小・零細企業向けの仕事をもっと沢山お引き受けしたいとの希望がありつつ、人脈の無さなどの悲哀から、東京時代とは比較の対象にならないほど、そうした機会を得ることができていないので、せめてもの営業活動?ということで、企業経営者の方々が集まる団体さんに参加することもあるのですが、遺憾ながら、何度出席しても、あまり親しい関係などを築くことができずにいます。

人付き合いや「他愛のない和やかな会話」が苦手な私のキャラの問題も大きいのでしょうが、接する方々の雰囲気を見ていると、弁護士という存在が「敷居が高い」という形容よりも、忌避すべき存在として意識されているように感じないこともなく、ある種の悲哀を感じる面はあります。

著名な児童文学作品(童話)で、「泣いた赤鬼」という物語がありますが、弁護士は、「人々を守る仕事をする(かつ、守りたいと思っている)一方、人々からは忌避されやすい面がある」という意味で、この作品の主人公である赤鬼に、よく似ているのかもしれません。

そのように考えると、以前にも取り上げた「日弁連ニコニコCM」は、赤鬼が、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます」という立て札を書き、家の前に立てておくようなものだと感じてしまいます。
日弁連CM問題と、今こそアピールすべき弁護士像を考える

さすがに、同業の先生に「青鬼よろしく筋の悪い裁判を私が面識がある企業の方々に起こして下さい。そうすれば、私はその裁判に勝って、自分が良い鬼だと知ってもらい、仲良くしてもらうことができます。」などと、お馬鹿な頼みをするわけにもいきませんが、さりとて、私が赤鬼くんのような看板を立ててもそれが奏功するとも到底思えず、どうしたものやらと嘆くほかなしというのが、お恥ずかしい現実のようです。

補助金の支出を巡る地元自治体の光景と田舎の町弁の意地

進行中の仕事なのであまり具体的なことは書けませんが、奇縁により、2、3年前に県内等を震撼させた「震災絡みの補助金の巨額不正使用などが問題となった事件」に1年半ほど前から関わっています。

私が担当しているのは事件全体の中では脇役というべき方なのですが、後始末の民事訴訟などでは要に位置する方なので、山のような訴訟手続が必要になっています。勉強にはなるのですが、経済的には「事務所を潰す気か」と天に吠えたい気持ちを抱えつつ、毎度泣きそうになりながら関わっています。

その事件では、舞台となったA町などの補助金の支出のあり方に大いに問題があると巷間では言われており、私も同様に感じるのですが、誰も住民訴訟等を起こす人がなく、訴訟上は不問に付された状態が続いています。

先日、訴訟関係者が集まった場でも、どなたがとは言えませんが、出席者の方々が「この点が置き去りにされてるよね」という趣旨のことを仰っており、改めて、その点は残念に思いました。

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で、どうして今こんな話を書いたかというと、A町ではなく以前からお世話になっている県内のB町(仮称)さんから、先日、上記とは全然関係のない件で補助金の支出に関するご相談を受けました。

そこで、事務所の書籍などで、補助金(地方自治法232条の2)の支出の適否に関する判断基準などをまとめた文献などを調べて、ご相談の件のお返事をしたのですが、読めば読むほど、B町さんの件(問題ないと思われる例)よりも、A町事件の方を考えずにはいられないという感じがしてしまいました。

ちなみに、自治体(地方公共団体)による補助金の支出は、「公益上の必要」の存在が必要とされていますが、具体的な判断基準は法律では定められておらず、裁判所の解釈に委ねられており、同条や地方自治を取り巻く諸制度、憲法89条の趣旨なども勘案して、判断することになります。

仮に、住民が「その支出は違法(地自法232条の2違反)だ」と主張して、支出を行った首長などや支出を受けた関係者などに賠償等の請求をしたい(自治体にさせたい)場合には、同法242の2第1項4号に基づく住民訴訟(や前提としての住民監査請求)を行い、「自治体は、支出に関与・容認した首長等や、受領した団体側に、賠償等請求せよ」という趣旨の請求をすることになります。

そして、これに対し、訴訟の被告となった側は、①当該補助金の支出は地自法232条の2に反しない、②仮に違反したのだとしても、故意や過失がない、などと、反論し、それらの主張の当否が問われることになります。

で、本題というべき、法232条の2違反の当否ですが、補助金の支出の判断については、様々な行政目的を斟酌した政策的な考慮が求められるため、社会通念上不合理な点がある場合や特に不公正な点がある場合でない限り、これを尊重することが必要で、そのような観点から首長などの裁量権の逸脱・濫用があると認められる場合に限って、違法になるとされています(最判H17.10.28等)。

