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三島由紀夫の来た夏

三島由紀夫が問う虚無と抗いの海、そして真っ赤な僕~南伊豆編おまけ~

前回までの南伊豆編のおまけ(後日譚?)です。

1泊2日の旅行は無事に終わりましたが、前回述べたとおり、これまで全く考えたこともなかった三島由紀夫という存在が、偶然手にした本の影響で気になるようになり、帰宅後もあれこれ調べるなどしていました。

ただ、当然ながら、調べれば調べるほど、どうして彼があのような最期を選んだのか、もったいないというか訳が分からないというか、

自我に何らかの脆弱さを抱えた御仁が、自分自身の存在(肉体改造云々)を含む創作活動による一定の達成感のあとに強い虚無感に襲われ、それに抗うように命を絶った、他方で、優れた知性の持主として、どうせ命を絶つなら後世への問題提起をかねて、強い非難を浴びるのを覚悟の上で、人々が関心を持たずにはいられないような、大きな見せ場、舞台を作った

などと、一応の説明はつきそうな気がするものの、そのことに得心する気にもなれず、とりあえず深夜の「息抜き(仕事の気力切れ)時間」にネット上で気になった記事を読み漁るような日々が続きました。

相変わらず、文体の流麗さで知られた三島作品を読みたいという気はさほどに起きず(今も読んでません)、現象としての三島由紀夫の人生という面にのみ、固執していたように思います。

その理由は、自分の中では、はっきりと分かっています。

今の私には自殺願望は恐らく全くありませんが、何か本質的な部分で「もう、終わりたい(自分という存在は、もう終わってもよいのではないか、或いは、もう終わったのではないか)」という囚われのようなものがあり、早熟な華々しい成功のあと、突如、強烈かつ不可解な印象を残して45歳で人生に幕を閉じた三島の姿に、ある種の憧憬を感じたからなのだと思います。

私は大卒2年目で奇跡的?に司法試験に合格し、数年ほど東京で修行した後「自分で敷いたレール」のとおり盛岡で開業し、色々と悪戦苦闘はありましたが、十数年に亘り、どうにか事務所を維持存続させてきました。別に、有名人になったわけでもなく、人に自慢するような業績をあげたわけでもないでしょうが、本業で粛々と積み上げてきたことについては、誇りがないわけではありません。

田舎の小さな商家の次男として生まれ、運動能力には極端に恵まれず、その一方で、小さな田舎町には収まりきれない自我を抱えた自分は、幼少期から、家でも学校でも地域でも、「要らない子、皆にとって、持て余す(いない方が楽でいい)子」でしたし、そのことは、今もほとんど全く変わっていません。

だからこそ、思うのです。

先ほど、三島事件の「とりあえずの総括」として述べた、

「自我に何らかの脆弱さを抱えた御仁が、自分自身の存在を含めた知的活動による一定の達成感のあと、強い虚無感に襲われる姿」

とは、何のことはない、私自身のことではないかと。

であれば、自分も同じような結末、末路を心の中で望んでいるのか、それができないのは、単に、私が彼ほどの知的能力や人望などを欠いているだけのことに過ぎないのか、それとも、そうではないのか。

前回「自分が45歳になって、また、私的領域では相応の達成感を得た反面、これ以上、本質的な部分で、自分の人生では実現できる何事もないのではと感じるようになった中で、このような形で三島由紀夫と出会ったのは、何らかの意味があるのではないか」と感じたのは、こうしたことが、その背景にあるように思います。

そんな中、社会学者として著名な大澤真幸氏が三島由紀夫を論じた本を出版されたと知り、1年半前(旅行の半年後)の年末年始にようやく読みました。
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0955-f/

この本(「三島由紀夫 ふたつの謎)」は、「戦後日本の最大の知性の一人である三島由紀夫は、一見すると愚行の極みにも見える割腹自殺をなぜ行ったのか」と「最期の大作であり、自決と同じ日に書き終えたと表示されている『豊穣の海』は、なぜあのような破壊的・破滅的な終わり方をしているのか」という2つの疑問への答えを述べることを主眼に、多数の三島作品を様々な哲学的見地から著者なりの論理を駆使して読み解いた内容となっています。

