北奥法律事務所

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いわき

縄文と弥生の数奇で幸運な出逢いとしてのフラガール

今回(昨年)のいわき方面への旅行は、スパリゾート・ハワイアンズ(旧・常磐ハワイアンセンター)に家族を一度は連れて行こうと考えたのが発端になっており、「丸一日プールに入りたい」という同行者の強硬な要求もあって、2泊3日の旅の締めくくりに、この日は朝からハワイアンズに向かいました。

駐車場には、太陽光発電の装置が大規模に設置されていましたが、天候次第では発電以外の面でも有り難いように思われ、現在のコストのことは分かりませんが、もっと普及して良いのではと思いました。

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施設の入口では、中毒性のあるメロディで「連れてって連れてって連れてって~」というテーマソングが延々と流れており、それに倣って、

連れてって連れてって、いわきの駐車場~
日除けと雨除け、発電も兼ねちゃってってって~
ハワイア~ンズ もとい、家族サービス部。

などと歌いたくなりました。
https://www.youtube.com/watch?v=cAvOmmH9Edc

それはさておき、私自身は、旅行では名所旧跡や各種施設を時間の限り訪ね尽くす弾丸志向型で、リゾートとかプールなどという過ごし方は性に合いませんので、ご家族の皆さんお好きにどうぞ状態で同行者に任せたというのが正直なところです。

ただ、以前に映画「フラガール」は観ていましたので、フラ・ミュージアムはきちんと見ておきたいと思って、そこだけは一人で見に行きました。
http://www.hawaiians.co.jp/show/hulamuseum.html

展示は、「フラガールのあらすじ=ハワイアンズ成立の基礎となった常磐炭鉱の閉山と生き残りを巡る人々の闘いの物語」と「フラの本場たるハワイやタヒチ(ポリネシア人)のフラ文化の紹介」の2本立てとなっており、後者ではフラが宗教的・祝祭的な儀式であることなどが説明されています。

このブログでは「縄文の継承者としての東北」という視点を繰り返し強調していますが、ポリネシア人(ハワイやタヒチなどの南方系)と縄文人(北方系)は人種的に同系(古モンゴロイド)とされているのだそうで、常磐炭鉱の人々が起死回生のシンボルとしてフラを選んだ背景には、指導者の知見だけでなく、「底に流れる人種の血」といった観点も考えてもよいのかもしれません。

ただ、常磐炭鉱は「一山一家」を標榜し、ハワイアンセンターの開設(フラガールの物語)も炭坑の人々がそうした一体感を守るために始めた営みとして描かれ、特定の個人の特異な力量ではなく関係者一人一人の役割意識や団結などが重視されているわけで、そうした光景は縄文文化(個人主義)よりも弥生文化(集団主義)に当てはまるもののように思われます。

弥生人は漢民族や朝鮮民族などと同じ新モンゴロイドという人種なのだそうで、縄文人の末裔の一つである蝦夷集団(各部族)が国家と呼べるだけの社会を形成できなかったように、日本という国(ヤマト国家とその前史)はクニという巨大組織を作る力に長けた彼らが大陸から渡ってきたときから始まったと言ってよいのではと思われますし、以前に沖縄に行った際も「琉球王国は土着の縄文人ではなく渡来の弥生人が土着の民を取り込む形で作ったのではないか」と書いたことがあります。

前回述べたとおり、かつて大和国家の最北端(最前線)の役割を担ったいわきの地には縄文と弥生の結合を図る文化があり、それがフラという縄文に似た文化を活かす方法で地域の存続を図る努力が人々により営まれた底流にあるのでは、という見方もできるように思います。

そのことは「フラの本場」であるハワイの民が米国(西欧人=コーカソイド)の侵略に抗しきれずに民族としての主権を失い米国に同化する道を辿った光景や、タヒチはもちろんインドネシアなど他のポリネシア系の民族を見ても、彼らが近世・近代に国家としての強靱さを持たない状況下で西欧の侵略などに晒され苦難の道を辿ったことなどにも視野を広げると、色々と考えさせられる面があります。

ハワイアンズの宣伝によれば「フラの博物館」は世界でここだけなのだそうですが、以上に述べた観点を踏まえれば、いわきの人々がフラ(ポリネシア人の文化)を継承ないし保護振興する姿は、我々が考える以上に意味や価値のあることなのかもしれません。