その上で、「公益上の必要」に関する具体的な判断基準(要素)については、判例分析をした書籍によれば、

①補助金の目的、趣旨、効用、経緯
②補助の対象となる事業の目的、性質、状況
③当該自治体の財政の規模、状況、
④議会の対応、地方財政に係る諸規定の事情

などを総合的に判断するとされています。

例えば、支出目的が適正であるか、当該補助が当該「公益」の目的達成のため適切かつ有効な手段と言えるか、受給者たる団体や金額、使途等が、「公益」との関係で、社会通念に照らし、適切な支給先・使途と言えるか、支出手続や事後の検査体制、流用のリスクなどといったことが、具体的事情や政治的な事柄を含む事案の経緯なども勘案して、問われることになります。

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余談ながら、A町事件は、県内等を震撼させた大事件であるにもかかわらず岩手の弁護士さんがほとんど関わっていません(少なくとも、民事事件で関与しているのは、現在は私だけです)。

あまり具体的なことは書けませんが(事件が終わった後に、守秘義務などの範囲で、少し書いてみたいとは思っていますが)、その事件では、東京方面を中心に非常に多くの弁護士さんが関わっており、訴訟期日では、東京などの弁護士さん達に囲まれつつ仕事をしているという状態になっています(蛇足ながら、ほとんどの先生が、私ほどではないにせよ?経済的に割に合わない仕事をしている面があるように見えます)。

だから何だというわけではないのですが、この事件が世間の耳目を集めていた当時、地元で発生した大事件なのに、岩手の弁護士が関与しないのは残念なことだ、と思っていました。

それが、色々な偶然ないし行きがかり上、私が関わることになってしまったのですが、ある意味、(ご自分の迂闊さもあったとはいえ)とてつもない不運に巻き込まれてしまった依頼主(当事者ご本人)の心情と、私自身の、「とてつもなく不採算のリスクの高い仕事ではあるが、地元の町弁の意地?を示したい」との思いが重なる面もあり、ある程度の限界があるとはいえ、できる限りのことはやりたいと思っています。

不貞行為に関する慰謝料請求と会話記録

町弁をしていると不貞行為に関する慰謝料請求訴訟を受任することが何度もありますが、この種の訴訟は、相手方(被告)が否認すると被害者に不貞の内容などを立証しなければなりません。

中には、そうしたことを見越して、長期の不貞の事実が存在するのに、全面否認したり、直近のごく一部の不貞のみを認めて「その時点では夫婦が不和だったから破綻=免責だ」などと主張する不誠実な御仁も少なくないので、具体的な証拠などに基づいて不貞行為の詳細を主張立証せざるを得ないことも少なくありません。

この点、「不貞時の両者の会話記録」を入手できることがあり、時には数ヶ月間に亘る不貞状況の詳細について、膨大な労力(ページ数)を割いて、「二人の逢瀬の物語」を、会話から浮かび上がる当事者の心理描写なども交えて、熱く深く再現するという作業をすることが、何度かありました。

膨大な記録を読み込んで、ちょっとした記載についてネットで裏付けを調べたり、書かれていない関連事実についてもあれこれ調べたりしながら、男女のやりとりを分析しストーリーとして構築することになりますので、膨大な時間と労力を余儀なくされるため、我ながら「何で、こんな三文小説を書いているのだろう」と自分が馬鹿なことをしているように思う面もあります。

他方で、そうした作業を通じて、何らかの自分の暗い衝動を充足させているのだろうかと感じる向きもあり、或いは、道ならぬ情愛や性愛を求めざるを得ない人間の深淵に迫っているような錯覚?を感じる点もありますが、そのように思うこと自体が、ある種の防衛機制なのかもしれません。

所詮は権利義務に関わる事実を述べるものですから、基本的には淡々と事実を書き連ねるのが基本となりますが、その制約の中で、どれだけ人間の心の深淵に迫れるかなどと、事案の結論とは少し離れたところで馬鹿みたいな情熱を燃やすことが、たまにあります。

余談ながら、先日、「営利目的で性交渉に従事した者は、その業務の通常の態様に依っている限り、他方配偶者との関係で賠償義務なし」と判断して話題になった、いわゆる「枕営業判決」が判例タイムズに載っていたので判文を見たのですが(東地判H26.4.14判タ1411-312)、被告女性は本人訴訟で、本人は簡単な認否反論しかしてないようでした。

その一方で、原告側の主張に基づき裁判官が詳細な判断を示しており、議論された事柄の大半は、裁判官が原告代理人に求釈明して原告代理人が反論し、裁判官が判決でそれに再反論したという審理展開を辿ったようで、その点も興味深いと感じました。