大澤氏の著作や文章は、司法試験受験生時代にも少しだけ読んだ記憶がありますが、思想・哲学に関して「これでもか」と言わんばかりの圧倒的なネタが登場し、少し癖のある文体も相まって、門外漢には敷居の高さを感じる面がありますが、ともあれ、今の自分が知りたいことへの相応の答えが書いてある本なのではと思い、むさぼるように読みました。

筆者が提示した問いへの答えについては実際に本書を読んでいただくとして、私なりに受けた印象としては、当初から、強い虚無感と厄介な自我を抱えて生きてきた三島由紀夫は、自我の奥に潜む光景を洗練された文章で描くことで虚無に抗っていたものの、やがて、執筆ではなく自身の行動の形で「自分が望む洗練された美しいものを描き出すことで、虚無に抗う」ことを求めるようになり、模索(迷走?)の末に一連の活動に行き着いた、しかし、最期には、それらの清算と「海」として観念された虚無への回帰(波打ち際から海へと引きずられ連れて行かれること)を願い、それを二つの形で実行した、というのが、著者が描いた三島の姿のように見受けられました。

もっとも、著者は「自決は虚無への抗いである」と述べていますので、そのような読み方は間違っているのかもしれません。私自身は、抗うのならば生き続けなければならないのと思うので、その総括に違和感を感じているのかもしれませんが。

その上で、著者は、海(それは、宮沢賢治の言葉を借りれば「世界全体」というべきものかもしれません)を不毛の海、虚無の海とみるのであれば、それに抗うために「火や血」という手段(それは、自我の発露ないし表現と見るべきかもしれません)により自決を伴う政治的主張をすることには、その行為(破壊)による幻想の出現という効果に照らし、相応の理由があると感じることはできるとしつつ、それは三島が本当に望んでいたことではない、彼は、枯渇することのない本当の『豊穣の海』を望んでいたはずであるし、その豊穣の海、それは、決して居心地のいい場所ではなく、掴み所のない、訳の分からない世界(本書の表現を借りれば、「一があるわけでも、ないわけでもない」世界)かもしれないが、それゆえに無限の可能性がある世界なのであり、我々はそれをこそ追い求めるべきではないのか、という(そのように読み取れる)趣旨のことを述べて本書を締めくくっています。

その総括を受けて、今、私が何を考えるべきか、何を書き、行動すべきか、まだ答えは出ません。結局はいつもどおりの「終わらない日常」に回帰していくだけかもしれません。

それでも、まだ人生を終えたいと思っているわけではない自分のこれからを考える上で、このタイミングで、このような思索の機会を与えられたことは、大いに意味があったのだと思います。

なお、本書では晩年の三島が天皇制や自衛隊(と憲法改正)に固執した件についてはほとんど触れていませんが、現在の天皇家が、国民の強い支持を得る一方で「男系男子による承継」という点では厳しい状況を迎えている(女系天皇も旧宮家も現時点で国民の支持が得られるのか不透明で、そのような意味では日本は国体維持の危機を迎えたと言って過言ではない)光景は、三島の戦後天皇制批判と微妙な連関があるように感じ、そのような観点から「三島による天皇論」を再検討する論考などに接することができればと思ったりもしました。

余談ながら、三島由紀夫の作品群のあらすじなどをWeb上で読んでいたところ、代表作(人気作品)の一つである「潮騒」の内容が、その雰囲気も含めて、前年に読んだ司馬遼太郎の「菜の花の沖」の冒頭部分(高田屋嘉兵衛と妻おふさとのなれそめの下り)とそっくりだと感じました。

菜の花の沖は1979年から執筆された作品ですので、ひょっとしたら司馬氏は潮騒から強い影響を受けて、二人の馴れ初めを書いたのかもしれません。

ともあれ、大澤氏が分析する「厄介で難解な三島由紀夫」も噛み応えがありますが、前回ご紹介した横山郁代氏が描いた「颯爽とした暖かい三島由紀夫」、言い換えれば、潮騒(≒菜の花の沖の第1巻?)のような瑞々しい青春小説を描くことができる三島由紀夫もまた、我々には、かけがえのない価値があるように思います。