そんなわけで、激しいフラの踊りの先に、失われた人類の多様な過去、そして禍々しい要塞のような原発に依存することのない未来も垣間見ることができればなどと思って一首。

誇らしく一心不乱に舞う汗は 岩城も穿つ ひとしずくかな

ただ、私自身は同行者の「目当てはプール。ショーは興味なし」との専断的決定のせいで前夜も含めフラのショーをほとんど見ることができず、トホホ感を抱いたまま立ち去ることを余儀なくされましたので、またいつの日か再訪し、改めてフラのショーなどを拝見できればと思います。

みちのくの境界で郷土愛を叫ぶ

いわき編(昨年GW)の2日目は滝桜に立ち寄った後いわき市に向かい、まずは白水阿弥陀堂を訪問しました。

白水阿弥陀堂は中尊寺金色堂の建立者たる藤原清衡公の娘がいわき地方の有力者に嫁ぎ、その財力で建立されたもの・・と思っていたのですが、それは伝説の類なのだそうで、実際は地元の有力武士らが支援を持ち寄って建立したものの、平泉との繋がりがあったこと自体は間違いないため、それを権威ないし正統性の証として宣伝する中で、上記の伝説が形づくられたのではないか、という趣旨の話がパンフに書いてありました。

阿弥陀堂自体はコンパクトな建物でしたが、毛越寺によく似た浄土式庭園があり、後背の山林を借景として相応に見応えのある雰囲気だと感じました。

パンフによれば、全盛期~江戸時代はこの数倍の規模があったものの、明治の廃仏毀釈騒動で多数の伽藍などが被害に遭ったため阿弥陀堂だけが残ったとのことで、「廃仏毀釈被害に関する北の横綱」というべき?浄法寺の天台寺と同様に、残念な思いを禁じ得ませんでした。

ともあれ、都人のエゴを発端とする悲惨な抗争と犠牲の末に平泉文化を開いた清衡公に縁を持ち、近代には薩長の威を借りた文化財破壊の被害に遭いつつ、現代もなお浄土を願い静かに祈りを続けているという点で、この地(白水阿弥陀堂)もまた、みちのくの歴史を凝縮したような面があると言ってよいのではと思います。

そんなわけで、現代に生じた福島の苦難なども踏まえつつ、阿弥陀如来のご尊顔を拝して一首。

みちのくの御仏が知る血と涙 浄土は今もなすべきを問う

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次に、阿弥陀堂から自動車ですぐの場所に常磐炭坑の往時の様子を展示した「みろく沢炭鉱資料館」があることが分かったので、そちらに向かいました。

資料館は小屋にビニールハウスを接続させた渋い施設で、小規模ですが味わいたっぷりの、ぜひ訪れていただきたい場所だと思います。

炭坑の入口跡がすぐ隣にありますが、注意を呼びかける男性が妙にニヤケ顔になっているのが気になりました。

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次いで、いわきのメイン施設の一つというべき複合水族館施設「アクアマリンふくしま」に行きました。私は昔から動物園よりも水族館の方が好きな性格らしく、浅虫・男鹿・松島(仙台)をはじめ、遠出すると動物園を素通りして水族館ばかり優先してしまう傾向があります。

それはさておき、さすがにGWのため大混雑しており魚介類より人垣を見た記憶しかないような気もしますが、施設の規模や充実度などは東北随一でしょうから、人の少ない時期に再訪しじっくりと拝見したいものです。

アクアマリンの建物は水上に浮かぶ潜水艦のような姿ですが、水族館の向こうには造成中の人工島と陸地を結ぶ巨大なベイブリッジ(小名浜マリンブリッジ)があり、水族館(潜水艦)とベイブリッジが海に向かって進もうとしているような光景は、周囲の「東北ばなれ」したアーバンリゾート的な光景(昨年に訪れた名古屋港周辺に似ています)も相まって、その先に福島の明るい未来と希望が続いているかのような印象を受けました。

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その後、県境を越えて、茨城県の北茨城市にある五浦(いづら)海岸六角堂に向かいました。

六角堂は太平洋に面した小さな崖の上にあり、明治期に日本美術や東洋美術などの復権に尽力したことで有名な岡倉天心が後半生を過ごした邸宅の敷地内に天心自ら設計して建てられたもので、ご本人が一人で自由な時間を過ごし思索を深める場として用いられていたようです。