平成26年の業務実績③家庭(離婚・親子・後見)、相続、行政、刑事ほか

前回に引き続き、平成26年の業務実績(従事ないし解決した紛争の概要)を簡単ながらまとめました。依頼先の弁護士を選定する際に参考にしていただければ幸いです。

(6) 家庭生活や親族関係、相続を巡る法的問題やトラブルの解決

相続分野では、死亡危急者遺言」(危篤時に第三者(証人)が作成し、後日に裁判所の確認を受ける制度)が作成され、被相続人の友人に多額の財産が遺贈されたという事案で、ご遺族から、遺言者の意思に反するとのご相談を受け、昨年から遺言無効等を求めていた訴訟について、当方の主張を認める旨の和解勧告があり、勝訴的和解が成立して終了したという例があります。

この件では遺言者(被相続人)の方に認知症がなく、遺言無効の主張が認められない可能性も否定できない事案でした(依頼者の方によれば、以前に他の弁護士に相談して勝訴は困難と断られたのだそうです)。

当職も、立証に課題があるとは感じつつ、事案固有の様々な事情から、遺言無効が認められるべきだと考えて、依頼主と共に膨大な作業時間を投入して様々な主張立証を展開したところ、全面勝訴に匹敵すると言ってよい、満足いく成果が得ることができました。

昨年は、相続放棄やご家族(妻子・両親・兄弟姉妹等)の死去等により相続人が不存在となった方について、利害関係者のご依頼で相続財産管理人の申立を行ったり、私自身が管理人に就任して権利関係の処理を行うという事案が幾つかありました。

以前に「無縁社会」などと呼ばれ、現在もその状態が解消されていない中、法的手続を通じて相続財産の処理をせざるを得ないケースは増えていくと思われますが、なるべく生前に相続や財産管理のあるべき姿について、遺言などを通じ適切に意思を表明していただくのが、紛争やトラブル発生の防止のため望ましい面がありますので、ご留意いただければと思います。

また、遺言に関し、自筆遺言証書の文言などに問題があり、あるべき対処(遺言の解釈など)についてご相談を受けたことが複数あり、中には、相続人間で訴訟を行っている例もあります。

お一人で遺言を作成するのは、内容が明確(財産全部を特定の相続人一人に相続させるようなもの)であればまだしも、解釈による紛争のリスクが否定できませんので、公正証書遺言に依っていただくか、どうしても自筆を希望される場合には、文言の当否についてご相談いただくなどの対処をご検討いただきたいと考えます。

離婚やこれに関連する紛争(離婚時までの婚姻費用面会交流離婚後の養育費のほか、破綻の原因となった不貞行為を巡る賠償問題など)についても、法テラスの無料相談制度(震災当時、岩手県などに在住の方は、資力などに関係なく一律ご利用できるもの)などを通じて多数のご相談を受けており、訴訟や家裁の調停等を受任した例も少なくありません。

昨年は、夫婦間の子の引渡を巡る紛争(母が子を連れて別居した直後に、父が子を連れ戻した挙げ句、母との接触を拒否したため、母が父に対し、子の引渡と引渡までの面会交流を求めたもの)を受任しており、逆の立場で受任した事件もあります。

子を巡る紛争は、面会交流を含めて、近時は著しく増加しており、裁判所は、子の福祉のための環境のあり方を重視しますので、お子さんのことを深く考えて柔軟な対応が求められることも多いと感じています。

成年後見に関しても、裁判所の委託で後見人に選任されている例が複数あります。

(7) 行政との訴訟、刑事事件、その他の業務

行政を当事者とする紛争では、長年に亘って区画整理の問題を抱えていた事業者の方から、区画整理の一環として自治体が行った行政処分に対する取消請求訴訟や執行停止申立を行った例があります。

刑事弁護については、幾つかの国選事件のほか、若干の私選弁護(相当期間内で終了しタイムチャージ形式で清算するもの)が幾つかありました。詳細は伏せますが、ある団体について業務上横領罪で起訴された方が嫌疑を否認し、有罪の当否が激しく争われた事件を担当した例もあります。

その他の業務としては、昨年に引き続き、被災者支援の一環として、弁護士会の被災地向け相談事業に参加するなどしています。大船渡の法テラス気仙に月1回の頻度で通っているほか、原発事故に起因する賠償問題なども扱いますので、必要に応じお問い合わせ下さい。

平成26年の業務実績②交通事故等(賠償)、生活上の問題(消費者・契約)

前回に引き続き、平成26年の業務実績(従事ないし解決した紛争の概要)を簡単ながらまとめました(全3回)。依頼先の弁護士を選定する際に参考にしていただければ幸いです。

