北奥法律事務所

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盛岡

追憶の欧州とドイツ料理

高1の夏、入試の褒美として、母に「欧州中央(独墺瑞仏)10日間弾丸格安?ツアー」に連れて行って貰ったことがあります(私を口実に本人が欧州旅行をしたかっただけかもですが)。

当然ながら、成人前に海外に行ったのは後にも先にもそのときだけです。

最後に2日だけ滞在したパリも素晴らしかったですが、私は最初の3日間を過ごしたドイツの方が性格(民族気質)的に親近感があり、高校時代は「そこそこの外語系大学に進学→ドイツ留学→中堅商社の現地駐在員→日本と縁を切り独語圏に骨を埋める」という人生に憧れがありました。

残念ながら?憧れは幻に終わる人生になりましたが、そんな事情もあり、いずれはドイツ料理のお店で当時を懐かしむ時間が持てれば・・と思っていたものの、その機会に恵まれないまま、この歳になってしまいました。

というわけで、ゴー券の御利益もあり、先日、現在の盛岡では唯一と思われるドイツ料理のお店に初めて伺い、ようやく年来の希望を叶えることができました。

旅行の際は、中世の宝石箱とも言われるローテンブルグのレストランで昼にいただいた極太のソーセージなどが大変美味しかったことを覚えています。

可能なら、またドイツなど欧州方面に旅行できればと思いますが、時間云々もさることながら、これから十年ほどは「そんなの絶対無理」と感じる綱渡りのカネ負担の日々が続くので、夢のまた夢というのが残念な実情です。

余談ながら、訪問したお店は一皿あたりのボリュームが割と大きく、3~4人で伺うには丁度良いのですが、相応の年齢の夫婦2人だけだと種類をこなすのが厳しいと感じました。

可能なら、量も単価も控えめな小盛りメニューも作っていただければ幸いです。

函館ラ・サール中学・高校の学校説明会と校内レポート番組

2週間ほど前の話ですが、盛岡で函館ラ・サール中学・高校の学校説明会があり、関係者として設営のお手伝いをしてきました。

これまでは学校のご担当(副校長など)が1時間ほど口頭で喋り続けることが多かったのですが、今回担当された教員の方は、ご自身の教え子(難関大に進学した方のほか、運動部などを含めた在学中の生徒さん達)のビデオメッセージを多数揃えて、個別の生徒さん達が、どのような個性の持ち主で、学校・寮生活を通じどう成長したか、という話を詳細になさっていたので、その点は、かなり聞き応えがあったと思いました。

次回(盛岡会場)の予定日は10月22日ですので、対象となりうるお子さんがおられる方、或いはそうしたご家庭や塾・学校関係者をご存知の方は、ご来場(その方々にご紹介)いただければ幸いです。

来場者向けの配布資料が入った封筒を幾つか持っていますので、ご希望の方は、お申し出ください。

数年前にもブログで「岩手など(中学受験が当たり前な首都圏等以外)の子が中学受験や函館ラ・サールに関わる意義」について、掲載したことがあり、ご覧いただければ幸いです。
函館ラ・サール中学・高校の入試説明会と「地方の子が中学受験や寮生活をする意義」 | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

また、1週間ほど前には、函館ラ・サールを取り上げた番組も放送されていました。
https://www.youtube.com/watch?v=DC8JZYyD0fo

映像には建替前の昔の寮とみられる写真も含まれています。当時は100人部屋でしたが、現在は生徒数も減って、50人部屋と呼んでいるようですね。

卯建の上がらない高校生活を送った人間が、なんで出身校の宣伝ばかりさせられるんだというのが正直なところではありますが、お子さんの進学などを検討されている県内等の方は、当方でお役に立てることがあれば、ご遠慮なくお問い合わせ下さい。

 

ふたつの「もりおか」と地域のアイデンティティ

盛岡には「杜稜」と称する施設や団体などが幾つかあり、この古めかしい中国語は訓読みで「もりおか」になるため、盛岡を表す雅語として古くから親しまれており、企業名などを含め、市内で多く使われています。

他方で、先日の地元のネット記事で初めて知ったのですが、中ノ橋・肴町周辺のエリアは「杜稜地区」と称されているのだそうで、その地区に杜稜小学校もありますので、定義が混乱しているというか(「河南地区」とどう違うのでしょう?)、遠方出身のヨソ者には内実が非常に分かりにくい言葉だと感じています。

肴町周辺エリアが杜稜なる名乗りの発祥だという歴史でもあるのでしたら、ぜひご教示いただきたいのですが、或いは、過去の一時期に、そうした「流行り雅語」に飛びついた方々が市内にいて、それぞれが勝手に「杜稜」を名乗った状態が続いて現在に至っただけなのではと想像しないこともありません。

