北奥法律事務所

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司法試験(憲法)の問題漏洩事件の雑感と余談

先日、司法試験の試験委員を長年つとめる法科大学院の教授の方が、あろうことか自身が中心となって考案した試験問題や模範解答を教え子の女子学生に伝え、さらに答案作成の指導までしていたという報道がありました。

このような「試験委員(特に、大学教授)による漏洩リスク」は、私が合格した時代を含め現在の司法試験制度には不可避と言わざるを得ない問題ですが、それだけに、絶対のタブーを犯したものとして民事上はもちろん、刑事上も厳しい対応が予測されます。

このニュースを巡っては、現在の法科大学院制度(特に、旧試験時代には受験界では聞いたこともないような大学を多数巻き込んだ粗製濫造の状態やそうした実情に起因する司法予算の「浪費」など)に批判的な考えを持つ同業の方々からは、現在、ロースクールが直面している生き残り競争が、こうした不祥事の背景にあるのではとの指摘もなされています。

報道では、教授の女子学生への一方的な恋愛感情(片思い?)が原因で、他の学生には漏洩等はしていないということですので、「法科大学院の生き残り」まで射程に入る話ではないかもしれませんが、少なくとも、制度の問題として、「試験の問題作成者等に法科大学院の教授が加入する」というスタイルは、そうした態様の事件も招くリスクを内在していることは確かだと思います。

ところで、私がこのニュースを見たときに最初に受けた印象(というか驚き)は、現在の憲法の司法試験委員の方に、個人的に存じている(お世話になった)方が二人、入っておられるという点でした。

一人は現職の司法研修所の教官の方(裁判官)で、司法研修所の同期の方であり、もう一人の方は、私が東京時代に就職した事務所に在籍されていた弁護士の方で、私の就職時に入れ替わりで独立された先生です(後者の先生も、現在は分かりませんが、数年前に研修所の教官をなさっていたはずです)。

今更申すのも何ですが、お二人とも、(前者の方は卒業以来、後者の先生も10年近くお会いしていませんが)法律家としての実力も人格的なことについても、本当に素晴らしい方々で、当時から、将来はぜひ研修所の教官になっていただきたいと思っていましたので(私に限らず、共通の知り合いの方々は、皆そのように思っているはずです)、そうした方々が教官や試験委員として重責を担っておられることに、とても嬉しく感じる面があります。

私自身は、しがない田舎の町弁として小さく生きていくのみですが、それでも、若い頃にお世話になった素晴らしい方々が、その実力や識見に相応しい道のりを進んでいかれる姿を拝見していると、自分なりにできることがないかと考える意欲というか、励みになるような気はします。

他方、問題の教授の方は、私が受験生だった時代(平成9年頃)には著名ではなく、今回の報道で初めてお名前を知りました。恐らく、受験生向けのものを含め、講義を受けたこともないと思いますし、論文等を拝見した記憶もありません。

事件そのものについて、部外者の立場でどうこう申すのは差し控えたいと思いますが、少なくとも、司法試験の制度のあり方(実務のディテールを含め)を巡る議論にこの件が結びついてくることは確かだと思います。

もちろん、設問作成にあたり、各科目の学会等を代表する教授の方々に近時の重要論点に関するご意見を伺うのは必要不可欠だと思いますが、設問は実務家委員のみで作成し、教授の方(類型的に受験生と接する機会のある者)には委員であっても採点開始まで開示しないという選択肢も、今後は議論されるのではないかと思われます。

感動は小さな一歩から

今年の夏休みの際に、東京スカイツリーの展望台に初めて登りました。

眺望は見事なものでしたが、高所からの風景を楽しむという点では、私には登山の方が性に合っているような気がします。

“汗かかぬ空木塔より空木岳”

というのが、率直な印象でしょうか。

修習生時代(卒業試験後の休暇)にペルーのナスカの地上絵に行ったことがあり、その際も、セスナ機で空中から様々な地上絵を眺めるより、地上の観測塔から小さな地上絵や様々な直線を眺める方が心に残りましたので、感動は、自身の努力や身体感覚に合致するものでなければ、成立しにくいのかもしれません。

まだ中央アルプスに足を踏み入れる機会には恵まれていませんが、最近、登山への意欲(執着)も復活してきたので、受験生時代に計画だけで終わってしまった「木曽駒から空木岳の縦走ルート」の再検討を考えたいと思います。

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余談ながら、展望台(最上層)にバッタが来ており、よくぞ登ってきたと誉めたくなりました。

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安倍首相談話と小沢氏談話から学ぶ、法の支配と民主主義

安倍首相の「戦後70年談話」を巡っては色々と議論もあるようですが、内容についての論評はさておき、文章としての読み応えや読みやすさ、一読了解性という点では、過去の2首相談話よりも遥かに秀逸だと思いますし、それは首相個々の資質の差というより、現在と当時の日本の置かれた状況の違いによる面が大きいのだろうと思っています。

他方、ネット上で流れていた小沢一郎氏の「70年談話」も拝見しましたが、安倍首相の談話に引けを取らず、読み応えのある文章だと思いました。また、双方を読み比べてみると、互いの政治理念の差(ひいては、民主政治のあり方や統治機構に関する憲法観の違い)が見えてくる面があるという点でも、興味深いと感じました。
http://blogos.com/article/128288/

なお、安倍首相談話については、仙台の小松亀一先生のHPに、村山首相・小泉首相の談話と共に掲載されているのが参考になりますので、ご紹介します。
http://www.trkm.co.jp/syumi/15081501.htm

双方の違いとして私が感じたことを少し具体的に述べると、小沢氏の談話では、大日本帝国が草の根の民主主義を軽視し庶民を残酷に取り扱っていた(大戦直前の混乱はその帰結である)ということが強調されており、これは、満州事変以後に大日本帝国が道を誤ったという観点を強調しているように見える安倍首相の談話では、ほとんど指摘されていない視点だと思います。

韓国が「植民地支配を謝罪しろ」と言い続けることに抵抗感を感じる方も多いと思いますし、そのことを安易に批判するつもりもないのですが、帝国内に重いヒエラルキーがあり、朝鮮人であれ日本人であれ、ピラミッドの下の方に属する人にとっては非常に抑圧的な体制があったことは、理解、認識が必要なのだろうと思います。

また、小沢氏が、現在の課題について、「内実ある民主政治の定着」を強調しているのに対し、安倍首相談話が「今後の課題」を列挙した後半部分では、その点(民主主義)はほとんど強調されていません。むしろ、憲法学を勉強した人間からは、「民主主義と緊張関係を持つ原理」としてすぐにピンと来る「法の支配(自由主義)」の言葉が重要なタームとして登場し、女性の人権や自由主義経済体制など、自由主義と親和性のある話題が主に取り上げられているように感じます。

