北奥法律事務所

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ブログ

不動産売買における説明義務、情報提供義務(論文紹介)

判例タイムズ1395号に掲載されている裁判官による論文です。

不動産の売買に関して、購入後に不測の損害を被った買主が、売主や仲介業者に対し、「買主に不利益となる情報について説明すべき義務があったのに、それを説明しない義務違反行為がある」と主張し損害賠償や契約解除を求めるなどして紛争になった様々な事案を紹介しており、それを通じて、裁判所の判断の傾向を明らかにすることを目的とした内容となっています。

紛争の類型に関しては、例えば、眺望系(マンション購入後に期待した眺望が得られなかった例)、不法投棄・土壌汚染系(購入地の地下に不法投棄等が判明した例)、土地の利用に様々な制限があることが判明し購入目的(特定の建物の建築等)が実現できなくなった例など、多岐に亘っています。

判例を紛争類型ごとに整理すれば、この種の論点に関し相当に知識、理解が深まることは間違いなく、この種の問題に直面し易い地元の不動産業者の方向けの勉強会の講師などをお引き受けする機会でもあれば、そうした作業をする意欲も湧きますので、どなたかお声をかけていただければ幸いです。

 

会社の再編を巡る裁判例と問題点(論文紹介)

判例タイムズ1394号に掲載されている裁判官による論文です。

会社再編とは、狭義には会社の合併及び分割、株式交換・移転を指し、広義には事業譲渡・組織変更も含めて捉えられる法的営為の総称です。

論文では、これらを巡って生じる紛争の類型ごとに、その類型(論点)に関して生じた近時(平成20~24年)の裁判例を整理し紹介しています。

紛争類型(論点)としては、①再編の効力が争われる場合、②会社と株主との紛争、③会社と取引先・労働者との紛争、④役員責任紛争に分けて整理しており、特に、再編に反対する株主等の買取請求と価格算定に関する裁判例が、近時では最も多い判決があったとして、多数紹介されています。

東京時代は、会社の経営陣(オーナー兄弟)の確執により生じた、会社支配権の争奪戦的な面の強い多数の訴訟に関わらせていただいたこともありましたが、地元の有力企業の方々へのツテも無いに等しい田舎の町弁をしていると、この種の紛争にはすっかり縁遠くなってしまいます。

少し前に法人内部の地位確認紛争や役員の責任追及に関する訴訟に携わったこともあり、会社法へのご縁が全く無くなったわけではありませんが、もっと中小企業向けの法的問題に関わる仕事や勉強の機会を持てればと残念に思っています。

たまに、この種の論文をチラ見したり裁判例をデータベースにまとめたりして、若干は近時の議論をフォローするようにはしていますが、事件とまではいかなくとも、例えば、この種の企業法務に関するショートセミナー等のご依頼でもあれば、論点や事例の基礎的な説明ができる程度に勉強する機会になりますので、そうしたことに関心のある方がおられれば、一声いただければなぁと願っています。

「小保」な人々のルーツを求めて

昨日あたりから、iPS細胞に続く新万能細胞の作製を実現したとして、小保方さんという女性の方が報道され、一躍時の人になっています。

私も「小保方」という名字がこの世にあるということを初めて知ったので、小保方という姓は「小保内」の姓と関係があるのだろうか?と不思議に思い、少し調べてみました。

で、ネットですぐに出て来たのは、群馬県伊勢崎市内に小保方という地名があり、江戸時代から東小保方村・西小保方村という村があって、その地域に住んでいる方は、小保方という姓を名乗ることが多いという話でした(もちろん、そのことと冒頭の小保方さんとのつながり等は一切不明です)。

他方、肝心の「小保方」という姓ないし地名の由来等に触れたサイトまでは発見できませんでした。江戸時代より前は別の地名だったと書かれたサイト(小保方地区にある神社について触れたもの)も見かけたのですが、真偽は不明です。

ちなみに、「小保内」姓のうち、私の一族(本家)の発祥については、江戸時代初期から二戸に在住していたことは間違いないとされており、また、桃山期には秋田県田沢湖周辺(現・仙北市、旧・田沢湖町=生保内町)の領主?をしていたとの伝承があります。