ちなみに、岩手県庁の公務員の方など(外郭団体を含む)が住宅ローン等の際に利用する公務員の互助組織たる金融機関は「杜稜信用組合」というのですが、これは盛岡信用組合と名乗っているものに他ならないので、盛岡以外の出身の県職員等の方々は、名称変更運動をしなくてもよいのかなぁ(アイデンティティを考えれば、岩手公園などよりも遙かに名称変更の必要があるのでは?)と感じないでもありません。

個人的には、「岩手信用組合」だとつまらないので、当県が南部と伊達の混成県であることを踏まえて「ナンダ信用組合」とでも名乗っていただければ、全国の皆さんの関心を惹きつけることができそうな気がします。

かなり前のことですが「杜稜地区」に関する記事を見つけたので、毎度ながら下らないことを考えて投稿させていただいた次第です。
http://www.morioka-times.com/news/2018/1809/28/18092801.htm

啄木の未完の志とふるさとへの宿題

今年のGWは遠出ができなかったので、せめてものということで啄木記念館に行ってきました。

館内は啄木の生涯を簡潔に説明しつつ関連する様々な資料や写真を展示しており、啄木に十分な知識があり関心の深い人にとっては相応に見応えがあるのでしょうが、「啄木とは、どのような人間で、社会に対してどのように意義のある関わり(貢献)をしたのか」についての一般向けの説明(とりわけ、若年者向けのもの)をほとんど見かけません。

そのため「ほとんど何の予備知識もなく啄木の名前と歌人であること程度しか知らない人」にとっては、見ても何だかよく分からないものばかり展示しているだけの施設という印象しか受けないのではと感じました。

私の理解では、啄木の意義(功績)は、明治という曲がりなりにも四民平等(身分制とそれに伴う様々な社会的桎梏からの解放)の理念が掲げられた社会において、一般の人々が自分自身の様々な感情(心象風景)を自分の言葉で伝えることの意義・価値を社会に広めた、言い換えれば、そのような営みを、皆がしていこうじゃないかと働きかけたという点だと考えます。

そして、啄木の歌が今なお多くの人に愛されているとおり、啄木が、平易でありながらセンスのよい言葉(言い回し)を用いた短歌を多く残したことは、聞き手に対し、そのような言葉(表現)の心地よさを感じさせ「自分の言葉で自分の気持ちを語る」ことの意義や価値(人々の心の解放)を、社会に浸透させてきたと言えるのではないかと思います。

現代は短歌という文化自体は当時より廃れたかもしれませんが「自分の気持ちを平易な言葉でセンス良く語る」という文化は、この100年以上の期間においてポップミュージックの気の利いた歌詞など様々な形で社会に浸透したとも言えるわけで、そのような意味では、啄木の歌はそれらの源流の一つと位置づけても過言ではないのではと思われます。

記念館の敷地内には与謝野晶子の歌碑もあったのですが、現代人の感覚からみれば、いかにも古めかしいというか、啄木の歌ほどの「現代人から見てもセンスがいい感じ」を受けず、そうした意味でも「100年以上先に残る仕事」を啄木がしたことは間違いないと思います。

このように考えているのは私だけでなく、以前に少し調べたところ、NHK盛岡放送局が同趣旨のことを述べた番組を放送していたようです(引用の記事は、現在は閲覧できない状態になっており、NHKは引用記事を復活させて記念館に掲示するよう働きかけていただきたいものです)。
http://www.nhk.or.jp/morioka/obandesu/newsnohatena/130430/index.html

しかし、以上に述べたようなことを伝える掲示などはこの記念館には全く見受けられません。それゆえ、意地の悪いことを申せば、この施設を運営する人々(お役所?)は、啄木の意義や価値を社会に伝えよう、多くの人に知って貰おうという考えを本当に持っているのだろうかと疑念を感じざるを得ません。

振り返ると、啄木の人生自体、金田一京助や宮崎郁雨など幾人かの理解者に恵まれたものの、自身や父の生活上の至らなさもあって?故郷の人々に「石もて追はるる」ように渋民を去り流浪の人生を送ったわけで、その本質的な意義が地域の大多数の人々に理解されない状態にあるのは、今も昔も同じということなのかもしれません。

先駆者であると共に成功の果実に接することなく貧困の中で無念の死を遂げた啄木は、渋民そして盛岡に余人には代え難い不朽の香気を遺しつつ、自身は、「産まれてくるのが早すぎた、100年後に生まれたかった、そうすればイケメンの俺様はポップアーティスト(シンガーソングライター)として財を築くこともできたのに」などと、天上で不満を述べているのではとも感じます。