そうした意味で、この二つの著作をワンセットで読むことも、大いに意義があるのではと思いました。

最後に、南伊豆から帰宅した直後に日焼けに苦しみながら作った替え歌を載せ、一連の投稿を締めくくることとします。

【真っ赤な僕】

真っ赤だな 真っ赤だな
日焼けのし過ぎで 真っ赤だな
全身痛いよ バッカだな
伊豆の日射しを 侮って
真っ赤に成り果てた 白い肌
バッカな僕を 自嘲している

真っ赤だな 真っ赤だな
クリーム塗らずに 真っ赤だな
風呂にも入れず バッカだな
焼け付く砂に 寝そべって
真っ赤な上半身 赤鬼さん
痛みは業の 深さぞと知る

真っ赤だな 真っ赤だな
きれいごとって 真っ赤だな
戦後の平和も 真っ赤だな
三島由紀夫が そう言って
真っ赤になり問うた この世界
真っ赤な嘘は まだそこにある

三島由紀夫が呼ぶ夏~南伊豆編その2~

南伊豆旅行編(2年前の夏)の2回目です。

前回あえて省きましたが、1日目の昼は、下田市内のどこで食べるか全く決めておらず、すでに1時半くらいになっていたこともあって、「コインパークに駐めて適当に決めれば良い」との家族の提案に従い、何も考えずに空いていた市街地の駐車場からペリーロードに向かって適当に歩き出しました。

すると、目の前の建物の2階にイタリア料理風のお店があり、「下田湾のペスカトーレ」などと地元料理風のメニューが書かれていたので、そそくさと、そのお店に入って注文し、まずまず美味しくいただきました。

私は食べるスピードが人より早いので、一人食べ終わったあと、家族が食べ終わるまでにお店の内装などを見回していたところ、カウンター近くに半裸の水着姿でショートヘアーで筋骨隆々とした姿を「これでもか」と見せようとする男性の写真が大きく写った書籍が展示されているのに気づきました。

この業界に身を置いていると、「半裸でショートヘアーで筋骨隆々の姿を自らアピールする男性」といえば、かの有名な岡口基一裁判官しか思い当たりませんので、

なぜ岡口さんがこんなところに?っていうか、写真集なんて出していたのか?

と驚いて手にとったところ、その男性は岡口裁判官ではなく、三島由紀夫でした。

私は、小説を読む習慣がほとんどなく、学生時代は少しは(罪と罰とか人間失格などの超著名本を少々)読みましたが、その程度で関心(執着)が終わってしまい、それ以外は、小説といえば、せいぜい司馬遼太郎(と新田次郎の孤高の人、井上靖の氷壁=登山系)くらいで、あとは全て新書本(論説文)しか読む習慣がなく、現在に至っています。

三島作品も業界人らしく?「宴のあと」は昔々読んだことがあり、率直に面白かったとの記憶はありますが、それ以外は読んでいません。本棚には、浪人時代に古本屋(多摩地区といえば伊藤書店)で購入した「仮面の告白」と「金閣寺」が今もありますが、他の多くの本と同様に眠ったままです。

もちろん、あまりにも有名な「三島事件」は知識としては知っていますし、日本文学史はもちろん思想史上も巨大な存在なのだろうという程度の認識はありましたが、私の出生前の出来事であり、その不可解さ(分かりにくさ)などもあって、敢えて関心を持たないようにしていたように思います。

ともあれ、そのように三島由紀夫について、さほどの事前知識も関心も持つことがなかった私ですが、下田まで来て三島由紀夫か、と不思議なものを感じて、その本を黙々と読んでいました。

その本(三島由紀夫の来た夏)は、三島由紀夫が晩年期の数年間、夏になると必ず家族と共に下田のホテルに長期滞留し伊豆の太陽と穏やかな暮らしを満喫して東京に戻っていく、という姿を描いたもので、三島がその味に感激してマドレーヌを買いにたびたび訪れていた洋菓子店の娘であり、当時は中学~高校生であった著者が、ささやかな三島との思い出を交えつつ、自身が「あの夏」と「自身では到底咀嚼できない三島の最期」を噛みしめながら、後年に米国に渡るなどして様々な事柄を経験し、それらを糧とし逞しく生きていく姿を描いて締めくくるものとなっています。

三島由紀夫の話もさることながら、著者の「おんな一代記」としても十分に読み応えのある本でした。
https://www.fusosha.co.jp/Books/detail/9784594063061

そして、私が取り憑かれたように?黙々と頁をめくっていると、お店の主人と思われる熟年女性が話しかけてきて、「それ、私が書いたものなんですよ」と仰ったので、非常に驚きました。