(4) 事故等による被害の賠償等の請求や防御に関する支援

本年も、交通事故の被害者側での受任事件が多数あり、そのほとんどの方が、ご自身が加入する任意保険の弁護士費用特約により費用負担なく利用されています。

取扱う事例も、物損のみで過失割合(事故態様を巡る事実関係)が争点となる事案から死亡事故や高位の後遺障害が生じて多様かつ多額の損害の算定が論点となっている例まで、幅広く取り扱っています。

今も激しい医学論争が続いている「低髄液圧症候群(脳脊髄液減少症)」の発症の有無などが争点となった事例を取り扱う機会もありました。その件は、本年3月まで在籍した辻弁護士が、依頼主(被害者)の主治医から詳細に事情を伺うなどして詳細な主張立証を行いました。

残念ながら、当該論点のハードルの高さ(主要な裁判所で大半は退けられています)もあり、和解協議段階で裁判所から難色を示されたものの、単なる頚椎捻挫事案とは異なるとの判断を前提に、一定の加算を受けることができましたので、そうした形で立証努力が考慮されました。

現在のところ、弁護士費用特約は保険料も低廉で、ご自身が被害を受けたときに弁護士への依頼の円滑さを確保する点で絶大な力を発揮しますので、必ず、この特約が付された任意保険に加入いただくよう、お願いいたします。

(5) 個人(消費者)が交わす契約や社会生活を巡る法的問題の解決

賃貸借(主として貸主側)、不動産売買学校生活(生徒側)に関する紛争などを取り扱う機会がありました。消費者側代理人として勧誘業者からの接触等の拒否を申し入れるなど、紛争に至る以前の対処についてご相談を受けることもあります。また、後述(次回)の震災無料相談制度を通じ、多数の方々にご来所いただき、日常的に生活上の様々なトラブルに関するご相談に応じています。

本格訴訟としては、自宅建築目的で購入した土地で過去の所有者による不法投棄が判明し、証拠上、投棄の実行者又は責任者と思われる企業に賠償請求した事案を取り扱っており、相手企業側が強く争っているため、依頼主とも協力しながら投棄行為の立証のため様々な資料を提出すると共に、廃棄物処理法の知見なども生かして徹底的に闘っています(現在も訴訟が続いています)。

(以下、次号)

平成26年の業務実績①全体、中小企業法務、債務整理・倒産

当事務所では、数年前から、毎年1回、前年度の業務実績の概要をブログで公表しています。昨年(平成26年)の業務実績は、顧問先には1月頃にお送りしたのですが、多忙等を言い訳に、ブログに掲載するのが遅れてしまいました。

長文ということもあり、今回は、3回に分けて掲載します。分類については、当事務所HPの「取扱業務」に基づいています。

(1) 全体的な傾向など

平成26年も、①交通事故(主に被害者側からの賠償請求)、②離婚相続など家族・親族間の紛争、③企業・団体の商取引や内部事務に関する紛争の3点が、受任業務の中心を占めました。特に、家族・親族間の紛争や権利関係の処理に関する業務が増加傾向にあります。

反面、本年も債務整理・倒産等の業務は、全国的な傾向と同様、数年前と比べて大幅に減少しています。

(2) 企業・団体の業務や経営上の法的問題に関する支援

食品製造委託取引を受注した企業Xが、発注者だと認識するY1社に代金請求したところ、Y1が「発注者はY1ではなく(XにY1社を紹介後、事業停止となった)Y2社だ」と主張してきたため、Y1が発注者(債務者)だと主張して支払を求めた事件で、無事に当方の主張が認められ、Y1から支払を受けたという例がありました。

複数の企業が発注側に介在する場合には、「誰が代金債務を負担するか(誰が発注者か)を巡る争い(支払責任をなすりつけ合う紛争)」は頻繁に生じますので、そのような取引に関与される際は、責任の所在を明らかにさせるよう、強くご留意いただきたいところです。

また、経営者が交替した法人で新経営陣が旧経営者に不正行為があると主張して訴えた事件で、旧経営者の依頼で役員欄に押印(名義貸し)した法人とは無関係の方が巻き添え的に提訴され、ご依頼を受けた事件があり、事実経過や相手方の主張の問題点を詳細に主張したところ、相手方(原告)が当方に責任がないことを認めて和解で終了したという事件もありました。

当方の主張が認められたとはいえ、名義貸しは多くのリスクを伴いますので、名義貸しの要請を受けた場合には、極力、拒否いただき、一定の形が不可避といことであれば、後難を避けるための適切な措置を講ずるなど(弁護士に相談いただくべきでしょう)、ご留意願います。