啄木鳥は秋の季語だそうですが、啄木の人生は、春の訪れを告げつつ暖かい春爛漫の頃までに散ってしまう、早咲きの桜に喩える方がよいのかもしれません。

ふるさとの桜となりし啄木鳥は 春を告げるも春生きられず

ご承知のとおり、私はこのブログで「短歌(や川柳)のまがいものらしきもの」を時々作って掲載しています。これは、静岡県富士市の「ふじのくに田子の浦みなと公園」で山部赤人の歌碑を見て、蝦夷の末裔として返歌を作ってみたくなったというのがきっかけなのですが、「岩手の県北に生まれて、盛岡・函館・東京の3ヶ所を転々とした人間」の一人として、前述した啄木の意義・価値を、私なりの悪あがきで現代の人々に問い続けたいという気持ちの表れかもしれません。

私が訪問したときは、記念館では啄木が「一握の砂」の中で執筆した、「林中の譚」と題された寓話をもとに作られた紙芝居が上映されていました。

土木文明に狂奔し乱開発による富貴自慢に明け暮れる人類をサルが嘲笑うという類の話で、現代人にとってはさほどの新鮮味はありませんが、当時そうした問題意識を持っていたのは、足尾鉱山事件に関わった田中正造くらいでしょうから、晩年に見られた人民主権的(自由尊重)的な政治姿勢も含め、当時なら先駆的な知見ということになるのではと思われます。

と同時に、そのこと(自然尊重と畏敬)は、北東北の片田舎で育った我々にとって当たり前の事柄でもあり、そうであればこそ、それらの根底にあるもの=縄文あるいは蝦夷のアイデンティティを何らかの形で再興させていく責任を我々は負っているのではと思わずにはいられませんでした。

福島県双葉町の止まった時間と変わりゆくもの、そして責任のいま(原発編その1)

6月17日から18日にかけて、福島県双葉町など、福島第一原発の周辺地域に行ってきました。

日弁連廃棄物部会では、ここ数年、福島第一原発の事故で飛散した放射性物質汚染の被害を受けた廃棄物の処理に関する制度や実務のあり方を検討しており、現在は、原発周辺の避難区域(立入・居住の禁止区域)に膨大な面積を買収等して設置が進められている「汚染廃棄物の中間貯蔵施設」などについて、調べたり関係者の方から話を伺うなどしてきました。

そして、現地を確認すべきということになり、主に双葉町の現状を見せていただくことになったものです。

今回は17日の昼にいわき駅で集合し、施設の設置予定地や一定の施工がなされたエリアをはじめとする双葉町内の様々な場所に、町役場のご担当で頭髪に強いベッカム愛を感じるHさんに案内いただき拝見してきました。

まず、常磐富岡ICを下りてすぐの待ち合わせ場所から国道6号を北上して大熊町から双葉町に向かいました。国道は走行が自由にできますが、一帯はすでに帰還困難区域として立入が原則禁止とされ、道路に面する建物には、すべてバリケードが設けられている異様な光景が広がっています。

国道から中心部に向かう道路には柵が設けられてガードマンが立ち、住民や事前に許可を受けた者のみが立入可能となっており、我々も身分証明(免許証)を提示して立入が認められました。

そして、車内でHさんの説明を色々と伺いつつ最初に町役場に到着し、5階建の役場の屋上に行きました。

役場の周辺は灌木の生い茂る原野が広がっていますが、Hさんによればこれらはすべて田圃であり、震災後、一切人の手が入らない状態が続いたため、7年の間に田畑の中に灌木が次々に育ったのだそうです。

刮目せよ、ニッポン!忘れるな、大東京!
これが、あなた方、そして私たちが奪った、誰もいない双葉町の今だ。

人の姿も車の通行も人間の活動がすべて停止した状態にある光景を見ていると、そのように叫びたいものが込み上げてきたように思います。

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そして、引き続いて役場内や町内の名勝・双葉海岸(日本の海岸百選)の「海の家」の施設なども案内いただきました。

役場の時計は地震の発生時を、海の家の時計も津波の到達時を指していました。彼らの時間は、今も、あのときから止まったままです。

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役場には、震災直後に第一原発から役場に提供された様々な情報を掲示板に貼っていたときの状況が、そのまま残されていました(視察の際に、当時の状態を伝えるため、保存しているのだそうです)。

Hさんは「念のため(制御不能の危険がある旨を東電から役場に伝える)」という連絡は、原発の維持管理上はあり得ない、非常に異常な伝達なのだと強く述べていました。

当時の役場の方々にしてみれば、自分達に到底対処困難で誰も予測・準備していなかった極限状況を突如として突きつけられても困惑・狼狽するほかなく、そうした気持ちが、その言葉へのこだわりとなって表れているのではないかと感じました。

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双葉海岸に海の家として設置された施設は、三角の形状が、どことなく陸前高田の道の駅に似ているように感じますが、立入OK(自己責任で?)とのことで、中も案内していただきました。こちらの津波は十数mとのことで、屋上の展望台までは大丈夫だったようです。