以前、私の本家のルーツについて色々と調べたことがあり、いずれ長々と書いてみたいと思っているのですが、少なくとも、「小保方」という姓や地名と接点があるという話に接したことはなく、残念ながら無関係と思われます。

ちなみに、小保内の「内」はアイヌ語の「沢(小川)」を意味すると言われており、この点は、「ナントカ内」が山ほどある北海道に見られるように、よく知られた話かと思います。

他方、肝心?の「小保」の由来は何を調べても見かけたことがなく、未だに謎です。

ちなみに、福岡県大川市(佐賀市との県境で有明海に面する場所)には、「小保」という地名があるそうですが、こちらの地名の由来も不明です。また、読売新聞の4コマ漫画「コボちゃん」は、wiki情報によれば、主人公の名前が「田畑小穂」で、作者が幼少時に「小さい子」の意味で呼ばれていたあだ名に由来するとありますので、「小保内、小保方」等とは何の関係もないようです。

というわけで、「小保(内)」や「小保方」などの由来をご存知の方がおられれば、ぜひご教示いただければ幸いです。

追記(2.1)

この記事をfacebookに投稿した後、他の方から「古代の常陸の国に勢力を伸ばしたオホ氏という人々がおり、多氏とも呼ばれていた」等のお話を伺いました。

wikiでは「多氏」について「於保とも記され」とあり、思いつきレベルの仮説として、遙か古代に、多氏(古い皇族と述べているものもあれば、渡来人である秦氏から分かれたものと記載するものもあります)の一族から分かれた人が、「オホ氏」となって常陸を中心とする東国に分布し、その中で、秋田県田沢湖周辺に住むようになった人が、アイヌ語の「ナイ」と組み合わせて、「小保内」を名乗るようになった(或いは、その流れの中で小保内の姓や生保内の地名が成立した)、ということも考えられるかもしれません。

私も、多少の壁にめげることなく?、さらに調べて分かったことがあれば、またネタとして書いてみたいと思いますが、私のことを書いても世間の注目は浴びないでしょうから、便乗?したい身として、小保方さんの益々のご活躍を祈念しています。

DV防止法のH25改正に基づく活用(同居中の交際相手からのDV)について

判例タイムズ№1395号に、DV防止法(配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律)の平成25年改正に基づく保護命令手続の運用に関する解説記事が掲載されていました。

改正法で、これまでは保護の対象にならなかった「生活の本拠を共にする交際相手からの暴力」に対する保護を含むことになりました。

記事では改正法に基づき被害者が裁判所に対し、加害者に住居からの退去や接近禁止を求めるための申立書の書式等を掲載しています。

保護命令の申立は自治体の相談窓口で支援業務を行っているため、弁護士に依頼せずにご自身で申し立てる方が少なくないようで、私に関しては、これまで代理人としての申立経験はありません。

これまで関わった例としては、申立を受けた方が後日に申立人から別件訴訟を提起された件や接近禁止命令に反して子に会いに行って逮捕された方の刑事事件などがあり、前者については、暴力を行っていないと主張している相手方(被申立人)の立場で、保護命令を争うべきか法的論点を検討したことがありました。

この論文も、申立を受任する場合はもちろん、改正法で対象となった事件について申立代理人以外の立場で検討する機会にも参照価値がありそうです。

少し前に、被災地ではストレスが昂じてDVに及ぶ例が増加しているという話を聞いたことがあり、今後も出番が増えてくる法律であることは確かだと思います。

 

五戸と菊駒へのいざない

少し前の話ですが、父の葬祭の最中に今度は青森県五戸町に在住の母方の伯父が亡くなったとの知らせを受け、私も一度は葬儀に出席すべきということで、先日、通夜に出席してきました。

私の母も五戸町の出身で、小学3、4年頃までは、半年に1回以上の頻度で母の実家を訪問し、当時は大家族であった実家の方々に可愛がっていただきました。

当時は、私は自分の生家(父方)にあまり居心地の良さを感じていなかったせいか、不思議なほど母の実家の方が、楽しかった思い出ばかりとの記憶があり、また、どういうわけか、子ども向けのテレビ番組について、母の実家で視聴した記憶だけが残っている(自宅で見た記憶がほとんどない)という不思議な感覚があります。