その他、特殊な工事の代金請求に関する紛争(当方は受注者側。相手方が、当方の責任で工事が頓挫したと主張し支払拒否しているため、責任の所在が争われているもの)、採用後ほどなく退職した元従業員の方が申し立てた労働審判(企業側代理人として担当)、協同組合の内部で問題を起こした組合員の処分の当否を巡る訴訟(組合側代理人として担当)などを手掛けています。

中小企業庁が行っている「下請かけこみ寺」事業に基づき、小規模な下請業者の方から発注者の支払拒否や取引中止への対応などの相談を受けることもありました。

(3) 債務整理と再建支援

倒産件数が激減している社会情勢に伴い、自己破産、個人再生、任意整理とも受任件数は僅かなものとなっていますが、企業倒産に関しては、かつて多数を占めた建設業界に代わって、福祉やITなど広義のサービス業に携わる企業の方からご依頼がありました。

個人の債務整理については、昨年同様、「完済後の過払金請求」のご相談が若干あったほか、かつての「多数の高利業者から数百万円の借入がある多重債務事案」に代わり、債務額・件数は多くはないものの、生活保護ないしそれに準じる低所得の方や、住宅ローンの支払が諸事情で頓挫し破産等を余儀なくされた方からのご依頼が増加傾向にあります。

破産管財人を担当した方で、多数の農地等を有するものの市場性が乏しく売却に困難を来したり(様々な手法をとることで、一定の農地を売却できたこともあります)、保険契約などで名義貸し(実際の保険料を親族が支払っている事案)が関係する例(原則として名義人の財産として換価対象となりますので、ご家族の名義でご自身が保険料を支払って契約をなさっている方はご留意下さい)などがありました。

管財手続が終了した後の会社の権利関係の処理(放棄された不動産の売買など)に従事することも何度かありました。

(以下、次号)

街もりおかへの投稿(ドラマ「火怨」考)と「記事のバラ売り」

2年前(平成25年)の6月に、肴町の若大将ことSさんの依頼で、「街もりおか」という雑誌に寄稿させていただいたことがあります。聞くところでは、若い投稿者と読者を増やしたいとの編集長さんの方針で、Sさんが盛岡JCの関係者に声を掛けており、現在もJC関係者が必ず?一人は投稿し続けているのだそうです。

私は、小説やエッセイなどを読む習慣がなく、購読している日経新聞すら積ん読→数ヶ月をまとめて処理という日々になっていますので、残念ながら同誌を購読できる状況にはないのですが、JC関係者など知り合いの方が投稿された際には、それだけでも読んでみたいと思っています。

可能であれば、「街もりおか」も、ネット上に記事のタイトルと出だしの文章を載せて、閲覧料を支払えば、希望する記事を読むことができるような仕組みを作っていただきたいものです。新聞も有料で記事を配信していることを思えば、特段、珍しいものでもないでしょう。

特に、地元向けのタウン誌については「知り合いの書いたものなら読みたい。少額の対価なら問題なし」という層はそれなりにいるはずで、商売としても、成り立つのではないかと思います。

Sさんはパソコンやシステム関係の超人というのが私の認識ですので、ぜひ、その点についてのご尽力をお願いしたいところです。

というわけで、2年前に載せた文章を再掲しましたので、当時は見ていないという方は、ご覧いただければ幸いです。

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盛岡には、地元在住の作家さんが運営なさっている「街もりおか」という雑誌があるのですが、先日、ひょんなことから寄稿依頼を受けました。

下記に引用したネット記事のとおり、読書好きの中高年層が読み手の、硬派?なタウン誌とのことで、市内のいわゆる教養人の方々が、盛岡をテーマとして様々な寄稿をなさっているようです。
http://morioka.keizai.biz/headline/187/

引用記事によれば、新聞や全戸無償配布誌のように世間に広く流布しているわけでもないようですので「折角なので、書いたものをブログ等に載せてもよいですか」と尋ねたところ、「宣伝になるならOK」と快諾をいただきました。

というわけで、刊行されたばかりの「街もりおか」6月号に、下記の記事が掲載されていますので、私の駄文はさておき、市内でお買い求めの上、他の方々の投稿をぜひご覧になっていただければと思います。

ところで、私の投稿ですが、読む人によっては、「街もりおか」の発行人であり、盛岡を代表する作家でもある高橋克彦氏(大河ドラマ2作品の原作者)に対し挑戦的な物言いをしているように読めないこともありません。この辺は、強大な力を持った方に無謀な戦いを挑むのが二戸人のDNAということで、ご了承いただきたいところです。