また、建物の周囲を見渡すと、陸前高田と異なり松林が若干ながら存在しています。この施設の背後の林は建物のお陰かもしれませんが、Hさんによれば、南側に岬状の崖地があり、津波が南側から来たので崖地に守られたのではないかとのことでした。

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双葉町の中心部にも案内いただきましたが、こちらも倒壊した家屋群が手つかずの状態のまま残っていました。

役場の方針では、双葉駅周辺は、数年内の常磐線の再開に合わせて(すでに線量はかなり低下しているので)町有地化して再開発するが、このエリアは民間の自主努力に委ねるそうです。そのため、多くの人が「今は被災を理由に固定資産税が免除されているが、建物を解体すると、街の再生の構想も描かれていない中で土地の利活用もできないのに固定資産税ばかりが再課税されるのではないか」などの不安があるため、解体・再開発などに尻込みしているとのことでした。

翌日に垣間見た浪江や小高(南相馬南部)などは曲がりなりにも街の再始動が始まっていましたが、この街の「止まった時」が動き出すのはいつの日になるのか、まだまだ難しい状況が続くのかもしれません。

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Hさんは、自宅も実家も中間貯蔵施設の予定地となったとのことで、その周辺を案内していただきました。ご実家の周辺は昔からの居住者が多い小さな集落(里山エリア)で、神社には、先人が心の拠り所として崇めたこの鎮守神を末代まで受け継ぐと書かれた平成28年建立の碑がありました。

ご自宅は、町内で近年に開発された振興住宅地で、Hさんも多額の住宅ローンを抱えた状態で被災しており、中には入居から2週間しか経っていないという方もいたのだそうです。岩手でも、完成後で鍵の引渡未了の状態で自宅建物が被災したケースについて相談を受けたことが震災直後にあったことを思い出しました。

自宅内部も案内していただいたのですが、震災当日の新聞がそのまま置かれており、双葉は6強ということで、割れた食器類なども散乱していました。

突然の避難の後、長期を経て一時帰宅が認められた際もごく僅かな貴重品(一人あたり一袋だけ)しか持ち出すことが認められなかったとのことで、自宅内には当時まだ幼児だったお子さんのオモチャが散乱していました。

一時帰宅の際は、自宅内に放射性物質が浸潤しオモチャ自体が被曝しているため持ち出しは断念したのだそうで、私のように「万物に魂が宿る」の感覚の人間が見ると、悲惨な運命を強いられた動物達と同様、オモチャ達も悲鳴を上げているのではないかと思わずにはいられませんでした。

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説明をすっ飛ばしていましたが、中間貯蔵施設とは、10万ベクレル超のため処分場に埋立できない(と特措法で定められた)汚染廃棄物などを30年保管するための場所であり、第一原発が立地している双葉町・大熊町内の原発を取り囲む広大なエリアに設置が予定されています。

Hさんの実家周辺は第一原発から北西3~4㎞程度の距離にあるため周囲にはすでに買収等された土地も多く、高濃度廃棄物の保管や除染土壌の分別・減容などを目的とする施設の整備が進んでいました(地上権設定による賃貸をしている方もいますが大半は売却したとのこと。もちろん頑強に拒否している方もかなりの数に上るようです)。

もちろん「あのとき」まで、そこには過疎なりとはいえのどかな人々、田畑、里山の光景があったわけで、相応の補償がなされたのだとしても、ダムに沈められた村を見ているような印象は否めませんでした。

「ナウシカ」の冒頭で旅の賢者が握った幼女を象った人形が掌で崩れていくシーンがあったと記憶していますが、或いは、この地域(一つの小さな村)は今、人が作り出した腐海に沈もうとしているのかもしれません。

汚染拡散被害には避けて通れない話かもしれませんが、Hさんからも、道路などを挟んで中間処理施設(買収等)の対象になるか否かが分かれたので、隣同士で「お金が払われる人、そうでない人」がいて、人間関係に影を落としたり、土地の買収等に関しても、速やかに手放して県外で生きていく人もいれば、地元には十数代続く家も珍しくなく、先祖代々の土地を自分の代で手放すことはできないとして頑なに拒否する人もおり、そうした個々人の置かれた状況の違いに十分な配慮がなされていないのは残念だ、といった説明がありました。

そして、一番言いたいこととして「このような状況は自分達が望んだことではない、でも、自分達が(中間貯蔵施設などを)引き受けないと他の人々に迷惑がかかると思って、自分達が犠牲を引き受けている、そのことは全国の人々に知って欲しい」と強く述べていました。

私は平成15年から日弁連の廃棄物部会に所属していますが、部会の当時からの一貫したテーマは「大量消費・大量廃棄社会の脱却・克服によるゴミゼロ社会(ゼロエミッション)の実現」でした。

原発は敗戦国ニッポンが米国(GE社)から購入を強要されたものだ、などと言う人もいるようですが、基本的には、大量生産・消費そして廃棄の社会を作った大東京(首都圏)が、その基盤としての電力供給のため作ったものであり、膨大な電力の生産と浪費は「大量廃棄社会の震源地」と言えないこともありません。