具体的に言えば、「ウルトラマン80」、「ザ・ウルトラマン(アニメ)」は五戸で見た記憶しかなく、ガンダムも五戸で見たときの記憶の方が鮮明に覚えているという有様です(黒い三連星の回だったせいかもしれませんが)。

幼少時、自宅のテレビは父が野球中継、祖母が時代劇(水戸黄門等)と横溝正史シリーズで占領していた記憶しかなく(後者は私も一緒に見ていましたが)、そうしたことも影響しているのかもしれません。

それはさておき、通夜の際には、予定時刻より少し前に到着したので、五戸の中心街などを少し自動車で散策しました。

私の場合、小学校高学年に達した頃には、母が私達兄弟を連れて実家に帰ることがなくなり(兄が中学に達したことが関係しているのか、その辺はよく分かりません)、それ以後、五戸に行く機会が全くなくなり、7、8年前に、青森地裁に一度だけ自動車で行った帰りに、高名な馬肉店(尾形)で馬刺を買って帰るため五戸を少し垣間見たという程度です。

が、改めて五戸の中心街を廻ると、私の子供の頃の風景がかなり残っており、また、二戸をはじめ岩手の主な市町村では薄れてしまった独特の香気というか、昭和の風情や気品を色濃く残しているものがありました。

五戸の中心部は斜面に沿って形成されており、最下部に五戸川と後記の菊駒酒造があります。岩手には、傾斜地に古い街並みが形成されている町自体が全くと言ってよいほど存在しない上(敢えて言えば花巻駅前付近くらいでしょうか)、県北などでは二戸のように旧街道沿いに一直線の街並みになっている場所が多く、斜面に密集するような形で中心部(旧市街)が形成され、今も一定程度は保全されている町は、北東北でも珍しい部類に入ると思います。

そうした意味では、古い街並みが好きな方にとっては、歩いて楽しい場所であると思います。中心部だけでなく、川原町を中心とする五戸川のエリアも独特の風情があります。

ところで、二戸に南部美人があるように、五戸には「菊駒」という日本酒(銘柄)を製造している長い歴史のある企業(現在は、菊駒酒造という会社名)があります。 http://www.kikukoma.com/

私の実家は酒類卸をしている関係で、成人後(司法修習の際や受験生時代の合宿時)に実家から日本酒を送って貰うことがあったのですが、その際は、二戸の酒である南部美人と、五戸の酒である菊駒の2つを送って貰っていました。

南部美人は、今やすっかりメジャーになったのでご存知の方も多いとは思いますが、飲みやすい酒で、とりわけ大吟醸は刺身や上品な和食と非常に相性がよく、日本酒に苦手意識のある女性の方なども安心して飲める酒だと思います(修習生の際には、クラスの方々への社交道具として、大いに重宝しました)。

他方、菊駒は、私の感覚では南部美人よりも重く力強い酒で、日本酒が心底好きな人に向いており、酒肴も、刺身などあっさりした上品なものではなく、塩辛や酒盗のような味の濃いものと非常に相性がよいと思います。修習生の際にも、そうした理由で自分は南部美人よりも菊駒の方が好きだと仰る男性もいました。

いわば、双方は個性が全く異なる好対照をなす酒であり、飲み比べながら双方とも大いに味わっていただきたい銘酒同士と言えると思います。

ただ、青森の方はご存知かも知れませんが、ここ十数年は順風満帆そのものの南部美人とは逆に、菊駒は、その間、協力関係にあった八戸のメーカーと紛争が生じるなど苦難の道を歩んできました。

私は経営者の方を存じているのですが、現在はその問題も終息し、長い歴史のある酒造家を継いだ若い真面目な社長さんを中心に、懸命に酒造りを続けておられます。

そんなわけで、二戸及び南部美人だけでなく、五戸及び菊駒も大いに贔屓にしていただければというのが、2つの街にルーツを持ち、2つの銘酒に浅からぬ縁を持って生きてきた私からの皆さんへのお願いです。

最後の代表的二戸人

1月4日に父が亡くなり、13日の葬場祭まで色々と対応に追われました。葬儀の段取りなど大半の実務は喪主である兄に任せきりで、私は多少の手伝いをした程度ですが、10日間ほど毎日のように自動車で二戸に往復し、心身ともに多少は疲労を感じています。