ですので、アンチ安倍首相の人が批判的に談話を解釈すれば、「自由や平和、福祉を強調するが、民主主義(その実現の過程における、民主的な意思決定)を強調していない。これは、国権主義・官僚主義的な政治思想が背後に潜んでいるからではないのか」という見方も出来るのかもしれません。

少なくとも、法の支配=自由主義は、多数決を排斥してでも国の力で一定のルールを守る・守らせるという点で、官僚主義的な側面があることは確かだと思います。また、国権主義云々が、安保法案などを巡って安倍首相が批判されるキーワードであることは、しばしば語られるところだと思います。

裏を返せば、アンチ小沢氏の人が批判的に同氏の談話を解釈すれば、「法の支配=自由主義に関する話題が一切出てこない、金権問題で司法と対決し失脚した小沢氏(ひいては田中角栄系)らしい談話だ」などという見方も出来るのかもしれません。

私は、大学で憲法の勉強を最初に始めたとき、その年に司法試験に合格された大先輩の方から、「憲法学、なかんずく統治機構の本質は、自由主義(法の支配)と民主主義という、相対立する2つの基本原理の対立と調和である。主要な論点では必ずこの問題が出てくるので、常に意識するように」ということを強調されました。

もちろん、どちらの理念を重視するかは、個人の思想良心(主権者としての政治的決断)の問題であり、双方の理念にヒエラルキーを付けるのが憲法学の発想でないことは、申すまでもありません。

安倍首相と小沢氏の双方の談話を読み比べることで、ご自身が、現在、自由主義と民主主義のどちらに重きを置いて社会と向き合っているか考えてみるのも、意義があるのではないかと思います。

また、民主党全盛の当時を含め、小沢氏の主張を見ていると、三権分立の中でも議会の影響力を優先(優位)に考える発想の強い方(「国権の最高機関」に関する統括権能機関説。憲法41条参照)と認識しており、三権を同格に考える通説的見解(政治的美称説)とは一線を画しています。

こうした、当否ないし支持の是非はどうあれ、「憲法学も視野に入れた政治哲学を感じさせる国会議員さん」は、残念ながら我が国には実に少ないように感じており、小沢氏の引退が視野に入ってきている現在、そうした「憲法=国家統治などのあり方を巡る視野の大きい議論」ができる人材を国政の場に送り出すことができているのかという点で、今こそ、国民に問題意識が広く共有されるべきではと感じています。

余談ながら、先日、オレオレ詐欺に従事する若者達の内幕などを論じた「老人喰い」という本を読んだのですが、小沢氏談話に登場する青年将校のテロと同一視するのは行き過ぎであるにせよ、主として貧困層出身の若者によるテロ行為という面で、通じるものがあるように感じました。
http://president.jp/articles/-/15501

岩手県知事選の顛末と安易になぞらえるつもりはありませんが、仮に、現在の自民党政権が、民主政の過程を軽視する側面があるのだとしたら、或いは、格調高い安倍首相談話をあざ笑うような事態が、水面下で進むということも危惧されるのかもしれません。

ダークツーリズムから学ぶ、いわての社会と歴史

社会の負の歴史に関する施設や現場の痕跡を訪ねる「ダークツーリズム」が注目を集めているとの記事が流れていました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150901-00000038-mai-soci

数年前も「負の遺産ツアー」という言葉を聞いた記憶があり、その際も提案したのですが、岩手でも、「誰かの尻拭いのため、巨額の税金の負担を強いられた例」として、次のような企画が考えられます。

【岩手県・税金ダークツーリズムの旅・1泊2日案】

・朝に、二戸駅集合→県境不法投棄現場(両県で撤去費600億以上)を見学

・午後に、松尾鉱山へ移動→地下水の中和処理施設(稼働に毎年数億円)と廃墟を見学→八幡平泊。

・翌日、盛岡競馬場(存続のため330億を公費融資)へ移動→貴賓室でレースを堪能しながら心ゆくまで黒字化に貢献下さい。

各事件についてご存知でない方は、次のサイトなどをご参照下さい(主に、公費負担を明示しているサイトを選びました)。

・岩手青森県境不法投棄事件
http://www.town.takko.lg.jp/index.cfm/9,1024,70,219,html

・松尾鉱山問題(鉱毒水処理)
http://www.jogmec.go.jp/mp_control/matsuo_mine_001.html

・岩手競馬問題(巨額赤字と存廃)
http://www.city.morioka.iwate.jp/iwatekeiba/keiba/006661.html
http://blog.goo.ne.jp/umaichi_news/e/7b11d380daf37594f0d63a5253014c06

ただ、県境事件に関しては、すでに現地での撤去作業はほぼ終了しているようで、青森県HPを見ても、植樹などの話ばかりになっていますので、私が平成15年(着工前)や20年(工事の真っ最中)に見たような、これぞ不法投棄現場というような光景にはほど遠く、「集客」という点からは、時機遅れなのかもしれません。
http://www.pref.aomori.lg.jp/nature/kankyo/kenkyo-archive-toppage.html

当時は米国の例に倣って、不法投棄現場の一部を保存して「酷い状態」が博物館的に見学できるようにすることも提言されていたように記憶しているのですが、結局、遠隔地(二戸市街など)も含め、不法投棄の有様を視覚的に伝える施設等は作られておらず、その点は些か残念に思います。

また、「人命が失われた」という意味での負の遺産なら、震災(津波被害)がすぐに思い浮かびますが、まだ悲しみの癒えない沿岸は、「復興・インフラ」ツーリズムには相応しいですが、現時点で「ダーク」を冠するのは適切ではないのだろうと思います。尤も、3年以上経過しても更地状態が続いているエリアは、別の意味で、ダークなのかもしれませんが。

人命絡みでは、上方軍の謀略で城内の数千人が皆殺しにされたと伝えられる九戸城も立派な「ダークツーリズム」遺産かもしれませんが、さすがに、現在の風景から凄惨な光景を想像するのが難しいでしょうね・・(公園のように整備される前の鬱蒼とした時代なら、そうしたものもイメージできたかもしれませんが)

税金絡みの不祥事(ダークな事件)では、「大雪りばぁねっと事件」も記憶に新しいところですが、「御蔵の湯」が撤去され、当時を偲ばせるものもほとんど残っていないのではないかと思われます。

