先般、盛岡市のタウン誌「街もりおか」(2022年9月号)に、下記の文章を掲載いただきました。
数年前にも寄稿したことがありますが、一度、田中舘秀三教授の物語で投稿できればと思って運営の方に相談したところ、快諾をいただいた次第です。
このテーマで文章を書くのも最後の機会になるかもしれず、関心のある方はご覧いただければ幸いです。
【忘れられた盛岡出身の偉人・田中舘秀三の顕彰と映画化を目指して】
皆さんは、明治初めに二戸で生まれ、旧制盛岡中学を経て東京帝大に進み、大戦前後に地理学などの分野で活躍した田中舘秀三・東北帝大教授のことは知っていますか。
ミマツダイヤグラムで世界に名を轟かせた三松正夫氏に火山観測の方法などを指南し、昭和新山の名付け親になった学者さんと言えば、ご存知の方もおられるかもしれません。
しかし、秀三氏が歴史に果たした役割はそれだけに止まらず、太平洋戦争の開戦直後、旧日本軍の侵攻により陥落したシンガポールに突如、単身で現れ、大英帝国が長期に亘り築いた貴重な学術資産や当時の先端的産業研究施設としての植物園(同国唯一の世界遺産である、現在のシンガポール植物園)などを戦争の混乱に伴う散逸や消失の危機から守り抜いた功績があることは、一部の歴史愛好家を除いて、ほとんど知られていません。
この物語は、同国到着直後の秀三氏が、欠かすべからざる相棒として軍に直談判し釈放させ、秀三氏と共に奔走した英国人研究者(コーナー博士)が執筆した、「思い出の昭南博物館」(中公新書)にも詳しく描かれています。
私は平成29年に3日だけ同国に旅行したことがありますが、その少し前に偶然その話を知り、この功績は多くの人々に知られるべきと感じるようになりました。そして、何を血迷ったか?帰国便の中で、突如、「顕彰のための物語を作って映画化を目指したい」と思い立ち、長文のあらすじ案を作成して、当事務所のブログで連載しました。
もちろん、中公新書の内容をなぞっても仕方ありませんので、公知の史実と反しない限度?で壮大感動巨編に仕上げるべく、様々な工夫をしています。
例えば、シンガポール華人大虐殺を行った張本人であり、旧軍の「悪の?カリスマ」としても名高い辻政信参謀との対決や、若きリー・クアンユー(建国の父)との邂逅など、幾つかの見せ場を考えました。また、他作品の真似と言われそうですが、導入部では現代パートを設けて、主人公が秀三氏の物語を偶然知り・・・という展開にしています。
今も、あらすじ案は事務所ブログに載せていますので、興味のある方は、「田中舘秀三物語」などと検索してみて下さい。また、ご希望の方は当事務所Webサイトからメールを送信いただければ、私からPDF版を返信することも可能です(もちろん無料です)。
といっても、「田舎の町弁として地域社会と人々に全力で尽くす」との旗印?のもと、多数の赤字仕事に追われ事務所の運転資金を稼ぐのに汲々とした日々を送る私には、小説を執筆する能力も余力もありませんので、作成したものは「映画化を目指すあらすじ案」に過ぎませんし、残念ながら、5年を経た現在もWebの片隅に埋もれるだけの有様です。
可能でしたら、読者諸氏や本誌の発行などに携わっておられる本職の方々に本格小説を執筆いただくなど、この「たった1人の運動」に皆様のご助力を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
弁護士・北奥法律事務所代表 小保内義和
【備考】
掲載された文章には、秀三教授のお名前に「しゅうぞう」というフリガナが振られていますが、一般的な読み方は「ひでぞう」と思われますので、ご留意下さい。