ともあれ、ご参列、弔電、供花など、父の弔いにご配慮を賜りました皆様には、改めて御礼申し上げます。

この間、HPの更新等も差し控えていましたが、50日間(神道の忌中期間)も差し控えるのもいかがかと思いますので、本日以後、更新を再開させていただくつもりです。

父は、癌のほか、かなり以前から糖尿病や心筋梗塞など様々な病気を患い、生死の境を行き来するようなことも一度ならずありましたので、私達家族にとっては「突然の訃報」ではなく、ここまで生き続けることができたことの方が奇跡的なことであると、私自身は淡々と受け止めているというのが正直なところです。闘病生活に関しては、遠方で生活する私はほとんど役に立つことはなく、兄と母に任せきりでしたので、父への弔いに劣らず、兄と母に感謝の言葉を述べなければならないと思っています。

私の実家は今は昔日の勢いはありませんが、曾祖父が商人として成功し、少なくとも数十年前は二戸でも有数の商家と目されてきました。父も、先代までに築かれたものを引き継ぎ、流通業に押し寄せた荒波から家業を守り抜くと共に、地域社会や所属業界等の様々な役職等をお引き受けし、その責任を全うしてきたことは間違いありません。

その点では、誰にも恥じることなく往生を遂げたものと、遺族としては理解しています。

父は昨年末頃、やり残したことが幾つかあるので、あと3年は生きたいと申していましたが、心はともかく身体が燃え尽きてしまったというほかなく、その点は致し方ないものと認識しています。

父をご存知の方なら共感いただけると思いますが、父は、単に地域の小企業の経営者であっただけでなく、朴訥・愚直な性格であると共に、里山の枯れ木に話の花を咲かせるような「田舎の気さくな好々爺」という一面もあり、様々な意味で、「質実剛健」などの言葉に代表される二戸の気風を体現する人でもありました。

以前、某社の二戸支社にお勤めの方と親しくなった際、「二戸の三悪」という言葉があると教えて貰ったことがあります。いわく、①福岡高校出身者、②野球部出身者、そして、③「だんなさま」(地域の有力者)が地域に隠然たる力を持ち、それが北東北の田舎にありがちなある種の閉鎖的体質と相俟って、様々な弊害を地域に生じさせている、というものでした。

「悪」かどうかはさておき、地元で著名な商家の後継者であると共に、旧制福岡中学の最後?の入学者にして発足間もない新制福岡高校野球部のレギュラー選手でもあり、長期間に亘って福高野球部のOB会長を務めていた父は、二戸のキーワードというべき上記の三大要素のすべてを強く備えた人であったことは確かです。

そして、数十年前、福高・野球部そして二戸の社会が、恐らく今よりも強い輝きを放っていた「古き良き二戸」の時代をよく知る者の一人として、その誇りと価値を守り、ささやかながらも次代に語り継ぐ役割を懸命に果たしてきたと思います。

反面、幼少期の私の実家は昼夜とも多くの人が出入りする特殊な家であり、私達家族はそうした「普通の家庭にはない光景」と否応なく向き合わなければならなかった上(母をはじめ家の者の負荷も決して軽いものではありませんでした)、当時の父は多忙等を理由に家族を顧みることがほとんどなかったことなどから、少年時代の私は、正直なところ父とは良い関係を持つことはできませんでした。

父が背負うものが「古き良き二戸」であればこそ、光には影が伴い、光強ければ影もまた濃しというように、私自身は古い商家には避けがたく生じる光と影の双方に時に翻弄され、複雑な感情を抱きながら育った面もありました。

とりわけ、中学卒業後に郷里を遠く離れ、運動能力に極端に恵まれず、家業とも無縁の道を歩んだ私にとっては、未熟なまま郷里を遠く離れて生きる身の支えとして郷土の様々なものに強い執着を持ちつつ、他方で、それと対をなすように、自分は郷土で生きることができず故郷に居場所を持てなかった人間だという屈折した思いもあり、郷里に対するそうした愛憎のような思いが父への感情と重なる部分があったことは確かだと思います。