「負の遺産」は、人命系(戦争、天災、公害など)、人道系(強制労働・隔離など)、環境破壊系、税金系(税金が酷い使い方をされたり後始末のため巨額の公費負担を強いられたもの)などが挙げられると思います。

秋田の鉱山では強制徴用があったと聞いたことがありますが、岩手でもそのような話はあったか聞いたことがなく、上記の観点から、地域の歴史や社会を勉強することも意義があると思います。

また、こうして見ると、負の遺産が分かりやすい姿で後世に残ることは必ずしも多くはないように思われます。県境不法投棄のように、全てを残すことは難しいのでしょうから、地域の博物館などのリニューアルに際し、「負の遺産コーナー」的なものを作ったり、いっそテーマパークのような再現的なものを考えてみるのも意義があることではないかと思います。

オレオレ詐欺と「彼を知り、己を知れば」

先日、「中央大学法学部政治学科のOBの方向けに、三菱地所系のワンルームマンションの営業をしてます」という電話が自宅にかかってきました。

私の学歴は事務所HP等で誰でも知りうる状態になっていますが、自宅の電話番号は現在では名簿などに載せないようにしていますので、どのようなルートで上記の情報を入手したのか、少し不思議に思いました。

そこで、自宅内にある大学時の所属団体(いわゆる受験サークル)の古い名簿を見たところ、有り難くないことに、自宅の電話番号等が書いていたため、これが元ネタの可能性があるのかもしれません。

先日、オレオレ詐欺の業界の実情などを詳細に述べた新書を読んだのですが、その中で、「現在のオレオレ業界では、入手した名簿を直ちに詐欺の電話に使うのではなく、不動産の営業などを装って、詳細に個人情報を聞き出し、それを、将来(相手の判断能力が鈍ってきた頃)或いは近親者への詐欺電話の素材(話に説得性を持たせるためのシナリオの材料)として活用し、そうした「磨かれた質の高い名簿」が高値取引されたりする」といったことが書かれていました。
http://president.jp/articles/-/15501

電話口の相手の声が、かなりの若年男性という感じもあり、営業電話は遠慮してますと言ったら、向こうから挨拶もせずガチャンと切ってしまいましたので、そうした類の御仁だったのかもしれません(本気で営業する気があるなら食い下がるでしょうし)。

私も、暇とエネルギーがあれば、根気強く先方の話にお付き合いして、言葉巧みに先方の正体等を突き止めるべく努力すべきだったのかもしれませんが・・

引用の書籍は、オレオレ詐欺プレーヤーの育成・誕生を描写した部分が、物語としてなかなか読ませるものがありますし、世代間などの格差ないし社会の閉塞の問題を考える上でも、参考になる点は大きい(筆者も私と同い年の方のせいか、感覚的に読みやすい)と思います。

今や、全国どこにでも、誰にでも入り込んでくる可能性のある人達ですから、敵方(詐欺業界)のことを知る上でも、それを踏まえて、こうした詐欺を生み出すもとになった、自分達の社会が抱えた様々な問題を考える上でも、ご一読をお勧めしたい一冊です。

余談ながら、著者の方が、私が大学で大変お世話になった同級生の方の高校等の親しい後輩なのだそうで、「鈴木氏に岩手まで講演にお越しいただきたい」という方がおられれば、お役に立てるかもしれません。

私自身は「オレオレ詐欺」は1、2回、被害者の方からご相談を受けた程度の関わりしかなく、まして、加害者側と関わったことは皆無なので(ヤミ金絡みの刑事事件なら弁護人を担当したことがありますが)、当事者の取材に基づくルポについては、色々と学ぶところがありました。

また、被害報道は県内でも繰り返し聞きますが、被害者側の「その後」については、ほとんど聞くことがないため、被害後に被害者側に大きな問題が生じた例であれ、そうでない例であれ、考えさせられる事案などを取材されているようでしたら、そうしたものについてもお話を伺うことができればと思っています。

達増知事マニフェストのバランス感覚と「書かれざる政策」から見えてくるもの

9月に予定されていた岩手県知事選は、対立候補の出馬がなく、達増知事の無投票3選で決まりましたが、少なくとも、当選した達増知事の公約について県民が議論したり当否を判断する機会がなかった(知事にとっても、ご自身の公約が県民の強い負託を受けたものであることを明らかにする機会がなかった)という点では、残念というべきだと思います。

先日、達増知事がブログで「マニフェスト」と題する公約集(のようなもの)を公開されているのを拝見しました。

「具体的な施策や数値、財源等が記載されていなければマニフェスト(有権者との契約集)とは言えない」などという話はさておき、「主権者」たる県民には、この公約集(スローガン集)を読んで、過去や現在、将来の県政のあるべき姿を考える責務があるのでは(でなければ、投票権を付与するに値しないのでは)と思わないこともありません。

で、人に偉そうなことを言うなら先に自分がやれということで、少し考えてみましたが、この公約集は、「達増知事が取り組みに意欲を示すテーマ集」と考えれば、ある意味とてもバランスがよく、色々な課題に目配りがなされていると感じる反面、「あの課題・分野には触れていないのか」と感じるところもありました。

以下、理由を述べますが、まず、県も一個の政府のようなものですから、公約集を見る上での視点としては、取り上げられている個々の政策テーマが、国の1府13省庁のうち、どの官庁が取り扱う事柄なのかを考えると、分かりやすい面があります(官邸サイトwikiなどで参照願います)。

このような観点から見ると、まず、「1.本格復興の推進とその先の三陸振興」は、復興庁や経産省、国交省(の取扱分野)ということになるでしょうし、被災県としては、このテーマが冒頭に来ることは、異論のないところだと思います。

次に、「2.若者女性活躍支援と「生きにくさ」の解消」については、女性活躍云々が安倍内閣(内閣府)の看板政策の一つであることは確かですし、「若者と女性」が人口減少、「生きにくさ」がそれを含めた自殺(自死)問題などを射程に入れているのだと理解できます。そして、これらが県政の重要課題として広く認識されていることも確かなことだと思います。

また、コメントは省略しますが、「3.地域医療の充実といきいき健康社会」が医療と福祉を中心とする厚労省の所管分野、「4.学び、文化、スポーツの振興」が文科省の所管分野であることは明らかです。

そして、「5.地域資源を活かした産業の発展」では、一次産業県だけに農林水産省の所管分野が広く取り上げられ、経産省分野(ものづくり、中小企業対策)、国交省(インフラ整備)、総務省(通信、IT)が列挙され、外務省的なこと?(海外セールス)も一応触れられており、「6.環境保全と再生可能エネルギー振興」も、環境省や経産省の所管であることは申すまでもありません。