六角堂は東日本大震災津波のため流失し近年に再建されたことでも有名で、そのニュースを見ていた関係もあり、ぜひ見たいと思って立ち寄りましたが、周辺の雰囲気もよく(男鹿半島や松島に近い雰囲気があります)、今度は岡倉天心美術館と名物のアンコウ鍋を食べに来たいものだと思いました。

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西欧列強による侵略・植民地化などの暴風が吹き荒れた時代にアジアの文化・芸術の復権に力を注いだ岡倉天心の運動ないし思想は、大日本帝国の躍進と共に社会の理解を得たものの、戦争の時代には侵略の正当化に悪用されたこともあり、その後は「アジアを一つに」という天心の思想は腫れ物のように扱われて不遇の時代が続いたようにも思われます。

しかし、中国の強大化や北朝鮮を巡る緊張などアジアが改めて世界規模の紛争の震源地になりうる状況になっている今、改めて天心の思想の再評価と運動の現代的な継承が図られるべきではないかと思います。

それこそ、この地(六角堂ないし北茨城市)が原発事故のため良くも悪くも世界の注目を集めた福島に隣接していることを前向きに捉えて、アジアないし世界の結束に向けた取り組みをしていただければと思います。

訪問時に初めて知ったのですが、震災後に復興支援映画と題して岡倉天心の苦闘を描いた「天心」という映画が制作・上映されたのだそうで、隣接する五浦岬公園には撮影のため再現した当時の建物(日本美術院)や映画の説明資料などが残されており、いずれ映画も拝見できればと思いました。
http://eiga-tenshin.com/official/

このブログでは、二戸出身の田中舘秀三・東北帝大教授が大日本帝国軍の侵攻に伴う大戦の混乱からシンガポールなどの学術資産を守った出来事を紹介し、その物語の映画化を期待する目的でシナリオ案の連載をしたことがありますが、今それが実現できるのであれば、竹中氏は秀三先生を演ずるに最も相応しい御仁の一人と思われ、そうした意味も含め、この地の方々を羨ましく感じました。

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その後、本日の宿泊地であるいわき湯本温泉に向かうためいわきに戻りましたが、折角なので、県境のある勿来の関の跡(擬定地)に立ち寄ることにしました。

勿来関は、白河関(4号線)、鼠ヶ関(日本海側=新潟・山形県境)と並んで古代にあっては大和国家の北限(蝦夷領域との国境)となった場所であり、平安朝から近代に至るまで、多くの歌人に歌枕として詠まれたことでも知られています。

といっても、頼朝(鎌倉軍)による征服までは大和国家に対する自治独立を保った北東北(北奥)とは異なり、いわき(磐城国)は飛鳥時代ころには既に大和国家の一部として、その統治体制に組み込まれていたようです。

そうした意味では、「化外の地」として大和国家とは独自の道を歩んだ北奥と異なり、福島は、古代には磐城国、中世は会津(秀吉・徳川政権による東北の監視役)、近代は郡山(明治政府の巨大開拓地)、現代は原発(首都圏への電力供給地)という形で、常に時の中央政府と強い関わりを持ちながら歩んできた歴史があると言ってよいでしょう。

それだけに北奥とは異なった形で中央権力のエゴに翻弄される面があるのだとしても、反面、北奥よりも遙かに「日本を動かす」チャンスに恵まれているのではと思いますし、現代の福島が「苦闘をバネに日本を変えるために打って出る」ような展開があれば、北奥の人々もそれを支えることができればと願わないでもありません。

私自身はこのまま静かでちっぽけな九度山のような日常に埋没してしまうのでしょうし、それが分相応とも思いますが、それで終わってよいのだろうかと余計なことを考えてしまうときもあります。

そんな悲哀?を感じつつ、丘の上の遊歩道に並べられた多くの歌碑の真似事をしたくなって一首。

さむらいは名こそ惜しみて身を捨てて 志遂ぐ死地を待つべし

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その日にお世話になった宿は家族向けにリーズナブルなサービスを提供していただきましたが、夕食に関しては質より量の印象は否めず、私には珍しく、遺憾ながら食べきれずに残してしまいました。そんなわけで、

くいだおれ家族そろって呻く夜

といった有様の方が私にはお似合いのようです。