幸い、私も成人した頃には父とは良い関係を持つことができるようになり、また、父も新旧の価値観の挾間で時に悩み、父なりに色々と犠牲も払って家業と郷土を支えてきたことも多少は理解できるようになりましたが、私も自分のことで精一杯の日々が続いたこともあり、結局、子供の頃の断片的な思い出とは別に、大人同士としての父子の交流や共に何かを作り上げるような機会を持つことはほとんどできませんでした。

ただ、1月2日、私の出身中学(二戸市立福岡中)の歳祝いの会(同窓会)があったため、2日と3日に帰郷し、昨年末に病院から帰宅した父も含め、家族4人だけの時間を過ごすことができ、その点は私にとっては最後の良い思い出になりました。

3日には、朝に盛岡に戻るつもりでしたが居間で寝付いてしまい、気が付くと居間に敷いた布団で寝ている父を含む家族4人が居間で一緒に雑魚寝するような状態になり、小学生の頃、親子4人で夜に麻雀をした頃のような懐かしさを感じることができました。私には、恐らくそれで十分なのだと思っています。

ともあれ、私にとって、父は故郷を象徴するような存在であり、現に、身内が申すのも恐縮ながら、父が二戸に多くの足跡を残してきたことは確かだと思います。それと共に、私が幼い頃に憧憬と反感を抱いた、様々な方が絶えず集まってくる古い我が家、それは、多くの方が、家業の名称でもあり、曾祖父以来、祖父と父が襲名した名前をもとに「小岩」と呼んできた場ですが、私の知る「古き良き小岩」は、父の死により、名実ともに終焉を迎えたのだとも思っています。

しかし、「古き良き小岩」が終わっても、家業と私の実家が終わったわけではありません。兄は些か出不精(引っ込み思案?)なところがあるものの、相応の商才と父の持つ地域のリーダーとしての将才(器)を受け継いでおり、父の遺志を踏まえつつ、兄なりの方法で実家と家業を盛り立ててくれるものと信じています。

実家の家業に関わっておられる皆様や二戸の皆様におかれては、末永く兄と家業をご支援下さるよう、深くお願い申し上げます。

私は、次男という、ある意味、家にとっては「出番が来ないことが幸せ」というべき立場に生まれ育ちました。そんな自分が、法律家という、これもある意味、「(弁護士が必死に主張立証を尽くさなければならない深刻な法的紛争という)出番が来ないことこそが社会にとっての幸せ」というべき仕事に就いたのですから、不思議なものを感じますし、それが自分らしいのではないかと思っています。

私にとっては実家の円満な存続と精神的なものを含めた次代への継承こそが実家に対する最後の望みですので、今後も私の出番が来ないことを祈って、私なりに公のためにできることを模索しながら、遠くから静かに実家と二戸の社会を見つめ続けたいと思っています。

明治の思想家・内村鑑三の著作に「代表的日本人(Representative Man of Japan)」という作品があります。西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、日蓮上人などの人物とその思想を海外に紹介する内容となっており、明治期の日本が、海外(欧米)に対し、日本の伝統的な精神文化の積み重ねと価値(キリスト教の精神文化に劣らぬ深さを持っていること)を理解して欲しいとの思いで書かれた作品と言われています。

諸説あるものの、ケネディ大統領が、この本を読んで「自分が尊敬する政治家は上杉鷹山である」と述べたとの逸話があり、同時代に記された新渡戸稲造の「武士道」と同様に、多くの影響を当時の欧米社会に与え、新参者たる明治日本が当時の国際社会に加わっていく上で、大いに資するところがあったと考えられます。

仮に現代の我々が「代表的二戸人」という本を作るとすれば、多くの方が、九戸政実、田中舘愛橘、国分謙吉、相馬大作といった方々を挙げるでしょう。二戸の歴史をきちんと勉強した方なら、私達の本家が維新期に輩出した偉人である、小保内定身氏も入れてくれるかもしれません。

しかし、私にとっては、父こそが、その本の締めくくりを飾るに相応しい、最後の代表的二戸人です。

今、その大きな星が天に召されました。しかし、その光は最後に弾け、身内に限らず二戸を愛する多くの方々の胸に、光の欠片が届いているはずです。

ぜひ、その光を手にとって受け継いでいただき、それを踏まえた新たな価値を二戸の社会に届けていただければというのが、郷土愛を支えに生きてきた父を知る、遺族としての願いです。