最後に出てくる「国際リニアコライダー」、「いわて国体・ラグビーW杯」は、省庁(文科省?)というより、現在の岩手固有の政策課題ないしイベントと言うべきでしょうが、知事が取り組むテーマとして挙げることに異論を挟む人は少ないでしょう。

他方、「政策テーマを省庁的に仕分けする」という作業をすれば、あの省庁(をイメージする政策課題)が出てこないな、と考えることができます。

真っ先に思いつくものが、県の財政再建(財務省)であり、増田県政末期や達増県政初期に、競馬場問題などが絡んでこの点がしばしば議論されていたこと、その後も、県の財源対策の基金が間もなく枯渇するとの報道がされていることなどに照らしても、違和感を覚えないこともありません。

復興対策、医療や福祉の充実、教育やスポーツの施設維持や振興、各種産業支援(公共事業や補助金)、ILCなどに関連するインフラ整備など、知事が推奨する政策の多くが、多額の税金投入を必要とするようにも見えるもので、他方で、その財源の裏付けに関する記載を見かけないため、「財源の裏付けがないのに政策話を打ち上げているのでは(結局、財源(又はその調達能力)の不足を理由に、さほどのことはしないのでは)」とか、「県債=巨額の借金で賄うことになるのでは」などという批判を向ける余地があるのかもしれません。

また、「省庁」という観点からすれば、他にも出てこない省庁(の所管分野)として、法務省(法務・司法関連)、防衛・警察(治安)が挙げられると思います。外務(対外関係)や総務ないし内閣府(県組織、地方自治制度全般)に属する分野についても、ほとんど触れられていないと言ってよいでしょう。

もちろん、法務(司法・検察)分野は、県(地方行政)には権限が付与されていない面が強い領域で、県知事が取り上げるのに馴染まないことは確かです(裏を返せば、「司法の地方分権の推進という視点を持つべきではないか」という問題意識はあってよいと思いますが、そのような議論ができるほど、日本の地方自治は成熟していないのかもしれません。私のようなL型法律家にとっては、隠れた重要テーマなのですが。)。

警察関連については、最近の岩手では世間を震撼させる凶悪犯罪をあまり聞かないことも影響しているのかもしれませんし(話題と言えば、オレオレとか大雪とか、財産被害系ばかりのような気もしますし)、防衛分野も、岩手には沖縄のような「国策との衝突」という地域問題は聞きませんので、やむを得ないことなのでしょう。

ただ、「法務」についても、県が行う様々な法執行の適正の担保(言うなれば、県庁という企業の法務部門に属する仕事)という観点で見れば、大雪事件などを例に出すまでもなく色々な課題が潜んでいるように思いますし、県組織や地方自治制度全般のあり方という観点で考えると、「大阪都構想」とまでは行かなくとも、道州制(北東北等の連携)という対外的な話から、広域振興局の再編や公務員組織のあり方など対内的な話(省庁的に言えば、内閣府や総務省に属する事柄?)について、県組織のトップである知事から特段の公約や構想に関する表明がないことは残念というべきなのだろうと思います。

敢えて穿った見方をすれば、達増知事は小沢氏の一番弟子で、小沢氏は田中角栄首相の最後の弟子というべき方ですが、達増知事が「内需喚起のための財政出動(税金投入)を重視し、財政の健全性(緊縮財政)を重視しない」のだとすれば、いかにも田中派の系譜を引く方だということになりそうです(仮に、借金路線となった場合には、小渕首相をイメージしてしまいます)。

といっても、過去2期の達増県政を見る限り、大盤振る舞いで県財政を悪化させたという類の話も聞きませんので(時代の違い=パイの消失という面も大きいのかもしれませんが)、その点はよく分かりません。

ただ、上記に述べた括りからすれば、法務系の話題が出てこないとか、特定のポリシーを強調するよりも様々な県内需要を取り込もうとする(田中派も、陳情処理に関し「総合病院」と呼ばれたことは、覚えている方も多いと思います)点など、何となく、「田中派的なもの」と親和性を感じないこともないという面はあります。

もちろん、知事は1人しかなれませんが政策を語るだけなら誰でもできるのですから、「法務分野の話題がなくて寂しい」などとケチをつける暇があるのなら、弁護士ないし弁護士会側で、「法に関するいわての課題」などと題し、県政で取り組まれるべき法務分野の事柄を発表すべきだということになるのかもしれません(私個人は、以前にブログで書いたように、包括外部監査の点に関心があるのですが、良くも悪くも今はまだ夢のまた夢です)。

また、県知事の公約等に関心がある方は、折角なので、他の知事との比較もしてみてもよいのではと思います。

例えば、青森県の三村知事秋田県の佐竹知事のサイトで表示された公約集等を見て、その異同について考えてみるのも参考になると思います(宮城の村井知事についても調べたのですが、HP等が見つかりませんでした。私の調査力の不足かもしれませんが、知事さんは少なくとも在職中は、サイトを設置するなどして選挙時の公約をネット上に表示すべきだと思います)。

自公系など敵対サイドの県議さんはもちろん、生活系(や民主系)など与党サイドの県議さんも、こうした観点から達増知事の政策を研究し、議論を挑んだり補強を図ったりなさるのも良いのではと思います。

ところで、達増知事については、「個人として、県政に関し何がやりたいのか見えない」という類の批判を聞くことが多いように思いますが、折角の3期目ということもありますので、米国大統領が二期目の後半にレガシー作りに勤しむように、ぜひ、達増知事らしさ(カラー)をより鮮明に打ち出していただければと思っています。

そうした意味で、達増知事が外務官僚のご出身なのに、県政にその点を生かしたという話(例えば、ILC推進や県なりの国際交流に関し外務省を上手に使ったとか官僚時代の人脈を生かしたという話)をあまり聞いたことがないように思われ、残念に感じます。

先日の再選時のインタビュー記事で、外務官僚を目指した動機などが書かれていたように記憶しているのですが、ぜひ、「外務官僚出身の知事」として、県知事の立場で、岩手県(ないしそのアイデンティティ)の存在感を世界に伝えるような取り組みをしていただければと思っています。

県民ないし県政に従事する方々も、そうした観点から、内政ないし国政絡みの権力闘争にばかり目を向かせるのではなく、前向きな形で達増知事の背中をより広い世界へと押していただければ良いのではと思います。

「弥生の血」の象徴としての伊勢神宮と縄文の魂

先日も書いたとおり、今年の夏休みは、伊勢神宮に行きました。私は総本家が地元の神社の宮司さんで、実家は本家を支える氏子の主要メンバーですが、恥ずかしながら、2年前の式年遷宮に関する一連の報道までは、伊勢神宮でそうしたことが行われていること自体、知りませんでした。