ところで、この「街もりおか」ですが、ネットで少し検索した限りでは、雑誌自体のHPは設けられておらず、過去の記事などを閲覧することは困難のように見えます。

私は、数年前、日本の法曹界の黎明期の偉人であり、中央大学の創設者の一人でもある菊池武夫氏(盛岡市加賀野出身)に関する投稿を「街もりおか」で読んだことがあります。

このような記事は、例えば、ネットで冒頭部分を表示しさらに読みたい人が少額の購読料(10円とか50円とか)をネット上で簡単に支払って読むことができる、といった形で運営していただければ、読み手にも作り手にも持続可能なのではないかと思いました。

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~弁護士業務から歴史ドラマを考える~

先日、BSプレミアムで「火怨・北の英雄アテルイ伝」が放送されており、以前に原作を拝読して心揺さぶられた身としては、見逃すわけにはいかないとの思いで視聴した。が、壮大な戦闘シーンだけでなく、ストーリーの骨格部分でも原作とは大きな変更があり、不満の残る脚本となっていた。

私が最も疑問に感じたのは、「静かな暮らしを守る善良な蝦夷達」と「それを虐げる朝廷の官人や征服欲剥き出しの桓武帝」という単純な善と悪の対決の構図に描かれていること、何より、坂上田村麻呂が桓武帝の征服欲の手先として、その命令を遂行する道具になり果てたような人物像となっていた点である。

一般的な評価は言うに及ばず、原作でも、もう一人の主役というべき大人物に描かれていたと記憶するだけに、特に残念に感じた。

私には蝦夷征服の真実の姿を語るだけの能力はないが、「強欲で邪悪な朝廷勢力に主権を奪われ、搾取、虐待された可哀想な蝦夷」という単純な構図が歴史の姿であるかのように示されると、そこには違和感を拭えない。

逆に、当時の社会経済の変動の中で、奥州の大半が大和朝廷の統治を受け入れる何らかの合理的な事情が生じていたのかもしれないし、その状況を生かして現地勢力に介入し支持を獲得した賢明な官人や、大和勢力と交渉し生き抜いた蝦夷も存在したのではないかと思われる。

そうした人々の姿を表現せず単純な善悪の構図で気の毒な被征服民ばかりを描くのは、かえって蝦夷への冒涜になるではないか、また、桓武帝にも朝廷の権力闘争など様々な事情があり、それらを捨象し身勝手な悪の権化のように描いたのでは、滅ぼされた側も浮かばれないのではないかなどと、反発心すら抱いてしまうのである。

人や社会は、やむにやまれぬ事情の積み重ねで善行と悪行をモザイク状に繰り返しながら彷徨う存在であり、実在の人物や歴史を題材とする作品は、その重みを意識して表現していただきたいと感じている。

この点、私は弁護士をしており、職業柄、相手方が理不尽な行為や悪行に及んでいるので当方(依頼主)が救済されるべきだと主張したり、相手方やその代理人たる弁護士から同様の主張を受けることが日常茶飯事である。

しかし、善行も悪行も人生の断片を切り取った一局面に過ぎず、その点をわきまえず相手方を非難する主張にばかり終始したのでは、ジャッジ(裁判官等)の理解を得ることはできない。

関係当事者を巡る様々な事情を調査、俯瞰し、この場面に関しては当方に理があるのだと主張したり、双方に正義(尊重すべき利益)があり、やむなく対決するような紛争では、各人の正義を理解し穏当な着地点を見出せるかを考えて解決策を検討することが、強く要求されている。

歴史ドラマも弁護士業務も、実在の人物について公正な視点で具体的な事実を描くことにより特定のメッセージを発信するという点では、相通じるところがあり、良質な作品に接することで我々の業務にも活かしていければと願っている。

ところで、盛岡は、私の故郷である二戸地方の主(九戸政実公)と北東北の覇権を争った人々が作った都であり、盛岡市民には、戦国の終焉を視野に入れた壮大な都市誕生の物語として、九戸戦役への正しい知識、理解を持っていただきたいと感じている。

それと共に、敗亡の地に生まれ育ち、勝者の都で暮らしている身としては、政実公を美しく描くだけでなく、騙し討ちをしてまで滅ぼした側にも、やむを得ない事情や正義、苦渋の決断があったこと、そして、戦の後には何らかの価値が創出され、勝者も敗者も、それぞれの立場でより良い社会を築くために努力してきたであろう姿もまた、描いていただきたいと思わずにはいられない。

そのことが、現代を生きる二戸人と盛岡人とが、先人の思いを継承しつつ、互いに力を合わせて社会に新たな価値を創出していく原動力になると信じるからである。

盛岡市長選と公約及び施政の検証

2ヶ月前の話で恐縮ですが、8月に盛岡市長選(と市議選)があり、現職の谷藤市長が4選を決めました。

対立候補として出馬された内舘茂さんは、私が盛岡JCに入会した際に元の理事長(当時は「顧問」)としてJCの活動を支えておられましたので、私も新入会員の一人として大変お世話になりました。