大変な長文になりましたが、最後までご覧いただいた方に御礼申し上げます。

 

首相の靖国参拝とアーリントン墓地

購読している日経新聞が積ん読となり、さきほど、10月5日の新聞を読んだのですが、記者コラムで、靖国参拝に関し次のように述べられていました。

「今年の5月に、安倍首相が米誌インタビューに対し『靖国参拝は、米国人にとってのアーリントン墓地(戦没者追悼国立墓地)と同様に自然なことだ』と答えた。

ほどなく、米国の国務長官と国防長官が千鳥ヶ淵墓苑に献花し、国防総省高官が『千鳥ヶ淵墓苑はアーリントン墓地に最も近い存在だ』とのコメントを公表した。

これは、米国が、安倍首相に対し「靖国とアーリントンを一緒にしないで」とメッセージを送ったものに他ならないし、韓国や中国にもその認識(米国は靖国参拝を支持・容認しない)を示したものと見るべきだ。

実際、単一の宗教法人である靖国神社を、米国人戦没者でありさえすれば、無宗教を含むほぼ全ての信教の持ち主の埋葬を受け入れているアーリントン墓地になぞらえるのは無理がある。

安倍首相の言動によっては、日米同盟に対する米国内の支持も一部損ないかねない。両長官は米国民向けにメッセージを発したようで、高等なコミニュケーション戦術と言えようか。」

先日の、安倍首相の靖国参拝は、中韓の反発以上に米国からの「失望」コメントの方が国内の反響を呼んでいたように思いますが、上記のコラムを執筆した方は、当然そのようなコメントを予測していたのだろうと思います。

靖国を巡っては、あまりにも多くの論点が錯綜しており、ざっと考えても、大要、次のような論点が考えられ、個々の論点に関する論者の立場も、モザイク状に入り乱れていると思います。

先の大戦の意義に関する理解(大義の有無・程度)の問題(対東アジア政策を主とする大日本帝国政府の政策ないし統治思想に対する評価などを含む)、

政教分離の問題(最高裁の目的効果基準的な見地からの評価のほか、靖国神社と神道一般との関係(神道内部の路線の違い)なども含む)、

③個々の戦没者・遺族の靖国に対する肯否様々な感情及び信教の自由や思想などの問題(遺族会やその子弟などの肯定的立場と「靖国に祀られない権利」を主張する否定的立場との利害の調整のほか、国民を死地に送り込んだ基盤である大戦時の日本を覆っていた全体主義・集団主義と個人主義ないし人権思想(戦後民主主義)との関係等に関する考察や双方の評価等の問題を含む)、

A級戦犯合祀及びそれに付随する問題(戦没者追悼施設として相応しいのかどうかという議論のほか、前提としての個々のA級戦犯への評価(戦争犯罪者と言うに値するか等の論点)やBC級戦犯或いは戦犯であることから免れた個々の戦争責任者の評価、ひいては極東国際軍事裁判自体の大義云々の議論も含む)

靖国参拝を巡っては、各人の立場が強く出ている個々の主張が全く噛み合わない光景を目にすることが多いと感じますが、その背景にも、様々な論点が整理されずにゴチャゴチャのまま各人の言いたいことばかり声高に告げられていることが、主たる原因ではないかと感じています。

いわば、複雑な事案の訴訟で、裁判所等の強力なリーダーシップによる主張整理が伴わず、当事者が勝手な主張を繰り広げ、不毛な主張書面のやりとりばかり繰り返しているような状態だと思います。

それだけに、あくまで「首相の靖国参拝」を円満に実現したいのであれば、それらの様々な論点を解きほぐし、説得可能な論点について地道な努力を積み上げ、米国や中韓さらには国内も含む主要なステークホルダーが反発するのを不要視ないし躊躇するような環境作りをしなければならないと思います。