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そんなこともあり、以前から伊勢神宮に行ってみたいと思っていましたが、いざ、行ってみると、「神社仏閣と言えば、築何百年が当たり前で、その古さ(歴史)こそが有り難み」という固定観念に縛られていた私としては、どこに行っても新しい社殿が並び、隣に遷宮のための砂利の空き地が並んでいるという神宮のスタイルに、凄い違和感というか、神社に対する固定観念を覆すような、不思議なものを感じました。

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7月末に沖縄に仕事で行ってきたこともあり、沖縄と並んで縄文文化の跡を遺している北東北の人間としては、「縄文(と弥生)」というものを意識する機会が増えていたのですが、弥生時代(から飛鳥時代?)の建築様式が継承されている伊勢神宮の社殿群を見ていると、「ここは弥生だ」という印象を、強く受けました。

詳細は書きませんが(私自身、自分の知識に出来ているわけでもありませんし)、伊勢神宮で行われている様々な営みを見ると、ここには、豊作祈願や新米への感謝をはじめ、弥生文化(稲作農耕)を象徴するようなものを守り伝えていこうという強い意志のようなものを感じました。

反面、神宮では、狩猟や漁労などという縄文文化的なもの(への礼賛、信仰)を見かけることがほとんどできなかったように思います。古代文化に知見が深いわけではありませんので、思いつきレベルで恐縮ですが、伊勢神宮には、「主として縄文人と弥生人の混血で、概ね弥生人の血の方が濃い」とされる日本人のルーツのうち、弥生的なものを凝縮して継承している面があるのではと感じました。

裏を返せば、日本の宗教文化(神道を含め)の要素と目されるのに、神宮で見かけないものがあれば、それは、縄文的な文化に由来する面があるのかもしれません。

例えば、私の薄い知識の範囲では、古い神道には「万物に神宿る」という感覚(アニミズム=精霊信仰。山岳や巨木・巨石などへの信仰)があると思うのですが、伊勢神宮には、立派な大木や見目麗しい池などが多数配置されているものの、それらを天照大神ら(伊勢神宮が祀っている神々)と連なる独自の信仰対象として位置づける姿勢は全く感じません。むしろ、伊勢神宮の庭園に対する姿勢には、一神教の文化であるフランス式庭園(自然は神や神の延長にある人に仕えるものという思想)を思わせるものがあるとすら感じました。

私に限らず、古い神社と言えば、異形の巨木や巨岩・奇岩が境内に存在して霊的な存在として崇められている例が多いのではと感じる方は少なくないのではないかと思うのですが、そうした「霊的なものを体現した自然物」は一切存在せず、遷宮による真新しい社殿群が、人間の生々しい営みを想起させることと相俟って、人間中心主義と言わんばかりの思想を感じる面がありました。

そういえば、伊勢神宮は、大日本帝国=国家神道では全国の神社の総本山とされていた(今も、神社本庁の制度のもとで同じような位置づけにあると思います)だけでなく、鎌倉末期に伊勢の外宮の神官(度会家行)が提唱した理念(度会神道・伊勢神道=反本地垂迹説)が、国家神道ひいては国粋主義の源流にあるとされており、それらの事情も、「伊勢神宮にアニミズムが存在しない(感じない)こと」と近接性があるように感じます。

また、太陽神たる天照大神を祀る内宮ではなく、産業従事者=一般の人々の神を祀る外宮の神官が、国家神道のもとになった思想の提唱者であることも、伊勢神宮を形づくる思想と関わりがあるように思います。

大雑把な感覚ですが、伊勢神宮には、人間中心主義(農耕及びその基盤としての土木文化に代表されるように、人間が自然を凌駕し支配する存在であるとの思想)が背景にあり、それは、中国の儒教思想(現世利益的な合理主義)と近接性があり(感覚的なことばかり書いて恐縮ですが、伊勢神宮には密教的な神秘主義思想の匂いを全く感じませんでした)、また、西洋の合理主義や一神教(キリスト教)の根底にある人間中心主義とも近接性があるように感じました。

だからこそ、国家神道の行き着く先が、あたかもバテレン神父の布教活動のような、日本民族の主導による欧米植民地等の解放と救済という啓蒙思想(ひいては、そのなれの果てとしての世界征服思想?)になったのではという見方もできるのではないかと思います。

そのことは、裏を返せば、古神道などと称されるアニミズム(自然崇拝)が、弥生人の文化ではなく縄文人の文化であり、神道は、山岳信仰などの「縄文寄りの神道」と、伊勢神宮などに代表される「弥生寄りの神道」の二種類に分かれていると考えると、神道を巡る様々な物事が理解し易くなる面があるのではないか(ひいては、「平和」のあり方を考える上でも、縄文的な思想にもっと目を向けてよいのでは)と感じました。

私自身は、思想という点では、人間中心主義や一神教が決して嫌いではないのですが、自分の信仰心や身体感覚という点では、アニミズムやそれを前提とする価値多元思想に馴染む面がありますし、私が北東北の人間であることも、そのことと関係があるのではと感じるところがあります。

伊勢神宮を歩きながら、「これは、私が好んでいる神道とは、ちょっと違う」という違和感を感じていたのですが、上記に述べたこと(伊勢神宮の思想が、自然からの採取=自然のコントロールを諦めた恩恵的思想=アニミズム的な縄文色を排除ないし抑制し、農耕=自然のコントロールを指向する思想=人間(文明)中心主義的な弥生文化を全面に押し出しているのではないかと感じたこと)が、その理由ではないかと思った次第です。

私も、伊勢神宮が日本人にとって大切なものということに異論はないのですが、正直なところ、宗教的崇敬心はあまり掻き立てられませんでした(むしろ、上記のとおり学問的な関心が湧いた面があります)。そのことは、以上に述べたこと(私自身の思想ないし宗教的感覚との相違点)が関係しているのだと思います。

そうであればこそ、縄文と弥生の混血である日本人、なかんずく滅ぼされた縄文側の文化を継承する立場にある北東北(北奥)の人々は、伊勢神宮に匹敵するような、縄文人の文化と思想を後世に継承するような何かを創出する姿勢を持つべきではないか、そのことは、人間中心主義や統一性(体系性)を感じさせる弥生と、自然中心主義と多元性(共生性)を感じさせる縄文の思想的な違いという面でも意味があるのではないかいうのが、「初めての伊勢神宮」で私なりに感じた結論でした。