そうであればこそ、当時(一時期、日弁連の地球温暖化PTにも所属していました)から、「脱電力社会こそが掲げられるべきでは(とりあえず、日弁連もクーラー付けすぎを止めることから始めよ)」と思っていたのですが、そうした気運が盛り上がることもないまま、震災=原発事故に至り、その後も多少の改善はあったにせよ「再生エネルギー(代替電力)推進」などに比べれば「脱電力」という声はごく僅かなものに止まっています。

出口(廃棄)を減らすには、循環利用もさることながら、自分達が使い切れないものは最初から作らない、作るからには責任をもって(作られたものに感謝して)「モノ」としての命を使い切るべきではないかと思います。

そのような意味で、電力という「命」を無駄遣いし続けたからこそ電力が自然の力を借りて人に復讐をしたのではないか、と思わないでもありません(復讐すべき相手を間違えているのではないかという点はさておき)。

ともあれ、結果としてこの地は今、キジやシカ、イノシシの楽園となっているようです(シカとイノシシは一頭ずつしか見つけることができませんでしたが、キジは町鳥だそうであちこちにいました)。

そんな、生き物たちの手に取り戻されたと言えないこともない光景を、海は静かに見守り続けています。

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米朝首脳会談にふさわしい「日英の良心が遺したシンガポールの聖地」

6月12日に行われた米朝首脳会談の際、両国首脳がそれぞれ宿泊したホテルのすぐ近くに、世界遺産・シンガポール植物園があります。

かつて、大日本帝国軍がシンガポールを精強な英国軍から電撃的に占領した直後、突如、この島に二戸出身(旧制盛岡中学卒)の田中舘秀三・東北帝大教授が現れ、英国人の研究者らと協力して植物園や博物館などの貴重な学術資産を戦災の混乱から守ったという逸話を、1年半前にブログ等で紹介させていただきました。

植物園のシンボルであるバンドスタンドとその一帯は、今も、英国庭園の面影を残したまま、同国有数の「結婚記念写真スポット」として人気を博しています。

可能なら首脳会談はこのバンドスタンドで行っていただければ、戦争に依らずに物事を解決するとのメッセージを、より世界に伝えることができたかもしれません。

安倍首相の側近にもこのような演出を勧める人材がいればよいのになどと、余計なことを思ったりもします。

民族の誇りは覇道の愚ではなく 学を尊ぶ真心にこそ

と当時、戯れに一首作ってみましたが、世界中の国家指導者の中で今最もその言葉が向けられるべき2人がこの島で出会いの場を得たということに、少し不思議なものを感じてしまいます。

企業施設の重大事故における賠償不払リスクの実情と解決策(後編・中三ガス爆発事件)

先般、報道のあった「盛岡市内の託児施設の塩中毒死事件」を題材に、「重大な事故を惹起した者がその責任をとることができず被害者が放置される事案が頻発しており、保険の義務化(施設開設等の許可条件化)が必要ではないか」という趣旨のことを述べた投稿の後編です。

引用した報道があった直後に前回の投稿をfacebookに載せたところ、震災の発生直後(平成23年3月)に盛岡市の中三デパート地下で発生したガス爆発による死亡事故を巡る問題に関心をお持ちの方から「その件でも遺族が賠償を受けられず、気の毒だった」という趣旨のコメントが寄せられました。

私自身はその事件にも全く関与しておらず詳細を存じませんが、中三が民事再生手続をした関係で同社から遺族にはほとんど賠償金が支払われず、そのため、遺族が(中三も)ガス供給を行っていた会社(地元のガス会社)に対し、過失があったと主張し賠償請求をしています。

そして、ガス会社側(の損保)が巨費を投じて強力な反証を行ったせいか、敗訴してしまったため、なおのこと遺族は辛い思いをしたのだと、コメントを寄せた方は憤慨していました(H30.6.8付の岩手日報記事によれば、遺族に対しては450万円の見舞金を支払う趣旨の和解が成立し、中三からガス会社への訴訟は控訴棄却となったとのことです)。

この件についても、施設管理者たる中三の被害者(遺族)に対する賠償責任は争いがないと聞いていますので(工作物責任でしょうか)、もし中三が施設賠償責任保険に加入していれば、民事再生に関係なく遺族には適正な損害賠償の支払がなされたはずです。

その場合、「中三のガス会社への訴訟」はともかく、少なくとも遺族自身は、責任論に熾烈な争いがあり立証や敗訴などのリスクの高い裁判をガス会社に提訴しなければならない負担を免れることも言うまでもありません。