そのような努力の光景を欠いたまま、自分達のしたいことばかりを先行させ、結果として価値観を共有していない第三者的な周辺弱者(例えば中韓に工場移転し依存度が高い中小企業など)に損害を被らせることになれば、人心が急速に安倍政権等から離れてしまう可能性も否定できないと思います。

私個人を含め、現在のところ、国際問題等の形で騒がれることのない静謐な環境でなされるのであれば、殊更に靖国参拝に反対しようとまでは思わない(逆に、大騒ぎになるくらいなら自粛はやむなしと考える)立場の国民の方が多いと思われるだけに、この問題に関わっている方々には、冒頭のコラムで述べられているような「高等なコミニュケーション戦術」を学んでいただきたいと思うほかありません。

ともあれ、訳あって、1月1日に東京駅に立ち寄るので、可能であれば靖国神社と千鳥ヶ淵の双方に行ってみたいと思います。

 

龍泉洞とブルーチーズ

以前、TBSの「世界遺産」で、極上チーズを生んだ羊と洞窟(南仏のコース地方とセヴェンヌ地方)が取り上げられており、拝見する限りでは、ロックフォールという世界で最も著名なブルーチーズ(青カビチーズ)の産地となっていることが、世界遺産として認定された大きな要因のように見受けられました。
http://www.tbs.co.jp/heritage/archive/20130922/

そのチーズですが、石灰岩が浸食され網の目のように作られた洞窟にチーズを保管すると、その洞窟にだけ繁殖する菌のおかげで極上のブルーチーズができあがるのだそうです。

で、後で思ったのですが、日本の鍾乳洞も、「石灰岩が浸食され網の目のように作られた洞窟」ですので、例えば、岩手の龍泉洞やその近辺にある幾つかの洞窟で、高級ブルーチーズを製造し、それをブランド化して販売することはできないのでしょうか。

とりわけ、龍泉洞の近辺(北上高地北部)は本州でも有数の乳業が盛んな地域ですし、我が国には高級チーズを国産する文化等があまりない(仏国などから高い代金を払って高級チーズを輸入するのが通例)と理解しています。

最近では、NHKの「プロフェッショナル」で取り上げられた岡山の方のようなケースもあるのでしょうが、岩手でも、そうした試みに挑んでいただける方の出現を期待したいものです。
http://www.nhk.or.jp/professional/2013/1014/

セヴェンヌ地方の羊の大移動と櫃取湿原などの放牧を重ねるなどして、この地域全体のプロデュースも考えていただければ、なお良いのではと思います。

「あまちゃん」と遠距離交際したがる盛岡、奥手な?隣人の八戸

他の弁護士さんのブログでグーグルの検索ランキング(都道府県版を含む)なるものが紹介されていました。昨日の投稿のとおりFB上で「あまちゃん」が話題になっていたので、その点について注目してみたところ「あまちゃん」は「急上昇(全体)」で3位、岩手では1位でした。
http://www.google.co.jp/trends/topcharts
http://www.google.co.jp/trends/topcharts#cid=cities

個人的に興味深く感じたのは、「あまちゃん」の舞台である久慈市は、盛岡ではなく八戸の経済圏であるのに、「あまちゃん」は、青森県のランキングでは全く入っていない点です。青森の3~5位として表示されている項目は岩手県民には馴染みのない話題で、そもそも何なのかすら分かりません。

盛岡駅をはじめ、岩手県内では、久慈から遥か遠く離れた各所で、「あまちゃん」効果にあやかろうと、ポスターその他が散見されますが、先日、八戸を少し訪れた限りでは、「あまちゃん」に触れている(活用ないし便乗しようとしている)印象は受けませんでした。

全国的に見ても、「あまちゃん」は、広域レベルとしては、岩手を舞台にした作品と考える人の方が圧倒的で、この作品と八戸を結びつけようとする動きはほとんどないのではないかと思われます。

そうした意味で、「あまちゃん」(久慈)のすぐ隣人である八戸は、別の県というだけ?の理由で、縁の薄い状態となっているのに対し、遥か遠方にある盛岡等(岩手内陸部)の方が「あまちゃん効果」なるものにあやかろうと、あれこれもがいているという感じもして、地理的に不自然、不合理な感じがしてしまいます。