伊勢神宮は、「日本人の心のふるさと」と称されることが非常に多く(例として、伊勢市観光協会のHPを引用します)、弥生という観点から見れば、それは至極正当なのですが、縄文という観点からすれば、伊勢神宮だけを「ふるさと」として強調するような考え方には、異論を唱える必要があるのだと思います。

以前、世界遺産登録を目指している「北海道・北東北の縄文遺跡群」について少し書いたことがあるのですが、京都・奈良をはじめとする登録済みの日本の世界文化遺産群が、いずれも弥生文化や大陸文明(仏教等)の延長線上に形成されたものと見受けられるのに対し、もう一つの日本のルーツである縄文文化について、世界遺産(人類の共有する価値)として認められたものはないと思います。

そうであればこそ、縄文文化の価値を適切に理解、説明し世界に認めさせることは日本人の責務であり、日本国憲法も期待するところ(安倍首相が仰る「積極的平和主義」に適う道である)ではと思うのですが、いかがでしょう。
→ 縄文の遺跡群と北東北のオリジナリティ

余談ながら、外宮(正宮)の参拝を終えた後、参拝者向けの朱印帳コーナーの隣に将来の式年遷宮の寄付を受け付けている窓口があることに気づきました。で、私の父(実家)が、地元(氏神)の神社や祖霊社の維持のため長年に亘り相応の負担をしていたことや、2年前の式年遷宮の際も何人かのJC関係者の方が参加等されていたことなどが脳裏をよぎり、自分も、そうしたものの庇護を受けて今に至っているのに、単なる観光客として通り過ぎるのは筋が通らないと思って、ささやかながら、寄付をしてきました。

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そのとき初めて知ったのですが、寄付の感謝として、正装(スーツ)して行けば、観光客よりも社殿の少し内側に入れていただけるのだそうです。

平成28年末まで有効(本人限り)とのことで、次に行けるチャンスとして、津地裁に係属する尋問付きの訴訟のご依頼が舞い込んで来るよう、日々祈願している次第です。

惜しい!志摩スペイン村

今年の夏休みこと家族接待は、思い切って伊勢・志摩地方に遠征しました。初日に志摩スペイン村に行き、2日目には鳥羽水族館と鳥羽湾巡りなどを行い、3日目には伊勢神宮(外宮・内宮)を巡って、鳥羽からフェリーで帰りました。

往路は、初日に某県を出発して高速道路を進みましたが、途中で玉突き事故による大渋滞が発生し、到着が大幅に遅れました。それがなければ、四日市あたりのSAでトンテキを賞味できたかと思うと悔やまれます。

ただ、巨大な高架と橋が連続する伊勢湾岸道路は見応え十分で、走っているだけで楽しく感じました。高速から見る御在所岳方面も、深田久弥の日本百名山で、「名山なのにロープウェイで遊園地化して残念」と書いてありましたが、ぜひ行ってみたいと思いました。

志摩スペイン村は、お店と建物群が並んだ入口の雰囲気や夜のパレード、「キャスト」などの言葉遣い、周囲から隔絶されており外の風景がごく一部しか見えない点など、東京ディズニーランドやディズニーシーを相当に意識した作りになっているように思いました。
http://www.parque-net.com/parque_espana/index.html

反面、3Dシアターの通路(出入り口から会場までの通路)が、何の装飾等も施されておらず、その辺に転がっている県民ホールなどと全く同じの無機的・無味乾燥な通路になっており、その点は、ディズニーの爪の垢を煎じて飲んで欲しいというか、残念に感じました。

他にも、遊園地そのものという感じの左側のエリアと、ハビエル城(フランシスコ・ザビエルが生まれた城を模したもので、内部が博物館になっている)のように、ディズニーシーに負けないくらいスペインの建物や街並みを表現している右側のエリアが混在している点は、大人も子供も楽しめるという点では良いのかもしれませんが、統一感の無さという意味では評価が分かれるところではないかと思いました。

個人的には、熟年夫婦など遊園地には興味のない旅行者なら、左側エリアに立ち寄らず、右側の建物エリアを散策して施設内の風景を生かしたレストランでワインと質の高いスペイン料理だけを楽しみたいと思うのではないかと思われます。そうした意味では、遊園地エリアと街並みエリアを分けて、共通パスポートのほか、一方だけの入園もできる方式も考えてよいのではと感じました。

私自身は、街並み群や風景など(右側エリア)はとても好ましく感じましたが(但し、宝探しコーナーには異議ありですが)、夏休み時期の割りにさほど混雑していないようにも感じましたので、HISや星のやグループなどに相談して、センスや集客のための工夫・リニューアルを考えた方がよいのではと感じました。

すでになさっているのかもしれませんが、例えば、パレードなども、世界遺産のTV番組に出てきた、バレンシアの巨大人形(それと似たものがハビエル城内にも展示されていました)を生かした火祭りなど(可能なら、一般客の参加的要素も導入したもの)も取り入れることができれば、ディズニーと差別化した、「ここだけの本物の魅力」を伝えられるのではと思いました。

また、ドンキホーテ物語が元になっているらしい、私自身は見たことのないオリジナルキャラクター群(ミッキーマウス達のようなもの)が色々と存在感を主張していましたが、「本家」ディズニーが成功している一番の理由は、自ら次々に新たな映像作品などを世に送り出して、施設の改装などに生かすことで、リピーターなどの集客に繋げているという点にあると思われ、この点(メディアミックス戦略やそれを前提とする知名度獲得のための全国的、世界的な努力の欠如)は、このパークの最大の課題ではないかと感じました。

この日の宿泊は、志摩を代表する「的矢かき」の料理旅館という、「いかだ荘山上」さんにお世話になりました。私自身は牡蠣にさほど関心がありませんが、同行者が牡蠣に執着する御仁のため、岩ガキのコース料理には十分に満足していたようです。

また、この宿はスペイン村からほど近くにあるため、スペイン村を一旦切り上げて4時到着→風呂と夕食→スペイン村に送迎(パレードと花火鑑賞)という有り難いサービスを受けることができます。我々の宿泊日にはこのサービスの利用者は多くなかったので、この点は、もっと認識・活用されてよいのではと感じました。

お店の資料によれば、海上の筏から吊して牡蠣の養殖を行う方式を世界?で初めて行ったのが的矢湾で、その方式を開発したのが東北帝大の出身の方であり、「いかだ荘」は、その方の勧めで開業したのだそうです。
http://ikadasou.jp/