だからこそ、その件で最も罪深いことは、中三が事前に、その被害を対象とする施設賠償責任保険に加入していなかったことだと言うべきだと思います。

そうした意味では、施設側が賠償責任保険に加入することは、事故の被害者(になりうる者)はもちろん、ガス会社など「施設が責任を果たさないことにより賠償請求を受けるリスクのある者」にも必要有益なことであり、ひいては、その会社らの損保にとっても同様だと思います。

そうであればこそ、中三事件は「施設賠償保険の義務化が必要であることを示す典型例」として、被害者・ガス会社・損保会社の3者が、それぞれの立場で保険義務化=商業施設の開設者(営業主)に施設賠償保険への加入を営業許可等の条件として義務づける制度の導入について声を上げていただければと思いますし、今回の塩中毒死事件も、同じリスクに直面しているのであれば、同様のことが言えるのだと思います。

また、このように保険を通じて早急な被害回復を図る制度は、①加害者自身の救済(更生)、②事故そのものの防止につながることの2点からも、必要不可欠なことではないかと考えます。

交通事故の無保険などを例に出すまでもなく、本件(塩中毒死事件)でも、巨額の賠償責任を個人が果たしうるはずもなく、加害者本人はその重すぎる責任と向き合わなければなりません。何らかの私財をお持ちであれば、それはほとんど全て賠償責任の履行にあてる必要があります(破産免責に関しては、故意との認定があれば悪意不法行為を理由に非免責債権となる可能性が相当にありますが、過失認定だと免責の可能性が高いでしょう)。

交通事故を引き合いにするまでもなく、高額な賠償責任を負うリスクのある業務などに従事する者にとっては、賠償責任保険は、自身を破滅させることなく責任の履行(けじめ)を果たす制度であることは言うまでもありません。

そして、保険の義務化を通じて、損保会社等が保険事故(支払)を減らしたい(それにより収益や保険料抑制による顧客の支持を得たい)という正当な動機のもと、事故防止や業界の質の向上のための取組み(適正な審査と契約拒否だけでなく被保険者への相当な監視・監督、交通事故であれば道路状況や車両装置などの改善を含め)を熱心に行う制度や慣行が確立されるのであれば、高額な賠償責任が生じる深刻な被害の発生そのものが確実に減っていくことでしょう。

そうした制度・慣行が作られるまで、あと一体何人が泣けばいいというのか、政治家云々に限らず、様々な関係者の熱意と行動を強くお願いしたいところです。

企業施設の重大事故における賠償不払リスクの実情と解決策(前編・託児所の塩中毒死事件)

平成27年に盛岡市内の認可外保育施設で起きた「飲料に混入させた塩分の過剰投与に起因するとみられる幼児の死亡事件」は、現在、盛岡地裁の法廷で民事・刑事の双方が審理されています。

刑事事件については、加害者本人(施設責任者)が過失を認めたことから、盛岡地検は略式請求したのですが、被害者の強い意向を踏まえて盛岡簡裁が正式裁判を決定したとの報道があり、全国ニュースで大きく取り上げられた電通の自死事件に類する面があります。

その上で、遺族は「過失ではない、故意だ」と強く主張し、刑事事件の結果を待たずに民事訴訟を起こしたとのことであり、先般、第1回口頭弁論期日の記事が県内で一斉に取り上げられていました。
https://www.iwate-np.co.jp/article/2018/6/1/15487

この記事ですが、岩手日報の紙面では、Webでの表示内容に続けて「被告は弁護士に依頼してない=本人訴訟」と書いてありました。私に限らず、これを読んだ業界人は全員、「この人は無保険なんだ=被害者は回収不能の重大なリスクを負っているのでは」と嘆息したのではないかと思います。

ちなみに、加害者(施設側)が、託児施設内の事故を対象とする賠償責任保険に加入しているのであれば、交通事故一般と同じく、事故直後から損保会社が対応し、訴訟等になれば損保社の費用負担で指定弁護士(特約店のようなもの)が選任され、賠償額も当然ながら損保社から支払われます。

言い換えれば、本人訴訟と書いてある時点で無保険であることが確定したも同然で、しかも、弁護士に依頼していないこと自体、本人の無資力を強く推認させます。

ちなみに、幼児の死亡事故の性質上、賠償義務額は通例で億単位(最低でも5000万円以上)になるはずです。

その上、本件では被害者の方は東京の弁護士さん達に依頼されており、裁判が長期化すれば交通費(と日当)のため、地元の弁護士に依頼するよりさらに数十万円の負担を要することになるはずです。

どのようなご事情かは存じませんが、代表の先生は業界でも相応に著名な方なので、回収可能事案かつ賠償額に争いの余地が大きい事案なら相応の経費を負担してでも第一人者に頼みたい、というのはごく自然なことですが、加害者本人に支払能力がない場合は、さらにお気の毒な事態になりかねません。