それだけに、誠実で温厚なお人柄はよく存じ上げており、政治的・政策的な支持云々の話はさておき、ご健闘を祈念しておりましたので、残念な結果ではありましたが、政治活動であれ企業経営その他の活動であれ、ご経験をご自身や地域のより良い未来に繋げていただければと思っています。

ところで、どちらが当選なさるにせよ、市長選に先だって、現職(谷藤市長)の初当選から現在までの3期の市政を検証し、有意な投票材料として市民に広く伝えるような試みがなされるべきだと思っていました(市長選だけでなく、市議選も同様です)。が、そのような話を聞いたことがなく、その点は残念に感じています。

ちなみに、私がJCに在籍していた一時期(平成19~21年)には、岩手県知事マニフェスト検証大会というものがあり(23年は震災で頓挫)、色々と難点はあったのですが、それでも、萌芽として育てる価値があったはずで、その後に継続せず消滅してしまったのは、残念に思います。

他方、私の知る限り、盛岡市は言うに及ばず、岩手県内の市町村の首長選や議会選挙において、公約検証等のイベントがあったという話は聞いたことがありません。

民主党政権の頓挫あたりから、マニ検大会自体が全国的に廃れて死滅したのかと思っていたのですが、ネットで検索したところ、山口県宇部市福岡県福津市で地元のJCの主催により行われているとの記事が出てきました。

サイト内で紹介されている「大会の議事」によれば、盛岡JCが過去に行ったもののような「ご本人と学者さんだけの発表会」と異なり、市民検証なるものも行われたとあり、どのような規模かは存じませんが、好ましく感じました。日本JCは、憲法云々の大きな話をするのも結構ですが、こうした各論レベルの積み重ねや各地JCへの勧奨を大事にしていただければと思っています。

JCが過去に行ってきた討論会の方式が聴衆にとって不満が残るものであるという話は、私だけが述べていることではなく、今回の市長選の討論会をご覧になった盛岡JCのOBの方のブログでもご指摘がありました(私もJCでお世話になった方で、大変発信力のある方です)。

現役会員の皆さんにおかれては、従前の討論会の設営のみで良しとするのでなく、市長選・市議選が終わった現在でも一向に構わないと思いますので、こうした営みを考えていただければと思います。

また、ここでは盛岡市長選のみ取り上げましたが、現職の無投票3選で終了した岩手県知事選についても、同様のことが当てはまることは、申すまでもありません。

残念な勇者たちと社会の責務

先日、某行政機関が設営した無料相談行事の担当として従事してきました。

この種の相談会では常に経験することなのですが、今回も、次のような相談者の方が幾人かおられ、傭兵稼業というべき弁護士としては、残念に感じてしまいます。

自分の要望に相手が応じてくれず、困っている。ただ、自分では相手に言いたくない(ので、弁護士から申入をして欲しい)。といっても、(相談者の説明に基づく見立てとして)相手方は、弁護士(たる私)が言えば、すぐに従うような御仁でもない。でも、裁判等はやりたく(頼みたく)ない。」

このようなご相談は、いわば、RPGの主人公が武器屋や傭兵斡旋所にやってきて「町を荒らし人々を苦しめるドラゴンを倒したい。でも、武器も買いたくないし傭兵を頼みたくもない。まして、自分が死地に赴くなんて真っ平御免。そこで、貴方がドラゴンに洞窟の奥深くで眠ってろと言えば、ドラゴンは従うのではないかと僕は思うんだけど、どうですか。」と言っているようなものというほかありません。

町弁の多くが経験していることでしょうが、行政機関が開催する無料相談では、そうした勇者たちにお会いすることがとても多く、残念に感じています。

数年前、法教育というものが流行って、今は下火になっているように感じますが、上記の文脈で言えば、「国民各人が、暴れるドラゴンと対峙した場合に、戦士や魔法使いを従えてドラゴンを倒す(悔い改めさせる)ことができる、本物の勇者になるための教育」こそが、本当の法教育(主権者教育)というべきだと思っています。

しかし、当時も今も、そうした話はあまり聞くことはなく、その点は残念に感じます(冒頭の「残念な相談者」は高齢の方が多いので、「教育」を持ち出すのが適切かという問題はあるかもしれませんが)。

人は戦いを止めることはできないし、人であるがゆえに、理不尽に直面したのであれば、闘うことを止めるべきでもない。しかし、殺し合うこと、「暴力」という手段の利用は止めなければならない。