三陸も言わずと知れた牡蠣の名産地ですが、牡蠣の養殖文化のルーツを知るという点でも、東北人にとっては、志摩地方・的矢湾に足を運ぶ意義は大いにありそうです。

ただ、志摩は温泉が湧出する場所が限られているようで(或いは、温泉排水による漁業権との利害衝突が絡んでいるのかもしれません)、こちらの旅館も、温泉付きでないため、その点は実に惜しいと思いました。また、私は海産物(生もの)はなるべく端麗辛口の大吟醸で頂戴したいので、その点もご検討いただければ(或いは、南部美人をはじめ岩手の酒造メーカーも、牡蠣つながりなどと銘打って、営業活動を行っていただけば)と思っています。

独り立ちできぬ勝者なき岩手の政治と県民の課題

夏休みの関係で投稿が少し遅れましたが、先日、平野達男参院議員が岩手県知事選の出馬断念を表明するというニュースがありました。ご自身は、復興のあり方を争点としたかったのに、安保法案への賛否が投票動向を左右する事態になっていることが不本意だと表明する一方、報道によれば、自民党本部から、知事選と参院補選の双方の敗戦が危惧され政権に影響を及ぼす事態になるのを避けたいとの理由で、強い撤退要請があったとされています。

私は、平野氏が出馬表明した本年4月の時点で、「平野議員と達増知事の基礎票は拮抗しており、無党派層の動向で勝敗が決するのではないか」とブログで投稿したことがあり、無党派層の一人として、両候補の健全な政策論争を期待していただけに、残念でなりません。
→ 次の知事選(いわて夏の陣)と無党派層の決定的な影響力。

ただ、この4ヶ月弱の期間を見ると、平野氏が、挑戦者であり現職の達増知事よりも無党派層へのアピールを強く求められる立場のはずなのに、県内世論に伝播する方法で広く政策や政見を表明するような行動が全く見られない(要するに、存在感のない)状態が続いていたと思います。そのため、安保法案問題も相俟って、現状なら達増知事の勝利ではとの印象は私も受けていました。

とはいえ、岩手は沖縄と異なり、安保法案に関する国内世論が有権者の投票動向に決定的な影響力を及ぼすわけではありませんし、平野氏自身、安保法案や議論には関与していなかったのですから、県知事選を戦い抜きたいのであれば、県内世論の関心を喚起する論点、議論を次々に打ち出して、安保法案の動向に関係なく平野氏個人に投票したいという無党派・浮動層の開拓に努力すべきだったということに尽きると思います。

仮に、平野氏が、2年前の参院選の頃から、沿岸・内陸を問わず岩手の活性化のための様々な施策を独自に掲げ、無党派県民を巻き込み達増知事に議論を挑むような営みを地道に続けて、「平野党」を形成することができていれば、自民党本部から撤退要請がなされることもなく、あったとしても跳ね返すことができたのでしょう。

そうした観点からは、平野氏の知事選表明も、風だのみ、自民系の支援頼みという程度のものとの誹りや、政治家としての求心力、メッセージ性、或いはそれらの前提としての、千万人といえども我行かんという強い意志、知事として、岩手のため特定の事柄(政策その他の権力作用)を誰が何と言おうと実行したいという「政治家としての意地・執念」の不足という批判を免れないということになるのかもしれません。

選挙自体は、他に対抗馬も時間もないということで、達増知事の無投票再選が確実視されていますが、岩手の将来に関する色々な論点・実現のプランを、候補者等が多様な角度・立場から議論し、競い合い、それを県民が選択する機会が失われたという点では、民主主義(住民自治)の後退というほかなく、残念です。

達増知事にしても、無投票より選挙で民意の承認を得た方が、ご自身の政治的基盤の強化という点で遥かに価値があったはずで、現時点で勝利が有力視されていたという面から見ても、必ずしも今回の撤退劇の「勝者」と評することは出来ないと思います。

今回の撤退劇では、平野氏は政治家としての権威が地に落ちたと言わざるを得ないのでしょうし、自民党本部も、「撤退のごり押し」の印象を残し、岩手県民が中央政権への反感のDNAを有することに照らしても、選挙で負けるのに劣らないほど「敗者」のイメージを生じさせたと言ってよいと思います。

他方、達増知事も、小沢一郎氏の政治判断の追従者ないし信奉者というイメージの強い方ですし、県知事としても、特定の政治理念、政策を掲げて実現に邁進しているという印象が乏しく、震災絡みであれそれ以外であれ、県民世論や県当局が課題として取り上げた論点、政策を淡々と取り組んでいる方という感じがします。

例えば、初当選時に掲げた「いわて4分の計」は、当時の民主党が地方自治の単位(市町村)を大きくする政策を掲げていたことと関わりがあるのだと思いますが、震災後は聞くことがなくなりました。その後は、震災における「なりわいの再生」の強調に見られるように(漁業に関し、外資導入を指向して地元漁協と対立した宮城県と異なり、小規模漁協や零細漁業者の再興を重視しているのが典型ではないかと思われます)、小規模な地域・単位向けの政策へのウェイトが高くなっているように感じます。

そのため、達増知事にとって今回の選挙は、ご自身の政見や政策を再検討し、ポスト小沢氏時代に県政界をリードする政治家として、独自の政治理念、政策を県民にアピールし、求心力(権威性)を得る絶好の機会であったというべきで、ライバルを倒すというプロセスを経ない無投票再選が、その機会を奪ってしまう面は否めないと思います。

また、階氏などの民主党(岩手県連)勢力も、「平野氏を引きずり下ろした」などと言えるだけの役割を果たしたとは言えないでしょうし、ポスト小沢氏時代に向けて、選挙という達増知事側との分かりやすい関係修復の機会を失ったという点でも、勝者とは言い難いと思います。

敢えて言えば、平野氏が県知事選に出馬した場合に生じた参院補選について、階氏らが、もと生活党の畑氏(久慈出身)を強く推しており、他方で、小沢氏が、県南出身者を立てるべきと主張していた関係で、再度の対立劇を回避したという点では得るところはあったかもしれません。

しかし、平野氏撤退の原因とされる自民党の選挙予測からすれば、小沢氏勢力との軋轢を覚悟の上で、畑氏を担いで当選を実現させていた可能性も相当にあるように思われます。その場合、小沢氏の県内での影響力は、決定的と言ってよいほど低下する(それに代わって階氏らが県内政界の第一人者としての認知を受けた)のでしょうから、そうした機会を失ったという点でも、階氏らも勝者とは言い難いというべきでしょう。