私自身はこの事件に何の関わりもなく(当事者双方から相談等を受けたことはありません)、事件報道を最初に目にしたときは「託児施設なんだから施設賠償責任保険くらいは入っているだろう、死亡事故は大変気の毒だが、適正な賠償金の支払がなされるのなら、せめてもの救い」と思っていたのですが、その意味では大変残念な展開になっていると言えます。

もちろん、こうした話は本件に限った事柄ではなく昔から山ほど存在しており、私も残念なご相談を受けたことは山ほどあります。だからこそ、託児施設であれ自動車等であれ、高額な賠償責任を生じる可能性のある仕事等に携わる者には、任意保険の加入を義務化(免許要件)とすべきだというのが、私の昔からの持論です(被害者側の弁護士費用保険の整備も含め)。

私も「名ばかり理事」となっている弁政連岩手支部では、今年になって地元選出の国会議員さんと懇談しようということになり、先日は高橋比奈子議員との懇談会があり、6月には階猛議員との懇談会が予定されています。

私自身は、上記のような「実務で現に発生しているあまりにも不合理な問題とその解決策」を議員さんに陳情すべきではと思っているのですが、キャラの問題か過去のいきさつの問題(会内では「会務をサボるろくでなし」認定されているようです)か、残念ながら内部での意思決定権が与えられておらず自分の会費分の弁当食うだけの穀潰し傍聴人状態が続いています。

内部では「日弁連(のお偉いさん)が取り組んでいる問題を(議員の関心の有無にかかわらず?)宣伝すべき」というのがコンセプトとなっているようで、お偉いさん(や議員さん、世論など)の関心が及ばない限り、今後も残念な構造は放置され、気の毒な事態が繰り返されることになるのかもしれません。

もちろん本件の詳細は存じませんので、何らかの形で適正な賠償責任が果たされることを強く願っています。

私も、かつて県内で発生した保育事故の賠償請求のご依頼を受けたことがあり、本件のような甚大過ぎる被害ではなく、加害者が大企業で支払能力もあったため、適正の範囲内での賠償がなされたとの記憶ですが、ご両親の沈痛な面持ちは今も覚えています。

(H30.9追記)

14日に塩中毒事件で「検察は罰金求刑したが、裁判所は執行猶予付き禁固刑とした」との報道がなされていました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/morioka/20180914/6040002031.html

私は、上記のとおり「民事訴訟で本人が弁護士に依頼せず自ら対応しているので、無保険(回収困難)事案ではないか」と考えたのですが、もしそうであれば、これだけ重い結果が生じている事案で、どうして検察庁が罰金求刑にしたのか、不思議に思います。

保険対応で適正賠償額が支払確実な事案であれば、加害者に相応に汲むべき事情があることを前提に、略式請求(罰金)とするのは理解できますし、これに対し、「被害者に過失のない死亡事故を起こして無保険で賠償できないなら正式裁判+実刑」というのが交通事故の通例のはずです。

「検察が略式請求としたが、裁判所が正式裁判とした事案」といえば、電通の過労死事件が思い浮かびますが、その事件の展開がどうであるにせよ、電通に民事訴訟(安全配慮義務違反に基づく賠償請求訴訟)における賠償資力が無いはずはなく、だからこそ、略式請求がなされたという展開は「昔ながら」という意味では了解できる面があります。

それだけに、この事案では「無保険事案らしき光景が見え隠れするのに、検察が罰金求刑に止まっている」ことに、非常に違和感を抱くのですが(被告人に罪責を問いにくい相応の事情があったのでしょうか)、この点について内情などをご存知の方がおられれば、こっそり教えていただければ有り難いです。

もちろん、実は責任保険が対応する事案だった、というのであれば、それに越したことはないのですが、そうであれば、どうして保険会社が介入せずに本人が訴訟対応しているのか、全く不可解です。

町弁のアヤメぬショウブをカキツバタ

私の子供の頃には自宅周辺に池沼が点在しており(田舎育ちだからという面も大きいですが)、小学校低学年の夏季などは生物の採集や観察に明け暮れる日々を過ごしていました。

残念ながら現在の生活ではそのような環境に触れる機会は皆無であり、盛岡圏で「一般人が遠慮なく立ち入ることができる池沼」となると、繋温泉にある尾入野湿性植物園くらいしか思い当たりません(岩手大の植物園にも池があるそうですが、なぜか赴く機会に恵まれません)。

そんなわけで、尾入野がカキツバタ?の名所ということもあり、毎年の6月前後に赴くことが多く、先日も立ち寄ったのですが、まだ咲き始めという状態でした(6月上~中旬頃が最盛期なのでしょう)、

私は植物に知見がなく関心も乏しいので、咲いている花が、カキツバタなのかアヤメなのかショウブなのか全く分かりませんが、花もさることながら、湿地の生物群に接していると何となく癒やされる感じはあります。