このお店(ポルトカーロというイタリア料理店)の1階には洋菓子店があり、著作で登場する「三島由紀夫が激賞したマドレーヌのお店(日新堂菓子店)」がそのお店で、著者である「女学生」は、今も、この建物で菓子店とレストランを営んでいる方だったのです。
http://www.at-s.com/gourmet/article/yoshoku/italian/126644.html
http://nisshindoshop.weebly.com/

そんなわけで、何か引き寄せられるようなものを強く感じ、ぜひということで、この本とマドレーヌを購入しましたが(お店でも人数分をいただきました)、このマドレーヌ、お世辞抜きで本当に非常に美味しいです。

そして、このご縁に惹かれるようにして宿で本を読み進めていくと、不思議なことに気づきました。今(旅行時)の私はちょうど三島由紀夫が旅立った年と同い年なのです。

冒頭に書いたとおり、今回、下田に来たのは、黒船絡みの観光と南伊豆の海を見るのが目的で、三島由紀夫という知識も想定も全くありませんでした。

それが、この年に、こうした形で巡り会うこと自体、何らかの「呼ばれた感」を抱かずにはいられないものがありました。そのせいか、この本を読むことに決めた瞬間、自分はこれまで、三島由紀夫という存在自体に、どことなく避けてきた面があるのでは、今こそその存在を見直すべきではと感じるようにもなりました。

そんなわけで、帰宅後も(肝心?の三島自身の著作が後回しになるのは相変わらずですが)wikiなどで三島関係の記事を読みまくり、自分なりに、この「事件(邂逅)」を咀嚼したいと思いました。

その続きは次回に少し書きますが、ともあれ、この出来事が、今回の南伊豆旅行の最大の収穫となりました。

余談ながら、改めて三島由紀夫と岡口裁判官(そして、三島事件と岡口裁判官事件)を比べると、このお二人(二つの事件)には、共通点が多いような気もします。この点は、可能であれば別の機会に。

 

******

というわけで、残りは、当時FBで書いたものを反復するだけの投稿になりますが、2日目は宿の近くの砂浜で読んだばかりの三島由紀夫の裸身を真似て、いい気になって浜辺で寝転んで過ごしました。

弓ヶ浜の焼けつく砂に寝転びて 
見上げる雲と空の深さよ

太陽が眩しいからと 
市ヶ谷で自決したのか あの才人は

打ち寄せる波に向かいて倒されて 
なすすべもなく身の丈を知る

 

その後、車で南下し石廊崎に向かいました。石廊崎は、大学時代に購入した伊豆のガイドブックで見つけて以来、いつか必ず行きたいと思っていた場所で、ようやく来ることができたと、その点は大満足でした。

石廊崎では最初に岬巡りの観光船に乗船した後(高波を理由に西側のメインコースが欠航とのことで、東側のサブコースとなりました)、ビジターセンターに移動しました。
http://izu-kamori.jp/izu-cruise/route/irouzaki.html

西側のコースは蓑掛岩という名勝(奇岩)を往復するものでしたが、海上に鋭い岩が屹立する蓑掛岩の姿は、浄土ヶ浜(剣山周辺)によく似ているように思いました。

また、石廊崎ビジターセンターの雰囲気も、浄土ヶ浜に最近できたビジターセンターに似ています。ただ、こちらの方が名物を提供する良好な飲食施設等も設置されているので、浄土ヶ浜よりも有り難みがあるように思いました(伊豆ゆえの集客力の違い、という点に尽きるかもしれませんが・・)。

また、石廊崎の石室神社を沖から眺めると、司馬遼太郎の「菜の花の沖」で、外洋に漕ぎ出したばかりの高田屋嘉兵衛が岬の神様を洋上から遙拝する光景が思い起こされます。

石廊崎の先端では、どのようなご事情かは存じませんが、白い衣装を纏った女性が一心不乱に祈りを捧げている姿を拝見しました。

ともあれ、いつかは来たいと思った大学時代から約25年、我ながら、よくぞここまで、このような人生を歩むことができたものだとしみじみ感じて一句。

幾年月たたかう人に慰労崎

 

そして、夕方に最終目的地・西伊豆きっての名勝(奇勝)・千貫門に到着し、無事に全行程を終えました。

旅をして千貫文また消えゆけど 
家族と過ごす日々はプライスレス

おまけ。

弓ヶ浜の焼けつく砂に寝転びて
いたいよ いたいよ 全身いたいよ~