このように、今回の平野議員の撤退劇は、勝者なき結末というに止まらず、平野議員は自民党本部から、達増知事や民主党は小沢氏から、独り立ちして闘う力があることを示すことができなかった、又はその機会を失ったという点で、「いわての政治」の未熟さを感じさせた面があるように思われます。

もとより、その根底には、県民が、広く県政のあり方を議論し、適切な指導者を押し立てて地域の新たな姿を切り開こうとする政治文化の不足があるというべきで、一部の政治指導者の方だけを非難するのが誤りであることは、申すまでもありません。その点では、自らの投票動向で知事を選び新たな政治潮流を作り出す機会を失った県内の無党派層こそ、己の力不足の必然的な帰結とはいえ、一番の敗者というべきなのだろうと思います。

裏を返せば、左右などの立場を問わず、従来の政治的、利権的な枠組みの維持(変革の拒否)=政治の沈滞を希望する守旧的な勢力こそが、今回の撤退劇の一番の勝者というべきなのかもしれません。

実際、撤退劇に伴う「無党派層のしらけムード」により、県議選や盛岡市長選などは投票率が大幅に低下すると予測され、そのこともまた、投票率の増加(無党派層の政治的プレゼンスの増大)を希望しない勢力にとっては、歓迎する事態ということになるのでしょう。

それらとの対比では、「琉球人の意地」を背負って闘っているように見える翁長知事を擁する沖縄県や、保守層出身でありながら地域のアイデンティティを強力に主張し国と闘うリーダーを出現させている沖縄県の政治文化(その根底にある経済力)を、羨ましく感じる面があります(もちろん、その背景に沖縄の苦難があることも看過すべきではありませんが)。

岩手ないし北東北でも、琉球人ならぬ「蝦夷の末裔」としてのアイデンティティを掲げて「政府からの自立と興隆」を打ち出そうとする指導者の登場や県民個々の尽力をはじめとする政治文化の醸成を願うばかりです。

その意味では、「補助金に頼らず商業施設の地道な利潤による公的施設の運営コストの捻出」を旗印にしているオガール紫波は、その萌芽と言えるのかもしれませんし、これと同じように、中央の政治力や資金力、権威ある大物に依存せず、自身の信念と用意周到な努力により新たな価値を創出する営みが、広く求められているのだろうと思います。

沖縄放浪記(那覇出張と「残念な小話」)

岩手で弁護士をしていると一生に一度もあり得ないような話ですが、昨年、岩手に本社のある会社さんから、沖縄の企業との紛争に関するご依頼があり、半年ほど那覇地裁に係属する訴訟を手掛けてきました。で、先日の月曜に当事者の尋問があり、仙台空港便が1日1本しかない関係で、日曜に仙台空港から那覇に行き、火曜に帰ってきました。

初めての沖縄だというのに、直前まで尋問事項づくりに追われ、何も計画のないまま出発したものの、やはり勿体ないということで、時間の許す限り、色々と歩いてきました。

歴史ネタを中心に、考えたこと、書きたいことは山ほどありますが、仕事が山積していることもありますので、先に「残念な話シリーズ」だけ書きます。

①往路機内で、ひめゆりの塔が空港から割と近いことを知り、もともと沖縄に初めて行く本土人は、ひめゆりの塔と平和祈念公園に行かなきゃ駄目だろうと思っていた手前もあって、急遽、レンタカーを借りて出発。

が、空港着が3時、レンタカー出発が4時と出遅れた上、アウトレットの大渋滞のため通常より大幅に遅れ、5時過ぎ到着=ひめゆり平和祈念資料館の入館締切時刻に間に合わず。

②おまけに、レンタカー営業所行きのバス内に記録一式等が入った旅行用バックを危うく忘れそうになる。

③ひめゆりの塔→魂魄の塔→平和祈念公園のあと沖縄本島南部の絶景№1スポットと称されるニライカナイ橋に向かうも、なぜか下から上に向かって走ることになり、「絶景」を背にして橋の下部ばかり眺めて走行していた上、登り切った時点でレンタカーの返却時間に到底間に合わない感じになり、絶景の展望場所(引用サイト参照)まで歩くのを泣く泣く諦め、絶景を一切見ることなく終了。
http://sumalove.jp/8137/

余談ながら、この橋のすぐ近くに沖縄刑務所があり、しかも現在の那覇地裁の建物は、旧・沖縄刑務所の移転跡地に建てられたものとのこと(我が国の裁判所等は、大抵は城の近くに作られるので、首里城から遠く離れた場所に官庁街が作られていることに、遺跡保護や景観等の事情がありうるにせよ、少し意外感)。

④沖縄に誰も知り合いがいないので、1日目も2日目も夜はさびしく一人居酒屋(尋問当事者である当方関係者は、他の空港からの前夜着の日帰りでお付き合いいただけず)。

国際通り近くに宿泊したせいか、酒場放浪記に出てくる「おひとりさま向けの、お店の人と雑談できそうなカウンター形式の小料理屋」が見つからず、大勢の団体客の隅っこで本を片手にポツンと食べる(2日目は中国系アジア人家族客ばかりの「琉球舞踊の観覧付き料理店」に紛れ込んでしまい、外国で旅行してるような感覚でした)。

仙台空港行きの電車内で、「事前に、沖縄弁護士会に『震災直後から支援活動に携わった岩手の弁護士の有り難い体験談を聞いて、一緒に酒飲みに付き合ってくれる奇特な人この指止まれ』とFAXすれば、若手の1人2人くらい釣れたのかも」と後悔するも、時すでに遅し。

⑤月曜の尋問後、裁判官から和解協議の申入があり予定時間より大幅に遅れて終了。さすがに「観光しますんで協議には応じません」とは言えず。沖縄弁護士会館に寄り道するなど道草を食ったこともあり、首里城本体を見るのが精一杯で、識名園はおろか、玉陵も時間切れで行けず(玉陵は、先に終了だと気付いていれば、先回りして間に合ったと思うと悔やまれる)。

⑥旅行会社からTギャラリア(旅行者向け高級ブランド免税店)の1000円割引券を貰っていたのに、その日に限って忘れる(それを理由に、見るだけショッピングで終了)。ホテルの朝食も寝過ごすなど、毎度ながら金券類の無駄が甚だしい。

⑦最終日も寝坊して玉陵や識名園に行けず、県立博物館(兼美術館)の常設展示だけ見て帰る。ちなみに、ここの建物は、何となく最高裁に似ています。

⑧登山したわけでもないのに、足に結構マメが出来た。

とまあ、沢山の宿題が残った沖縄行きでしたので、受任事件を解決させた上で、次は何とか頑張って旅行者として訪れたいと願っています。