だからこそ、代替(殺戮の時代に戻らないための装置)として、法(武器)と弁護士(傭兵)、そして闘う場(裁判)があるわけですが、今も、そうした認識が国民的に共有されているかと言えば、そうでもないと感じており、そうした認識を広く共有いただくと共に、各人がより良く闘うための土台作りについて様々な方にご尽力いただければと思っています。

以前、日弁連が、「僕達って、いつもニコニコ、とっても親しみやすいんだよね~あはは~」ムード全開のCMを流して、業界内で酷評されたことがありましたが、私の経験ないし感覚として、世間様は、弁護士は傭兵だと思っている(傭兵として役に立つ範囲で必要としている)というのが率直な印象です(だからこそ、我々への依頼は、「立てる」とか「雇う」などと、供給サイドとしてはあまり嬉しくない言葉で形容されることが多いのだと思います)。

どうせCMなどをするのなら、「真っ当な闘い(の補佐というサービス)を必要としているが、勇気などの不足から闘いに踏み出せないでいる消費者(国民)」に、「良質な傭兵」としての弁護士が、闘う気持ちを鼓舞するようなCMをこそ、流していただきたいと思っています。

その上で、個々の弁護士が、傭兵(戦士)としての個性や特色を各人の方法でPRし、消費者が、自身のニーズに適合する選択と適切な闘争をするという文化が形成されていけばよいのではと思います。

(追記 10.20)
冒頭の相談者の方のような発言を改めて振り返ると、そこには、裁判等(法的闘争)を忌避する「ケガレ思想」のようなものがあるのではと感じたり、「弁護士が申入をすれば、相手方はすぐ従うんじゃないか」といった下りは、一種の言霊信仰(自分で行う申入には(すでに不奏功になっているので)言霊の力はないが、弁護士にはそうした力があるのはないかとの思想)があるのではと感じたりもします。

そのように考えると、日弁連の「ニコニコCM」も、そうした「日本人の残念?な法意識」という現実を見据えた対策という面もあるのかもしれませんし(実際に企画された方に、そこまで深謀遠慮があるかどうかは分かりませんが)、上記に述べたことも、そうしたことまで視野に入れないと、何をやっても奏功しないということも、あるのかもしれません。

紛争の残念な相手方等をマスメディアで見かけることについて

先日、県内向けの某番組を見ていたところ、数年前に携わった訴訟で相手方となった男性が「その分野の専門家」という肩書で出演しているのを見かけました。

事案の内容は言えませんが、その男性は、当方が訴えた裁判の被告で、代理人を依頼せず本人が出廷して当方の訴えを争う姿勢を示していたところ、裁判所の勧めもあり、当方依頼主が早期解決を優先させて大幅に譲歩した和解をしたという事案で、依頼主からは、人格や振る舞いに問題がある方だ(いわゆるモラハラ系)との説明を受けていました。

で、訴訟の場でも、慰謝料を支払わないとか他の支払項目についても収入がないと主張して法律上定められた債務を実務上の相場観から大幅に減額させるなど、自分の要求のほとんどを認めさせたにもかかわらず、和解条項などの最後の詰めの際に私や裁判官に対し散々に悪態を付いていたことが強く印象に残りました。

ちなみに、私の約15年の弁護士歴の記憶では、法廷で露骨に悪態を付いたのは、この御仁と某探偵業者、東京高裁で有罪判決直後に暴れ出した某被告人の方の3名だけです。

さすがに、番組での他の出演者とのやりとりの際は普通に振る舞っておられましたが、時折、当時、ラウンドテーブル法廷で散々悪態を付いたときの目とあまり変わっていないように感じるところもありました。

もちろん、その方とも当方依頼主とも訴訟終了後は接点がなく、予断で物事を述べるつもりもありませんので、むしろ、男性が様々な方と関わりを持ち、ご自身の問題と向き合って謙虚な振る舞いを身につけているとのことでしたら、そうあって欲しいと思っています。

この件に限らず、田舎のしがない町弁をしていると、ごく稀にですが、地元レベルで著名な方の私的領域に関わったり、事件の当事者の方などを後日に地元の著名人としてメディア等でお見かけすることがあります。

当然、守秘義務が強く及ぶエリアですので、具体的なことを書くことは一切ありませんが、地元メディアで時折見かける著名人男性に関し、知人女性との不倫絡みの話を伺ったこともあり、そうした方の記事を見ると、どうしても、女性の方が、その男性との交際で非常に苦しんだという話を伺ったのを思い出さずにはいられないことがあります。

県民が100万人以上もいるとはいえ東京時代と比べると色々な意味で狭さを感じることが多く、私自身も自分が気付かないところで「目」に晒されているのかもしれないという気持ちで、襟を正していければと思います。