「あまちゃん効果」なるものを誰がどのように活用し、利益を享受したのか、青森(八戸)の人々は、「あまちゃん」には見向きもしなかったのか、そうでないのか、そうでないのならその原因は何であるか等、久慈を起点にした岩手内陸と八戸との関係なども視野に入れて分析してみると、面白いものが見えてくるかもしれません。

 

ヒッチハイクのIT化による公共交通の補完は可能か

「あまちゃん」効果で今夏の久慈市は観光特需に湧いたそうで、私の周辺でも、妻の友人で東京在住の方が、夜行バスで「あまちゃんバスツアー」なるものに参加され、帰り際に当家に立ち寄っていかれたことがありました。

現在は、特需終了後の反動に対する不安が話題になっているそうで、先日、友人が、FB上で「『あまちゃん』で久慈が脚光を浴びたが、一時的な現象に終わるのではないかとの危惧が大きい。検討すべき論点の一つとして、盛岡等と久慈との公共交通網の整備が挙げられるのではないか」と書いているのを見かけました。

ただ、これだけ、個人による車社会が発達し、バス等の公共移動手段の衰退が激しい現代にあっては、結局は税金依存の道が透けて見えるバス云々よりも、個人の車両を公共移動手段として活用させた方が、個人レベルの広域移動手段の整備としては現実的ではないかという感じもします。

例えば、バス等がほとんど来ない場所を起点に移動したい人(バスの時間に乗り遅れる例も含め)が、通りがかりの一般車両の力を借りて移動できる、ヒッチハイク的な移動方法をより有効活用できないかと思っています。

具体的には、次のようなシステムを考えてみました。

①例えば、久慈地域を旅行中の個人(需要者)が、旅の途中(特に、バス等の便が悪い土地)で盛岡に移動したくなったとする。

②その需要者が、公道を歩行中に、携帯のアプリ?でSOSボタンを押す(できれば、久慈方面から盛岡方面、希望乗車人数1名といった程度の情報は提供する。提供情報はある程度、需要者の判断で増減できるものとする)。

③そのボタンを押すと、半径5?㎞圏内の公道を走行中で、そのシステムに事前登録している車両のカーナビに「SOS信号」が出る(発信範囲(半径㎞数)等は、需要者側で一定の調節ができるものとする)。

④その信号をキャッチした車両の運転者が差し支え(家族連れで座席が満杯等)であればスルーして構わないが、上記の条件を満たす(上記圏内を走行中の)複数の車両のうち、対応してもよいと思った運転者が、その需要者を拾ってあげる(誰かが対応した時点で信号は消える)。なお、誰が誰の車両に乗ったかという情報は、アプリの運営法人を通して一定期間、記録される。

⑤あとは、その運転者が、差し支えのない範囲(例えば岩手町までしか行かない車両ならそこまで)で、その需要者を乗せてやり(この点は、ヒッチハイクと同じ感覚)、需要者は、便宜を受けた範囲で、例えば「バス代よりは少し上」程度の金額を、アプリの運営法人に支払う。

⑥アプリの運営法人は、事前登録(③参照)しているその運転者に、その便宜を行った範囲(距離その他)に照らして相当な運賃(例えば、ガソリン代+α程度など)を支払う。なお⑤や⑥の料金は、予めアプリの運営法人が標準(上限)額の算定のための基準を定めておき、それ以上の額の授受はできないものとする(白タク化の防止)。

⑦上記の支払等は絶対ではなく、需要者がSOSボタンの発信の際に無償の乗車希望を発信したり、運転者が運賃を辞退することもでき、それらの選択は当事者の判断、交渉に委ねる(無償乗車の場合、運営法人への課金も発生しない)。

これなら、旅行者の身元も運転者の身元もアプリの運営法人が把握しているので、見知らぬ人を乗せる・乗る不安も一応解消され、バスやタクシー等の長距離移動について運営側又は利用者側にとって高コストになりやすい手段とは違った、低コストでの個人旅行等を実現することができるのではないかと思われますが、いかがでしょう。

ジョークの類と笑われそうですが、かつてヒッチハイク的に何度か見知らぬ方の車両にお世話になったことのある身としては、現代のIT技術も活かした、なかなか面白そうなシステムと考えます。建設的なご意見を頂戴できれば幸いです。