いつもどおり帰宅後は事務所に戻り起案と雑務に追われる日々となりますが、ネットで少し調べたところ、これらの花言葉が、いずれも幸運を連れてくるなどというものなのだそうで、「暴力ではなく平和的な手段で紛争の解決を図る仕事」に携わる者として、苦労の末に社会にも私個人にも、よい結果が生じてくれればと思わずにはいられませんでした。そんなわけで一首。

殺めずに理を書き付ける勝負には
幸せを呼ぶ花が咲くらむ

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ところで、以前にも書いたことがあるかもしれませんが、盛岡圏(市の中心地区)に人々(主に子供)が気軽に触れあうことができる池沼・湿地の類がほとんどないのは非常に残念です。本来は湧水の豊富な場所だそうですから、都市開発の際に、そうした空間(親水公園的なもの)を創出する営みがもっとなされるべきではないかと思います。

某RCが開設した「どんぐりの森」についても、池がないというのは寂しい話で、尾入野に棲むドジョウも残念に思っていることでしょうから、どなたかのご尽力で、あの場所に湿地帯を新たに設けていただければなどと願っているところです。

20年間生きたスキー靴

例年、年末から2月にかけて多忙になることが多く、雪解けが近くなってからようやくスキー場に行けるという有様になることが珍しくありません。

今年は2月末に雫石スキー場、その1週間後に網張スキー場に行きましたが、諸事情により丸一日とはいかず、いずれも初級者コースを中心に3時間ほど滑っただけで帰宅しました。

両スキー場とも約20年ぶり?に来た上、当時=修習中は仲間が安比に好んで行きたがり、これらのスキー場(特に網張)には滅多に来る機会がなかったので、懐かしさの反面、ここはこうなっていたのかと再発見のような感覚もありました。

雫石は、出発が遅れて午後2時過ぎに着いたので、やむなくロープウェイで上部に行き初級コースを若干滑った後、下山してナイターで滑ることにしました。

すると、一旦コースを閉めて整備するとのことで30分待たされることになり、喫茶店がないかと探したものの既に営業終了しており、やむなくプリンスホテル2階のレストラン入口ロビーで待っていましたが、すでに夕食を開始している浴衣姿の宿泊客らを横目に見ていると、「自分はそこ(入口)から先には行けないんだ・・」などとプチ格差社会感を抱かずにはいられないものがありました。

それはさておき、ナイターの開始直後に滑り出したところ、圧雪車で整備された直後のため、非常に滑りやすくなっており、ある意味、ここ数年で一番気持ちのよいコンディションで滑ることができました。

20年前、修習生仲間と雫石のナイターに一度だけ来たことがあり、今回のナイターはそれ以来でしたが、あのときも爽快に滑ることができたので、とても懐かしく感じました。

ジャンプ大好きのI君(東京地裁で活躍中)は段差で跳びまくり、K君(S市の大物弁護士)はショートスキーで蝶のように舞い(蜂のように女心を刺す光景は残念ながらゲレンデでは拝見できませんでした)、さほど上手ではない地元出身の私(しがない田舎の町弁)とKさん(巨大事務所を経て名門企業のインハウスローヤー)は、彼らの華麗な光景を横目にマイペースで滑っていましたが、4人全員がかけがえのない楽しい時間を過ごすことができたことは間違いありません。

これに対し、その1週間後に訪れた網張スキー場は雪の状態があまり良くなく、途中から雨になり靴にしみこんでくるなど、散々なコンディションでした。昔、一人で網張に来たことが一度だけあり、その際も大雪で快適に滑ることができませんでしたので、どうも網張とは相性がよくありません。

その上、なんということでしょう。

雨が染みてきたスキー靴に目を向けたところ、ヒビ割れががあることに気づきました。20年間使い続けた愛着ある一品だけに(平成17年から26年頃は一度もできませんでしたが)、ついにそのときが来てしまったというか、残念この上ない限りです。

このスキー靴とスキー板は、平成10年の夏頃に検察修習のお昼時間に我々(修習生4人)が指導検事のお供で大通りのレストランで昼食をとった帰りに、当時は大通りにあった石井スポーツで、「これ、お勧めだよ」とO検事からアドバイスを受けて購入したものです。

そして、頻繁にスキー場に行っていた修習時代(24歳頃)から東京で過ごした30歳近くまでの時期に、新人時代に同業の方に誘っていただいたスキー旅行などを含め、ほぼ毎年、何らかの形でお世話になってきたもので、私にとっては二度と戻らない眩しい日々を一緒に過ごした仲間のような存在と言っても過言ではありません。

それだけに、改めて、一つの時代が終わり、新たな時代が次の世代により始まっていくのだろうなどと、感傷に浸らずにはいられない面がありました。

そんなわけで一首。

老靴が役目を終えて懐かしむ夢の続きは弧らに託して
私にも青春の日々あったねと伝える靴のヒビの愛しさ

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